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 3橋姫(明融臨模本)3 
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 7渋谷栄一校訂(C)(ver.1-2-2)7 
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橋姫

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 11薫君の宰相中将時代二十二歳秋から十月までの物語
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 13 [主要登場人物]
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 薫<かおる>
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呼称---宰相中将・中将・中将の君、源氏の子
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 17
 匂宮<におうのみや>
17 
 18
呼称---三の宮・宮、今上帝の第三親王
18 
 19
 八の宮<はちのみや>
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 20
呼称---古宮・宮・親王・俗聖・聖、桐壺帝の第八親王
20 
 21
 大君<おおいきみ>
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 22
呼称---女君・姫君、八の宮の長女
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 23
 中君<なかのきみ>
23 
 24
呼称---若君・君、八の宮の二女
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 25
 冷泉院<れいぜいいん>
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 26
呼称---帝・院・院の帝、桐壺帝の第十皇子
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 今上帝<きんじょうてい>
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呼称---内裏、朱雀院の皇子
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 女三の宮<おんなさんのみや>
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呼称---入道の宮、薫の母宮
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 弁の尼君<べんのあまぎみ>
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呼称---弁の君・老い人・古人・古者、柏木の乳母の娘
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 35第一章 宇治八の宮の物語 隠遁者八の宮
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 36
36 
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  • 八の宮の家系と家族---そのころ、世に数まへられたまはぬ古宮おはしけり
  • 37 
     38
  • 八の宮と娘たちの生活---「あり経るにつけても、いとはしたなく
  • 38 
     39
  • 八の宮の仏道精進の生活---さすがに、広くおもしろき宮の、池、山などの
  • 39 
     40
  • ある春の日の生活---春のうららかなる日影に、池の水鳥どもの
  • 40 
     41
  • 八の宮の半生と宇治へ移住---父帝にも女御にも、疾く後れきこえたまひて
  • 41 
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     43第二章 宇治八の宮の物語 薫、八の宮と親交を結ぶ
    43 
     44
    44 
     45
  • 八の宮、阿闍梨に師事---いとど、山重なれる御住み処に、尋ね参る人なし
  • 45 
     46
  • 冷泉院にて阿闍梨と薫語る---この阿闍梨は、冷泉院にも親しくさびらひて
  • 46 
     47
  • 阿闍梨、八の宮に薫を語る---中将の君、なかなか、親王の思ひ澄ましたまへらむ御心ばへを
  • 47 
     48
  • 薫、八の宮と親交を結ぶ---げに、聞きしよりもあはれに、住まひたまへるさまより
  • 48 
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     50第三章 薫の物語 八の宮の娘たちを垣間見る
    50 
     51
    51 
     52
  • 晩秋に薫、宇治へ赴く---秋の末つ方、四季にあててしたまふ御念仏を
  • 52 
     53
  • 宿直人、薫を招き入れる---しばし聞かまほしきに、忍びたまへど、御けはひしるく
  • 53 
     54
  • 薫、姉妹を垣間見る---あなたに通ふべかめる透垣の戸を、すこし押し開けて
  • 54 
     55
  • 薫、大君と御簾を隔てて対面---かく見えやしぬらむとは思しも寄らで
  • 55 
     56
  • 老女房の弁が応対---たとしへなくさし過ぐして、「あな、かたじけなや
  • 56 
     57
  • 老女房の弁の昔語り---この老い人はうち泣きぬ。「さし過ぎたる罪もやと
  • 57 
     58
  • 薫、大君と和歌を詠み交して帰京---峰の八重雲、思ひやる隔て多く、あはれなるに
  • 58 
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  • 薫、宇治へ手紙を書く---老い人の物語、心にかかりて思し出でらる
  • 59 
     60
  • 薫、匂宮に宇治の姉妹を語る---君は、姫君の御返りこと、いとめやすく子めかしきを
  • 60 
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     62第四章 薫の物語 薫、出生の秘密を知る
    62 
     63
    63 
     64
  • 十月初旬、薫宇治へ赴く---十月になりて、五、六日のほどに、宇治へ参うでたまふ
  • 64 
     65
  • 薫、八の宮の娘たちの後見を承引---「このわたりに、おぼえなくて、折々ほのめく
  • 65 
     66
  • 薫、弁の君の昔語りの続きを聞く---さて、暁方の、宮の御行ひしたまふほどに
  • 66 
     67
  • 薫、父柏木の最期を聞く---「空しうなりたまひし騷ぎに、母にはべりし人は
  • 67 
     68
  • 薫、形見の手紙を得る---ささやかにおし巻き合はせたる反故どもの、黴臭きを
  • 68 
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  • 薫、父柏木の遺文を読む---帰りたまひて、まづこの袋を見たまへば、唐の浮線綾
  • 69 
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    71 
     72【出典】
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     73【校訂】
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     75 

    第一章 宇治八の宮の物語 隠遁者八の宮

    75 
     76 [第一段 八の宮の家系と家族]
    76 
     77 そのころ、世に数まへられたまはぬ古宮おはしけり。母方なども、やむごとなくものしたまひて、筋異なるべきおぼえなどおはしけるを、時移りて、世の中にはしたなめられたまひける紛れに、なかなかいと名残なく、御後見などももの恨めしき心々にて、かたがたにつけて、世を背き去りつつ、公私に拠り所なく、さし放たれたまへるやうなり。
    77 
     78 北の方も、昔の大臣の御女なりける、あはれに心細く、親たちの思しおきてたりしさまなど思ひ出でたまふに、たとしへなきこと多かれど、古き御契りの二つなきばかりを、憂き世の慰めにて、かたみにまたなく頼み交はしたまへり。
    78 
     79 年ごろ経るに、御子ものしたまはで心もとなかりければ、さうざうしくつれづれる慰めに、「いかで、をかしからむ稚児もがな」と、宮ぞ時々思しのたまひけるに、めづらしく、女君のいとうつくしげなる、生まれたまへり。
    79 
     80 これを限りなくあはれと思ひかしづききこえたまふに、さし続きけしきばみたまひて、「このたびは男にても」など思したるに、同じさまにて、平らかにはしたまひながら、いといたくわづらひて亡せたまひぬ。宮、あさましう思し惑ふ。
    80 
     81

    81 
     82 [第二段 八の宮と娘たちの生活]
    82 
     83 「あり経るにつけても、いとはしたなく、堪へがたきこと多かる世なれど、見捨てがたくあはれなる人の御ありさま、心ざまに、かけとどめらるるほだしにてこそ、過ぐし来つれ、一人とまりて、いとどすさまじくもあるべきかな。いはけなき人びとをも、一人はぐくみ立てむほど、限りある身にて、いとをこがましう、人悪ろかるべきこと」
    83 
     84 と思し立ちて、本意も遂げまほしうしたまひけれど、見譲る方なくて残しとどめむを、いみじう思したゆたひつつ、年月も経れば、おのおのおよすけまさりたまふさま、容貌の、うつくしうあらまほしきを、明け暮れの御慰めにて、おのづから見過ぐしたまふ。
    84 
     85 後に生まれたまひし君をば、さぶらふ人びとも、「いでや、折ふし心憂く」など、うちつぶやきつつ、心に入れても扱ひきこえざりけれど、限りのさまにて、何ごとも思し分かざりしほどながら、これをいと心苦しと思ひて、
    85 
     86 「ただ、この君を形見に見たまひて、あはれと思せ」
    86 
     87 とばかり、ただ一言なむ、宮に聞こえ置きたまひければ、前の世の契りもつらき折ふしなれど、「さるべきにこそはありけめと、今はと見えしまで、いとあはれと思ひて、うしろめたげにのたまひしを」と、思し出でつつ、この君をしも、いとかなしうしたてまつりたまふ。容貌なむまことにいとうつくしう、ゆゆしきまでものしたまひける。
    87 
     88 姫君は、心ばせ静かによしある方にて、見る目もてなしも、気高く心にくきさまぞしたまへる。いたはしくやむごとなき筋はまさりて、いづれをも、さまざまに思ひかしづききこえたまへど、かなはぬこと多く、年月に添へて、宮の内も寂しくのみなりまさる。
    88 
     89 さぶらひし人も、たつきなき心地するに、え忍びあへず、次々に従ひてまかで散りつつ、若君の御乳母も、さる騷ぎに、はかばかしき人をしも、選りあへたまはざりければ、ほどにつけたる心浅さにて、幼きほどを見捨てたてまつりにければ、ただ宮ぞはぐくみたまふ。
    89 
     90

    90 
     91 [第三段 八の宮の仏道精進の生活]
    91 
     92 さすがに、広くおもしろき宮の、池、山などのけしきばかり昔に変はらで、いといたう荒れまさるを、つれづれと眺めたまふ。
    92 
     93 家司なども、むねむねしき人もなきままに、草青やかに繁り、軒のしのぶぞ、所え顔に青みわたれる。折々につけたる花紅葉の、色をも香をも、同じ心に見はやしたまひしにこそ、慰むことも多かりけれ、いとどしく寂しく、寄りつかむ方なきままに、持仏の御飾りばかりを、わざとせさせたまひて、明け暮れ行ひたまふ。
    93 
     94 かかるほだしどもにかかづらふだに、思ひの外に口惜しう、「わが心ながらもかなはざりける契り」とおぼゆるを、まいて、「何にか、世の人めいて今さらに」とのみ、年月に添へて、世の中を思し離れつつ、心ばかりは聖になり果てたまひて、故君の亡せたまひにしこなたは、例の人のさまなる心ばへなど、たはぶれにても思し出でたまはざりけり。
    94 
     95 「などか、さしも。別るるほどの悲しびは、また世にたぐひなきやうにのみこそは、おぼゆべかめれど、あり経れば、さのみやは。なほ、世人になずらふ御心づかひをしたまひて、いとかく見苦しく、たつきなき宮の内も、おのづからもてなさるるわざもや」
    95 
     96 と、人はもどききこえて、何くれと、つきづきしく聞こえごつことも、類にふれて多かれど、聞こしめし入れざりけり。
    96 
     97 御念誦のひまひまには、この君たちをもてあそび、やうやうおよすけたまへば、琴習はし、碁打ち、偏つきなど、はかなき御遊びわざにつけても、心ばへどもを見たてまつりたまふに、姫君は、らうらうじく、深く重りかに見えたまふ。若君は、おほどかにらうたげなるさまして、ものづつみしたるけはひに、いとうつくしう、さまざまにおはす。
    97 
     98

    98 
     99 [第四段 ある春の日の生活]
    99 
     100 春のうららかなる日影に、池の水鳥どもの、羽うち交はしつつ、おのがじしさへづる声などを、常は、はかなきことに見たまひしかども、つがひ離れぬをうらやましく眺めたまひて、君たちに、御琴ども教へきこえたまふ。いとをかしげに、小さき御ほどに、とりどり掻き鳴らしたまふ物の音ども、あはれにをかしく聞こゆれば、涙を浮けたまひて、
    100 
     101 「うち捨ててつがひ去りにし水鳥の
    101 
     102  仮のこの世にたちおくれけむ
    102 
     103 心尽くしなりや」
    103 
     104 と、目おし拭ひたまふ。容貌いときよげにおはします宮なり。年ごろの御行ひにやせ細りたまひにたれど、さてしも、あてになまめきて、君たちをかしづきたまふ御心ばへに、直衣の萎えばめるを着たまひて、しどけなき御さま、いと恥づかしげなり。
    104 
     105 姫君、御硯をやをらひき寄せて、手習のやうに書き混ぜたまふを、
    105 
     106 「これに書きたまへ。硯には書きつけざなり」
    106 
     107 とて、紙たてまつりたまへば、恥ぢらひて書きたまふ。
    107 
     108 「いかでかく巣立ちけるぞと思ふにも
    108 
     109  憂き水鳥の契りをぞ知る」
    109 
     110 よからねど、その折は、いとあはれなりけり。手は、生ひ先見えて、まだよくも続けたまはぬほどなり。
    110 
     111 「若君も書きたまへ」
    111 
     112 とあれば、今すこし幼げに、久しく書き出でたまへり。
    112 
     113 「泣く泣くも羽うち着する君なくは
    113 
     114  われぞ巣守になりは果てまし」
    114 
     115 御衣どもなど萎えばみて、御前にまた人もなく、いと寂しくつれづれげなるに、さまざまいとらうたげにてものしたまふを、あはれに心苦しう、いかが思さざらむ。経を片手に持たまひて、かつ読みつつ唱歌をしたまふ。
    115 
     116 姫君に琵琶、若君に箏の御琴、まだ幼けれど、常に合はせつつ習ひたまへば、聞きにくくもあらで、いとをかしく聞こゆ。
    116 
     117

    117 
     118 [第五段 八の宮の半生と宇治へ移住]
    118 
     119 父帝にも女御にも、疾く後れきこえたまひて、はかばかしき御後見の、取り立てたるおはせざりければ、才など深くもえ習ひたまはず、まいて、世の中に住みつく御心おきては、いかでかは知りたまはむ。高き人と聞こゆる中にも、あさましうあてにおほどかなる、女のやうにおはすれば、古き世の御宝物、祖父大臣の御処分、何やかやと尽きすまじかりけれど、行方もなくはかなく失せ果てて、御調度などばかりなむ、わざとうるはしくて多かりける。
    119 
     120 参り訪らひきこえ、心寄せたてまつる人もなし。つれづれなるままに、雅楽寮の物の師どもなどやうの、すぐれたるを召し寄せつつ、はかなき遊びに心を入れて、生ひ出でたまへれば、その方は、いとをかしうすぐれたまへり。
    120 
     121 源氏の大殿の御弟におはせしを、冷泉院の春宮におはしましし時、朱雀院の大后の、横様に思し構へて、この宮を、世の中に立ち継ぎたまふべく、わが御時、もてかしづきたてまつりける騷ぎに、あいなく、あなたざまの御仲らひには、さし放たれたまひにければ、いよいよかの御つぎつぎになり果てぬる世にて、え交じらひたまはず。また、この年ごろ、かかる聖になり果てて、今は限りと、よろづを思し捨てたり。
    121 
     122 かかるほどに、住みたまふ宮焼けにけり。いとどしき世に、あさましうあへなくて、移ろひ住みたまふべき所の、よろしきもなかりければ、宇治といふ所に、よしある山里持たまへりけるに渡りたまふ。思ひ捨てたまへる世なれども、今はと住み離れなむをあはれに思さる。
    122 
     123 網代のけはひ近く、耳かしかましき川のわたりにて、静かなる思ひにかなはぬ方もあれど、いかがはせむ。花紅葉、水の流れにも、心をやる便によせて、いとどしく眺めたまふより他のことなし。かく絶え籠もりぬる野山の末にも、「昔の人ものしたまはましかば」と、思ひきこえたまはぬ折なかりけり。
    123 
     124 「見し人も宿も煙になりにしを
    124 
     125  何とてわが身消え残りけむ」
    125 
     126 生けるかひなくぞ、思し焦がるるや。
    126 
     127

    127 
     128 

    第二章 宇治八の宮の物語 薫、八の宮と親交を結ぶ

    128 
     129 [第一段 八の宮、阿闍梨に師事]
    129 
     130 いとど、山重なれる御住み処に、尋ね参る人なし。あやしき下衆など、田舎びたる山賤どものみ、まれに馴れ参り仕うまつる。峰の朝霧晴るる折なくて、明かし暮らしたまふに、この宇治山に、聖だちたる阿闍梨住みけり。
    130 
     131 才いとかしこくて、世のおぼえも軽からねど、をさをさ公事にも出で仕へず、籠もりゐたるに、この宮の、かく近きほどに住みたまひて、寂しき御さまに、尊きわざをせさせたまひつつ、法文を読みならひたまへば、尊がりきこえて、常に参る。
    131 
     132 年ごろ学び知りたまへることどもの、深き心を解き聞かせたてまつり、いよいよこの世のいとかりそめに、あぢきなきことを申し知らすれば、
    132 
     133 「心ばかりは蓮の上に思ひのぼり、濁りなき池にも住みぬべきを、いとかく幼き人びとを見捨てむうしろめたさばかりになむ、えひたみちに容貌をも変へぬ」
    133 
     134 など、隔てなく物語したまふ。
    134 
     135

    135 
     136 [第二段 冷泉院にて阿闍梨と薫語る]
    136 
     137 この阿闍梨は、冷泉院にも親しくさびらひて、御経など教へきこゆる人なりけり。京に出でたるついでに参りて、例の、さるべき文など御覧じて、問はせたまふこともあるついでに、
    137 
     138 「八の宮の、いとかしこく、内教の御才悟り深くものしたまひけるかな。さるべきにて、生まれたまへる人にやものしたまふらむ。心深く思ひ澄ましたまへるほど、まことの聖のおきてになむ見えたまふ」と聞こゆ。
    138 
     139 「いまだ容貌は変へたまはずや。俗聖とか、この若き人びとの付けたなる、あはれなることなり」などのたまはす。
    139 
     140 宰相中将も、御前にさぶらひたまひて、「われこそ、世の中をばいとすさまじう思ひ知りながら、行ひなど、人に目とどめらるばかりは勤めず、口惜しくて過ぐし来れ」と、人知れず思ひつつ、「俗ながら聖になりたまふ心のおきてやいかに」と、耳とどめて聞きたまふ。
    140 
     141 「出家の心ざしは、もとよりものしたまへるを、はかなきことに思ひとどこほり、今となりては、心苦しき女子どもの御上を、え思ひ捨てぬとなむ、嘆きはべりたうぶ」と奏す。
    141 
     142 さすがに、物の音めづる阿闍梨にて、
    142 
     143 「げに、はた、この姫君たちの、琴弾き合はせて遊びたまへる、川波にきほひて聞こえはべるは、いとおもしろく、極楽思ひやられはべるや」
    143 
     144 と、古体にめづれば、帝ほほ笑みたまひて、
    144 
     145 「さる聖のあたりに生ひ出でて、この世の方ざまは、たどたどしからむと推し量らるるを、をかしのことや。うしろめたく、思ひ捨てがたく、もてわづらひたまふらむを、もし、しばしも後れむほどは、譲りやはしたまはぬ」
    145 
     146 などぞのたまはする。この院の帝は、十の御子にぞおはしましける。朱雀院の、故六条院に預けきこえたまひし、入道宮の御例を思ほし出でて、「かの君たちをがな。つれづれなる遊びがたきに」などうち思しけり。
    146 
     147

    147 
     148 [第三段 阿闍梨、八の宮に薫を語る]
    148 
     149 中将の君、なかなか、親王の思ひ澄ましたまへらむ御心ばへを、「対面して、見たてまつらばや」と思ふ心ぞ深くなりぬる。さて阿闍梨の帰り入るにも、
    149 
     150 「かならず参りて、もの習ひきこゆべく、まづうちうちにも、けしき賜はりたまへ」
    150 
     151 など語らひたまふ。
    151 
     152 帝の、御言伝にて、「あはれなる御住まひを、人伝てに聞くこと」など聞こえたまうて、
    152 
     153 「世を厭ふ心は山にかよへども
    153 
     154  八重立つ雲を君や隔つる」
    154 
     155 阿闍梨、この御使を先に立てて、かの宮に参りぬ。なのめなる際の、さるべき人の使だにまれなる山蔭に、いとめづらしく、待ちよろこびたまうて、所につけたる肴などして、さる方にもてはやしたまふ。御返し、
    155 
     156 「あと絶えて心澄むとはなけれども
    156 
     157  世を宇治山に宿をこそ借れ」
    157 
     158 聖の方をば卑下して聞こえなしたまへれば、「なほ、世に恨み残りける」と、いとほしく御覧ず。
    158 
     159 阿闍梨、中将の、道心深げにものしたまふなど、語りきこえて、
    159 
     160 「法文などの心得まほしき心ざしなむ、いはけなかりし齢より深く思ひながら、えさらず世にあり経るほど、公私に暇なく明け暮らし、わざととぢ籠もりて習ひ読み、おほかたはかばかしくもあらぬ身にしも、世の中を背き顔ならむも、憚るべきにあらねど、おのづからうちたゆみ、紛らはしくてなむ過ぐし来るを、いとありがたき御ありさまを承り伝へしより、かく心にかけてなむ、頼みきこえさする、など、ねむごろに申したまひし」など語りきこゆ。
    160 
     161 宮、
    161 
     162 「世の中をかりそめのことと思ひ取り、厭はしき心のつきそむることも、わが身に愁へある時、なべての世も恨めしう思ひ知る初めありてなむ、道心も起こるわざなめるを、年若く、世の中思ふにかなひ、何ごとも飽かぬことはあらじとおぼゆる身のほどに、さはた、後の世をさへ、たどり知りたまふらむがありがたさ。
    162 
     163 ここには、さべきにや、ただ厭ひ離れよと、ことさらに仏などの勧めおもむけたまふやうなるありさまにて、おのづからこそ、静かなる思ひかなひゆけど、残り少なき心地するに、はかばかしくもあらで、過ぎぬべかめるを、来し方行く末、さらに得たるところなく思ひ知らるるを、かへりては、心恥づかしげなる法の友にこそは、ものしたまふなれ」
    163 
     164 などのたまひて、かたみに御消息通ひ、みづからも参うでたまふ。
    164 
     165

    165 
     166 [第四段 薫、八の宮と親交を結ぶ]
    166 
     167 げに、聞きしよりもあはれに、住まひたまへるさまよりはじめて、いと仮なる草の庵に、思ひなし、ことそぎたり。同じき山里といへど、さる方にて心とまりぬべく、のどやかなるもあるを、いと荒ましき水の音、波の響きに、もの忘れうちし、夜など、心解けて夢をだに見るべきほどもなげに、すごく吹き払ひたり。
    167 
     168 「聖だちたる御ために、かかるしもこそ、心とまらぬもよほしならめ、女君たち、何心地して過ぐしたまふらむ。世の常の女しくなよびたる方は、遠くや」と推し量らるる御ありさまなり。
    168 
     169 仏の御隔てに、障子ばかりを隔ててぞおはすべかめる。好き心あらむ人は、けしきばみ寄りて、人の御心ばへをも見まほしう、さすがにいかがと、ゆかしうもある御けはひなり。
    169 
     170 されど、「さる方を思ひ離るる願ひに、山深く尋ねきこえたる本意なく、好き好きしきなほざりごとをうち出であざればまむも、ことに違ひてや」など思ひ返して、宮の御ありさまのいとあはれなるを、ねむごろにとぶらひきこえたまひ、たびたび参りたまひつつ、思ひしやうに、優婆塞ながら行ふ山の深き心、法文など、わざとさかしげにはあらで、いとよくのたまひ知らす。
    170 
     171 聖だつ人、才ある法師などは、世に多かれど、あまりこはごはしう、気遠げなる宿徳の僧都、僧正の際は、世に暇なくきすくにて、ものの心を問ひあらはさむも、ことことしくおぼえたまふ。
    171 
     172 また、その人ならぬ仏の御弟子の、忌むことを保つばかりの尊さはあれど、けはひ卑しく言葉たみて、こちなげにもの馴れたる、いとものしくて、昼は、公事に暇なくなどしつつ、しめやかなる宵のほど、気近き御枕上などに召し入れ語らひたまふにも、いとさすがにものむつかしうなどのみあるを、いとあてに、心苦しきさまして、のたまひ出づる言の葉も、同じ仏の御教へをも、耳近きたとひにひきまぜ、いとこよなく深き御悟りにはあらねど、よき人は、ものの心を得たまふ方の、いとことにものしたまひければ、やうやう見馴れたてまつりたまふたびごとに、常に見たてまつらまほしうて、暇なくなどしてほど経る時は、恋しくおぼえたまふ。
    172 
     173 この君の、かく尊がりきこえたまへれば、冷泉院よりも、常に御消息などありて、年ごろ、音にもをさをさ聞こえたまはず、寂しげなりし御住み処、やうやう人目見る時々あり。折ふしに、訪らひきこえたまふこと、いかめしう、この君も、まづさるべきことにつけつつ、をかしきやうにも、まめやかなるさまにも、心寄せ仕うまつりたまふこと、三年ばかりになりぬ。
    173 
     174

    174 
     175 

    第三章 薫の物語 八の宮の娘たちを垣間見る

    175 
     176 [第一段 晩秋に薫、宇治へ赴く]
    176 
     177 秋の末つ方、四季にあててしたまふ御念仏を、この川面は、網代の波も、このころはいとど耳かしかましく静かならぬを、とて、かの阿闍梨の住む寺の堂に移ろひたまひて、七日のほど行ひたまふ。姫君たちは、いと心細く、つれづれまさりて眺めたまひけるころ、中将の君、久しく参らぬかなと、思ひ出できこえたまひけるままに、有明の月の、まだ夜深くさし出づるほどに出で立ちて、いと忍びて、御供に人などもなくて、やつれておはしけり。
    177 
     178 川のこなたなれば、舟などもわづらはで、御馬にてなりけり。入りもてゆくままに、霧りふたがりて、道も見えぬ繁木の中を分けたまふに、いと荒ましき風のきほひに、ほろほろと落ち乱るる木の葉の露の散りかかるも、いと冷やかに、人やりならずいたく濡れたまひぬ。かかるありきなども、をさをさならひたまはぬ心地に、心細くをかしく思されけり。
    178 
     179 「山おろしに耐へぬ木の葉の露よりも
    179 
     180  あやなくもろきわが涙かな」
    180 
     181 山賤のおどろくもうるさしとて、随身の音もせさせたまはず。柴の籬を分けて、そこはかとなき水の流れどもを踏みしだく駒の足音も、なほ、忍びてと用意したまへるに、隠れなき御匂ひぞ、風に従ひて、主知らぬ香とおどろく寝覚めの家々ありける。
    181 
     182 近くなるほどに、その琴とも聞き分かれぬ物の音ども、いとすごげに聞こゆ。「常にかく遊びたまふと聞くを、ついでなくて、宮の御琴の音の名高きも、え聞かぬぞかし。よき折なるべし」と思ひつつ入りたまへば、琵琶の声の響きなりけり。「黄鐘調」に調べて、世の常の掻き合はせなれど、所からにや、耳馴れぬ心地して、掻き返す撥の音も、ものきよげにおもしろし。箏の琴、あはれになまめいたる声して、たえだえ聞こゆ。
    182 
     183

    183 
     184 [第二段 宿直人、薫を招き入れる]
    184 
     185 しばし聞かまほしきに、忍びたまへど、御けはひしるく聞きつけて、宿直人めく男、なまかたくなしき、出で来たり。
    185 
     186 「しかしかなむ籠もりおはします。御消息をこそ聞こえさせめ」と申す。
    186 
     187 「何か。しか限りある御行ひのほどを、紛らはしきこえさせむにあいなし。かく濡れ濡れ参りて、いたづらに帰らむ愁へを、姫君の御方に聞こえて、あはれとのたまはせばなむ、慰むべき」
    187 
     188 とのたまへば、醜き顔うち笑みて、
    188 
     189 「申させはべらむ」とて立つを、
    189 
     190 「しばしや」と召し寄せて、
    190 
     191 「年ごろ、人伝てにのみ聞きて、ゆかしく思ふ御琴の音どもを、うれしき折かな。しばし、すこしたち隠れて聞くべきものの隈ありや。つきなくさし過ぎて参り寄らむほど、皆琴やめたまひては、いと本意なからむ」
    191 
     192 とのたまふ。御けはひ、顔容貌の、さるなほなほしき心地にも、いとめでたくかたじけなくおぼゆれば、
    192 
     193 「人聞かぬ時は、明け暮れかくなむ遊ばせど、下人にても、都の方より参り、立ちまじる人はべる時は、音もせさせたまはず。おほかた、かくて女たちおはしますことをば隠させたまひ、なべての人に知らせたてまつらじと、思しのたまはするなり」
    193 
     194 と申せば、うち笑ひて、
    194 
     195 「あぢきなき御もの隠しなり。しか忍びたまふなれど、皆人、ありがたき世の例に、聞き出づべかめるを」とのたまひて、「なほ、しるべせよ。われは、好き好きしき心など、なき人ぞ。かくておはしますらむ御ありさまの、あやしく、げに、なべてにおぼえたまはぬなり」
    195 
     196 とこまやかにのたまへば、
    196 
     197 「あな、かしこ。心なきやうに、後の聞こえやはべらむ」
    197 
     198 とて、あなたの御前は、竹の透垣しこめて、皆隔てことなるを、教へ寄せたてまつれり。御供の人は、西の廊に呼び据ゑて、この宿直人あひしらふ。
    198 
     199

    199 
     200 [第三段 薫、姉妹を垣間見る]
    200 
     201 あなたに通ふべかめる透垣の戸を、すこし押し開けて見たまへば、月をかしきほどに霧りわたれるを眺めて、簾を短く巻き上げて、人びとゐたり。簀子に、いと寒げに、身細く萎えばめる童女一人、同じさまなる大人などゐたり。内なる人一人、柱に少しゐ隠れて、琵琶を前に置きて、撥を手まさぐりにしつつゐたるに、雲隠れたりつる月の、にはかにいと明くさし出でたれば、
    201 
     202 「扇ならで、これしても、月は招きつべかりけり」
    202 
     203 とて、さしのぞきたる顔、いみじくらうたげに匂ひやかなるべし。
    203 
     204 添ひ臥したる人は、琴の上に傾きかかりて、
    204 
     205 「入る日を返す撥こそありけれ、さま異にも思ひ及びたまふ御心かな」
    205 
     206 とて、うち笑ひたるけはひ、今少し重りかによしづきたり。
    206 
     207 「及ばずとも、これも月に離るるものかは」
    207 
     208 など、はかなきことを、うち解けのたまひ交はしたるけはひども、さらによそに思ひやりしには似ず、いとあはれになつかしうをかし。
    208 
     209 「昔物語などに語り伝へて、若き女房などの読むをも聞くに、かならずかやうのことを言ひたる、さしもあらざりけむ」と、憎く推し量らるるを、「げに、あはれなるものの隈ありぬべき世なりけり」と、心移りぬべし。
    209 
     210 霧の深ければ、さやかに見ゆべくもあらず。また、月さし出でなむと思すほどに、奥の方より、「人おはす」と告げきこゆる人やあらむ、簾下ろして皆入りぬ。おどろき顔にはあらず、なごやかにもてなして、やをら隠れぬるけはひども、衣の音もせず、いとなよよかに心苦しくて、いみじうあてにみやびかなるを、あはれと思ひたまふ。
    210 
     211 やをら出でて、京に、御車率て参るべく、人走らせつ。ありつる侍に、
    211 
     212 「折悪しく参りはべりにけれど、なかなかうれしく、思ふことすこし慰めてなむ。かくさぶらふよし聞こえよ。いたう濡れにたるかことも聞こえさせむかし」
    212 
     213 とのたまへば、参りて聞こゆ。
    213 
     214

    214 
     215 [第四段 薫、大君と御簾を隔てて対面]
    215 
     216 かく見えやしぬらむとは思しも寄らで、うちとけたりつることどもを、聞きやしたまひつらむと、いといみじく恥づかし。あやしく、香うばしく匂ふ風の吹きつるを、思ひかけぬほどなれば、「驚かざりける心おそさよ」と、心も惑ひて、恥ぢおはさうず。
    216 
     217 御消息など伝ふる人も、いとうひうひしき人なめるを、「折からにこそ、よろづのことも」と思いて、まだ霧の紛れなれば、ありつる御簾の前に歩み出でて、ついゐたまふ。
    217 
     218 山里びたる若人どもは、さしいらへむ言の葉もおぼえで、御茵さし出づるさまも、たどたどしげなり。
    218 
     219 「この御簾の前には、はしたなくはべりけり。うちつけに浅き心ばかりにては、かくも尋ね参るまじき山のかけ路に思うたまふるを、さま異にこそ。かく露けき度を重ねては、さりとも、御覧じ知るらむとなむ、頼もしうはべる」
    219 
     220 と、いとまめやかにのたまふ。
    220 
     221 若き人びとの、なだらかにもの聞こゆべきもなく、消え返りかかやかしげなるも、かたはらいたければ、女ばらの奥深きを起こし出づるほど、久しくなりて、わざとめいたるも苦しうて、
    221 
     222 「何ごとも思ひ知らぬありさまにて、知り顔にも、いかばかりかは、聞こゆべく」
    222 
     223 と、いとよしあり、あてなる声して、ひき入りながらほのかにのたまふ。
    223 
     224 「かつ知りながら、憂きを知らず顔なるも、世のさがと思うたまへ知るを、一所しも、あまりおぼめかせたまふらむこそ、口惜しかるべけれ。ありがたう、よろづを思ひ澄ましたる御住まひなどに、たぐひきこえさせたまふ御心のうちは、何ごとも涼しく推し量られはべれば、なほ、かく忍びあまりはべる深さ浅さのほども、分かせたまはむこそ、かひははべらめ。
    224 
     225 世の常の好き好きしき筋には、思しめし放つべくや。さやうの方は、わざと勧むる人はべりとも、なびくべうもあらぬ心強さになむ。
    225 
     226 おのづから聞こしめし合はするやうもはべりなむ。つれづれとのみ過ぐしはべる世の物語も、聞こえさせ所に頼みきこえさせ、またかく、世離れて、眺めさせたまふらむ御心の紛らはしには、さしも、驚かせたまふばかり聞こえ馴れはべらば、いかに思ふさまにはべらむ」
    226 
     227 など、多くのたまへば、つつましく、いらへにくくて、起こしつる老い人の出で来たるにぞ、譲りたまふ。
    227 
     228

    228 
     229 [第五段 老女房の弁が応対]
    229 
     230 たとしへなくさし過ぐして、
    230 
     231 「あな、かたじけなや。かたはらいたき御座のさまにもはべるかな。御簾の内にこそ。若き人びとは、物のほど知らぬやうにはべるこそ」
    231 
     232 など、したたかに言ふ声のさだすぎたるも、かたはらいたく君たちは思す。
    232 
     233 「いともあやしく、世の中に住まひたまふ人の数にもあらぬ御ありさまにて、さもありぬべき人びとだに、訪らひ数まへきこえたまふも、見え聞こえずのみなりまさりはべるめるに、ありがたき御心ざしのほどは、数にもはべらぬ心にも、あさましきまで思ひたまへはべるを、若き御心地にも思し知りながら、聞こえさせたまひにくきにやはべらむ」
    233 
     234 と、いとつつみなくもの馴れたるも、なま憎きものから、けはひいたう人めきて、よしある声なれば、
    234 
     235 「いとたづきも知らぬ心地しつるに、うれしき御けはひにこそ。何ごとも、げに、思ひ知りたまひける頼み、こよなかりけり」
    235 
     236 とて、寄り居たまへるを、几帳の側より見れば、曙、やうやう物の色分かるるに、げに、やつしたまへると見ゆる狩衣姿の、いと濡れしめりたるほど、「うたて、この世の外の匂ひにや」と、あやしきまで薫り満ちたり。
    236 
     237

    237 
     238 [第六段 老女房の弁の昔語り]
    238 
     239 この老い人はうち泣きぬ。
    239 
     240 「さし過ぎたる罪もやと、思うたまへ忍ぶれど、あはれなる昔の御物語の、いかならむついでにうち出で聞こえさせ、片端をも、ほのめかし知ろしめさせむと、年ごろ念誦のついでにも、うち交ぜ思うたまへわたるしるしにや、うれしき折にはべるを、まだきにおぼほれはべる涙にくれて、えこそ聞こえさせずはべりけれ」
    240 
     241 と、うちわななくけしき、まことにいみじくもの悲しと思へり。
    241 
     242 おほかた、さだ過ぎたる人は、涙もろなるものとは見聞きたまへど、いとかうしも思へるも、あやしうなりたまひて、
    242 
     243 「ここに、かく参るをば、たび重なりぬるを、かくあはれ知りたまへる人もなくてこそ、露けき道のほどに、独りのみそほちつれ。うれしきついでなめるを、言な残いたまひそかし」とのたまへば、
    243 
     244 「かかるついでしも、はべらじかし。また、はべりとも、夜の間のほど知らぬ命の、頼むべきにもはべらぬを。さらば、ただ、かかる古者、世にはべりけりとばかり、知ろしめされはべらなむ。
    244 
     245 三条の宮にはべりし小侍従、はかなくなりはべりにけると、ほの聞きはべりし。そのかみ、睦ましう思うたまへし同じほどの人、多く亡せはべりにける世の末に、はるかなる世界より伝はりまうで来て、この五、六年のほどなむ、これにかくさぶらひはべる。
    245 
     246 知ろしめさじかし。このころ、藤大納言と申すなる御兄の、右衛門の督にて隠れたまひにしは、物のついでなどにや、かの御上とて、聞こしめし伝ふることもはべらむ。
    246 
     247 過ぎたまひて、いくばくも隔たらぬ心地のみしはべる。その折の悲しさも、まだ袖の乾く折はべらず思うたまへらるるを、かくおとなしくならせたまひにける御齢のほども、夢のやうになむ。
    247 
     248 かの権大納言の御乳母にはべりしは、弁が母になむはべりし。朝夕に仕うまつり馴れはべりしに、人数にもはべらぬ身なれど、人に知らせず、御心よりはた余りけることを、折々うちかすめのたまひしを、今は限りになりたまひにし御病の末つ方に、召し寄せて、いささかのたまひ置くことなむはべりしを、聞こしめすべきゆゑなむ、一事はべれど、かばかり聞こえ出ではべるに、残りをと思しめす御心はべらば、のどかになむ、聞こしめし果てはべるべき。若き人びとも、かたはらいたく、さし過ぎたりと、つきじろひはべるも、ことわりになむ」
    248 
     249 とて、さすがにうち出でずなりぬ。
    249 
     250 あやしく、夢語り、巫女やうのものの、問はず語りすらむやうに、めづらかに思さるれど、あはれにおぼつかなく思しわたることの筋を聞こゆれば、いと奥ゆかしけれど、げに、人目もしげし、さしぐみに古物語にかかづらひて、夜を明かし果てむも、こちごちしかるべければ、
    250 
     251 「そこはかと思ひ分くことは、なきものから、いにしへのことと聞きはべるも、ものあはれになむ。さらば、かならずこの残り聞かせたまへ。霧晴れゆかば、はしたなかるべきやつれを、面なく御覧じとがめられぬべきさまなれば、思うたまふる心のほどよりは、口惜しうなむ」
    251 
     252 とて、立ちたまふに、かのおはします寺の鐘の声、かすかに聞こえて、霧いと深くたちわたれり。
    252 
     253

    253 
     254 [第七段 薫、大君と和歌を詠み交して帰京]
    254 
     255 峰の八重雲、思ひやる隔て多く、あはれなるに、なほ、この姫君たちの御心のうちども心苦しう、「何ごとを思し残すらむ。かく、いと奥まりたまへるも、ことわりぞかし」などおぼゆ。
    255 
     256 「あさぼらけ家路も見えず尋ね来し
    256 
     257  槙の尾山は霧こめてけり
    257 
     258 心細くもはべるかな」
    258 
     259 と、立ち返りやすらひたまへるさまを、都の人の目馴れたるだに、なほ、いとことに思ひきこえたるを、まいて、いかがはめづらしう見きこえざらむ。御返り聞こえ伝へにくげに思ひたれば、例の、いとつつましげにて、
    259 
     260 「雲のゐる峰のかけ路を秋霧の
    260 
     261  いとど隔つるころにもあるかな」
    261 
     262 すこしうち嘆いたまへるけしき、浅からずあはれなり。
    262 
     263 何ばかりをかしきふしは見えぬあたりなれど、げに、心苦しきこと多かるにも、明うなりゆけば、さすがにひた面なる心地して、
    263 
     264 「なかなかなるほどに、承りさしつること多かる残りは、今すこし面馴れてこそは、恨みきこえさすべかめれ。さるは、かく世の人めいて、もてなしたまふべくは、思はずに、もの思し分かざりけりと、恨めしうなむ」
    264 
     265 とて、宿直人がしつらひたる西面におはして、眺めたまふ。
    265 
     266 「網代は、人騒がしげなり。されど、氷魚も寄らぬにやあらむ。すさまじげなるけしきなり」
    266 
     267 と、御供の人びと見知りて言ふ。
    267 
     268 「あやしき舟どもに、柴刈り積み、おのおの何となき世の営みどもに、行き交ふさまどもの、はかなき水の上に浮かびたる、誰も思へば同じことなる、世の常なさなり。われは浮かばず、玉の台に静けき身と、思ふべき世かは」と思ひ続けらる。
    268 
     269 硯召して、あなたに聞こえたまふ。
    269 
    c1270 「<A HREF="#no12">橋姫の心</A><A NAME="te12">を</A><汲みて高瀬さす<BR>270 「<A HREF="#no12">橋姫の心</A><A NAME="te12">を</A>汲みて高瀬さす<BR>
     271  棹のしづくに袖ぞ濡れぬる
    271 
     272 眺めたまふらむかし」
    272 
     273 とて、宿直人に持たせたまへり。いと寒げに、いららぎたる顔して持て参る。御返り、紙の香など、おぼろけならむ恥づかしげなるを、疾きをこそかかる折には、とて、
    273 
     274 「さしかへる宇治の河長朝夕の
    274 
     275  しづくや袖を朽たし果つらむ
    275 
     276 身さへ浮きて」
    276 
     277 と、いとをかしげに書きたまへり。「まほにめやすくもものしたまひけり」と、心とまりぬれど、
    277 
     278 「御車率て参りぬ」
    278 
     279 と、人びと騒がしきこゆれば、宿直人ばかりを召し寄せて、
    279 
     280 「帰りわたらせたまはむほどに、かならず参るべし」
    280 
     281 などのたまふ。濡れたる御衣どもは、皆この人に脱ぎかけたまひて、取りに遣はしつる御直衣にたてまつりかへつ。
    281 
     282

    282 
     283 [第八段 薫、宇治へ手紙を書く]
    283 
     284 老い人の物語、心にかかりて思し出でらる。思ひしよりは、こよなくまさりて、をかしかりつる御けはひども、面影に添ひて、「なほ、思ひ離れがたき世なりけり」と、心弱く思ひ知らる。
    284 
     285 御文たてまつりたまふ。懸想だちてもあらず、白き色紙の厚肥えたるに、筆ひきつくろひ選りて、墨つき見所ありて書きたまふ。
    285 
     286 「うちつけなるさまにやと、あいなくとどめはべりて、残り多かるも苦しきわざになむ。片端聞こえおきつるやうに、今よりは、御簾の前も、心やすく思し許すべくなむ。御山籠もり果てはべらむ日数も承りおきて、いぶせかりし霧の迷ひも、はるけはべらむ」
    286 
     287 などぞ、いとすくよかに書きたまへる。左近将監なる人、御使にて、
    287 
     288 「かの老い人訪ねて、文も取らせよ」
    288 
     289 とのたまふ。宿直人が寒げにてさまよひしなど、あはれに思しやりて、大きなる桧破籠やうのもの、あまたせさせたまふ。
    289 
     290 またの日、かの御寺にもたてまつりたまふ。「山籠もりの僧ども、このころの嵐には、いと心細く苦しからむを、さておはしますほどの布施、賜ふべからむ」と思しやりて、絹、綿など多かりけり。
    290 
     291 御行ひ果てて、出でたまふ朝なりければ、行ひ人どもに、綿、絹、袈裟、衣など、すべて一領のほどづつ、ある限りの大徳たちに賜ふ。
    291 
     292 宿直人が、御脱ぎ捨ての、艶にいみじき狩の御衣ども、えならぬ白き綾の御衣の、なよなよといひ知らず匂へるを、移し着て、身をはた、え変へぬものなれば、似つかはしからぬ袖の香を、人ごとにとがめられ、めでらるるなむ、なかなか所狭かりける。
    292 
     293 心にまかせて、身をやすくも振る舞はれず、いとむくつけきまで、人のおどろく匂ひを、失ひてばやと思へど、所狭き人の御移り香にて、えもすすぎ捨てぬぞ、あまりなるや。
    293 
     294

    294 
     295 [第九段 薫、匂宮に宇治の姉妹を語る]
    295 
     296 君は、姫君の御返りこと、いとめやすく子めかしきを、をかしく見たまふ。宮にも、「かく御消息ありき」など、人びと聞こえさせ、御覧ぜさすれば、
    296 
     297 「何かは。懸想だちてもてないたまはむも、なかなかうたてあらむ。例の若人に似ぬ御心ばへなめるを、亡からむ後もなど、一言うちほのめかしてしかば、さやうにて、心ぞとめたらむ」
    297 
     298 などのたまうけり。御みづからも、さまざまの御とぶらひの、山の岩屋にあまりしことなどのたまへるに、参うでむと思して、「三の宮の、かやうに奥まりたらむあたりの、見まさりせむこそ、をかしかるべけれと、あらましごとにだにのたまふものを、聞こえはげまして、御心騒がしたてまつらむ」と思して、のどやかなる夕暮に参りたまへり。
    298 
     299 例の、さまざまなる御物語、聞こえ交はしたまふついでに、宇治の宮の御こと語り出でて、見し暁のありさまなど、詳しく聞こえたまふに、宮、いと切にをかしと思いたり。
    299 
     300 さればよと、御けしきを見て、いとど御心動きぬべく言ひ続けたまふ。
    300 
     301 「さて、そのありけむ返りことは、などか見せたまはざりし。まろならましかば」と恨みたまふ。
    301 
     302 「さかし。いとさまざま御覧ずべかめる端をだに、見せさせたまはぬ。かのわたりは、かくいとも埋れたる身に、ひき籠めてやむべきけはひにもはべらねば、かならず御覧ぜさせばや、と思ひたまふれど、いかでか尋ね寄らせたまふべき。かやすきほどこそ、好かまほしくは、いとよく好きぬべき世にはべりけれ。うち隠ろへつつ多かめるかな。
    302 
     303 さるかたに見所ありぬべき女の、もの思はしき、うち忍びたる住み処ども、山里めいたる隈などに、おのづからはべべかめり。この聞こえさするわたりは、いと世づかぬ聖ざまにて、こちごちしうぞあらむ、年ごろ、思ひあなづりはべりて、耳をだにこそ、とどめはべらざりけれ。
    303 
     304 ほのかなりし月影の見劣りせずは、まほならむはや。けはひありさま、はた、さばかりならむをぞ、あらまほしきほどとは、おぼえはべるべき」
    304 
     305 など聞こえたまふ。
    305 
     306 果て果ては、まめだちていとねたく、「おぼろけの人に心移るまじき人の、かく深く思へるを、おろかならじ」と、ゆかしう思すこと、限りなくなりたまひぬ。
    306 
     307 「なほ、またまた、よくけしき見たまへ」
    307 
     308 と、人を勧めたまひて、限りある御身のほどのよだけさを、厭はしきまで、心もとなしと思したれば、をかしくて、
    308 
     309 「いでや、よしなくぞはべる。しばし、世の中に心とどめじと思うたまふるやうある身にて、なほざりごともつつましうはべるを、心ながらかなはぬ心つきそめなば、おほきに思ひに違ふべきことなむ、はべるべき」
    309 
     310 と聞こえたまへば、
    310 
     311 「いで、あな、ことことし。例の、おどろおどろしき聖言葉、見果ててしがな」
    311 
     312 とて笑ひたまふ。心のうちには、かの古人のほのめかしし筋などの、いとどうちおどろかれて、ものあはれなるに、をかしと見ることも、めやすしと聞くあたりも、何ばかり心にもとまらざりけり。
    312 
     313

    313 
     314 

    第四章 薫の物語 薫、出生の秘密を知る

    314 
     315 [第一段 十月初旬、薫宇治へ赴く]
    315 
     316 十月になりて、五、六日のほどに、宇治へ参うでたまふ。
    316 
     317 「網代をこそ、このころは御覧ぜめ」と、聞こゆる人びとあれど、
    317 
     318 「何か、その蜉蝣に争ふ心にて、網代にも寄らむ」
    318 
     319 と、そぎ捨てたまひて、例の、いと忍びやかにて出で立ちたまふ。軽らかに網代車にて、かとりの直衣指貫縫はせて、ことさらび着たまへり。
    319 
     320 宮、待ち喜びたまひて、所につけたる御饗応など、をかしうしなしたまふ。暮れぬれば、大殿油近くて、さきざき見さしたまへる文どもの深きなど、阿闍梨も請じおろして、義など言はせたまふ。
    320 
     321 うちもまどろまず、川風のいと荒らましきに、木の葉の散りかふ音、水の響きなど、あはれも過ぎて、もの恐ろしく心細き所のさまなり。
    321 
     322 明け方近くなりぬらむと思ふほどに、ありししののめ思ひ出でられて、琴の音のあはれなることのついで作り出でて、
    322 
     323 「さきのたびの、霧に惑はされはべりし曙に、いとめづらしき物の音、一声承りし残りなむ、なかなかにいといぶかしう、飽かず思うたまへらるる」など聞こえたまふ。
    323 
     324 「色をも香をも思ひ捨ててし後、昔聞きしことも皆忘れてなむ」
    324 
     325 とのたまへど、人召して、琴取り寄せて、
    325 
     326 「いとつきなくなりにたりや。しるべする物の音につけてなむ、思ひ出でらるべかりける」
    326 
     327 とて、琵琶召して、客人にそそのかしたまふ。取りて調べたまふ。
    327 
     328 「さらに、ほのかに聞きはべりし同じものとも思うたまへられざりけり。御琴の響きからにやとこそ、思うたまへしか」
    328 
     329 とて、心解けても掻きたてたまはず。
    329 
     330 「いで、あな、さがなや。しか御耳とまるばかりの手などは、何処よりかここまでは伝はり来む。あるまじき御ことなり」
    330 
     331 とて、琴掻きならしたまへる、いとあはれに心すごし。かたへは、峰の松風のもてはやすなるべし。いとたどたどしげにおぼめきたまひて、心ばへあり。手一つばかりにてやめたまひつ。
    331 
     332

    332 
     333 [第二段 薫、八の宮の娘たちの後見を承引]
    333 
     334 「このわたりに、おぼえなくて、折々ほのめく箏の琴の音こそ、心得たるにや、と聞く折はべれど、心とどめてなどもあらで、久しうなりにけりや。心にまかせて、おのおの掻きならすべかめるは、川波ばかりや、打ち合はすらむ。論なう、物の用にすばかりの拍子なども、とまらじとなむ、おぼえはべる」とて、「掻き鳴らしたまへ」
    334 
     335 と、あなたに聞こえたまへど、「思ひ寄らざりし独り言を、聞きたまひけむだにあるものを、いとかたはならむ」とひき入りつつ、皆聞きたまはず。たびたびそそのかしたまへど、とかく聞こえすさびて、やみたまひぬめれば、いと口惜しうおぼゆ。
    335 
     336 そのついでにも、かくあやしう、世づかぬ思ひやりにて過ぐすありさまどもの、思ひのほかなることなど、恥づかしう思いたり。
    336 
     337 「人にだにいかで知らせじと、はぐくみ過ぐせど、今日明日とも知らぬ身の残り少なさに、さすがに、行く末遠き人は、落ちあふれてさすらへむこと、これのみこそ、げに、世を離れむ際のほだしなりけれ」
    337 
     338 と、うち語らひたまへば、心苦しう見たてまつりたまふ。
    338 
     339 「わざとの御後見だち、はかばかしき筋にははべらずとも、うとうとしからず思しめされむとなむ思うたまふる。しばしもながらへはべらむ命のほどは、一言も、かくうち出で聞こえさせてむさまを、違へはべるまじくなむ」
    339 
     340 など申したまへば、「いとうれしきこと」と、思しのたまふ。
    340 
     341

    341 
     342 [第三段 薫、弁の君の昔語りの続きを聞く]
    342 
     343 さて、暁方の、宮の御行ひしたまふほどに、かの老い人召し出でて、会ひたまへり。
    343 
     344 姫君の御後見にてさぶらはせたまふ、弁の君とぞいひける。年も六十にすこし足らぬほどなれど、みやびかにゆゑあるけはひして、ものなど聞こゆ。
    344 
     345 故権大納言の君の、世とともにものを思ひつつ、病づき、はかなくなりたまひにしありさまを、聞こえ出でて、泣くこと限りなし。
    345 
     346 「げに、よその人の上と聞かむだに、あはれなるべき古事どもを、まして、年ごろおぼつかなく、ゆかしう、いかなりけむことの初めにかと、仏にも、このことをさだかに知らせたまへと、念じつる験にや、かく夢のやうにあはれなる昔語りを、おぼえぬついでに聞きつけつらむ」と思すに、涙とどめがたかりけり。
    346 
     347 「さても、かく、その世の心知りたる人も残りたまへりけるを。めづらかにも恥づかしうもおぼゆることの筋に、なほ、かく言ひ伝ふるたぐひや、またもあらむ。年ごろ、かけても聞き及ばざりける」とのたまへば、
    347 
     348 「小侍従と弁と放ちて、また知る人はべらじ。一言にても、また異人にうちまねびはべらず。かくものはかなく、数ならぬ身のほどにはべれど、夜昼かの御影に、つきたてまつりてはべりしかば、おのづからもののけしきをも見たてまつりそめしに、御心よりあまりて思しける時々、ただ二人の中になむ、たまさかの御消息の通ひもはべりし。かたはらいたければ、詳しく聞こえさせず。
    348 
     349 今はのとぢめになりたまひて、いささかのたまひ置くことのはべりしを、かかる身には、置き所なく、いぶせく思うたまへわたりつつ、いかにしてかは聞こしめし伝ふべきと、はかばかしからぬ念誦のついでにも、思うたまへつるを、仏は世におはしましけり、となむ思うたまへ知りぬる。
    349 
     350 御覧ぜさすべきものもはべり。今は、何かは、焼きも捨てはべりなむ。かく朝夕の消えを知らぬ身の、うち捨てはべりなば、落ち散るやうもこそと、いとうしろめたく思うたまふれど、この宮わたりにも、時々、ほのめかせたまふを、待ち出でたてまつりてしは、すこし頼もしく、かかる折もやと、念じはべりつる力出でまうで来てなむ。さらに、これは、この世のことにもはべらじ」
    350 
     351 と、泣く泣く、こまかに、生まれたまひけるほどのことも、よくおぼえつつ聞こゆ。
    351 
     352

    352 
     353 [第四段 薫、父柏木の最期を聞く]
    353 
     354 「空しうなりたまひし騷ぎに、母にはべりし人は、やがて病づきて、ほども経ず隠れはべりにしかば、いとど思うたまへしづみ、藤衣たち重ね、悲しきことを思うたまへしほどに、年ごろ、よからぬ人の心をつけたりけるが、人をはかりごちて、西の海の果てまで取りもてまかりにしかば、京のことさへ跡絶えて、その人もかしこにて亡せはべりにし後、十年あまりにてなむ、あらぬ世の心地して、まかり上りたりしを、この宮は、父方につけて、童より参り通ふゆゑはべりしかば、今はかう世に交じらふべきさまにもはべらぬを、冷泉院の女御殿の御方などこそは、昔、聞き馴れたてまつりしわたりにて、参り寄るべくはべりしかど、はしたなくおぼえはべりて、えさし出ではべらで、深山隠れの朽木になりにてはべるなり。
    354 
     355 小侍従は、いつか亡せはべりにけむ。そのかみの、若盛りと見はべりし人は、数少なくなりはべりにける末の世に、多くの人に後るる命を、悲しく思ひたまへてこそ、さすがにめぐらひはべれ」
    355 
     356 など聞こゆるほどに、例の、明け果てぬ。
    356 
     357 「よし、さらば、この昔物語は尽きすべくなむあらぬ。また、人聞かぬ心やすき所にて聞こえむ。侍従といひし人は、ほのかにおぼゆるは、五つ、六つばかりなりしほどにや、にはかに胸を病みて亡せにきとなむ聞く。かかる対面なくは、罪重き身にて過ぎぬべかりけること」などのたまふ。
    357 
     358

    358 
     359 [第五段 薫、形見の手紙を得る]
    359 
     360 ささやかにおし巻き合はせたる反故どもの、黴臭きを袋に縫ひ入れたる、取り出でてたてまつる。
    360 
     361 「御前にて失はせたまへ。『われ、なほ生くべくもあらずなりにたり』とのたまはせて、この御文を取り集めて、賜はせたりしかば、小侍従に、またあひ見はべらむついでに、さだかに伝へ参らせむ、と思うたまへしを、やがて別れはべりにしも、私事には、飽かず悲しうなむ、思うたまふる」
    361 
     362 と聞こゆ。つれなくて、これは隠いたまひつ。
    362 
     363 「かやうの古人は、問はず語りにや、あやしきことの例に言ひ出づらむ」と苦しく思せど、「かへすがへすも、散らさぬよしを誓ひつる、さもや」と、また思ひ乱れたまふ。
    363 
     364 御粥、強飯など参りたまふ。「昨日は、暇日なりしを、今日は、内裏の御物忌も明きぬらむ。院の女一の宮、悩みたまふ御とぶらひに、かならず参るべければ、かたがた暇なくはべるを、またこのころ過ぐして、山の紅葉散らぬさきに参るべき」よし、聞こえたまふ。
    364 
     365 「かく、しばしば立ち寄らせたまふ光に、山の蔭も、すこしもの明らむる心地してなむ」
    365 
     366 など、よろこび聞こえたまふ。
    366 
     367

    367 
     368 [第六段 薫、父柏木の遺文を読む]
    368 
     369 帰りたまひて、まづこの袋を見たまへば、唐の浮線綾を縫ひて、「上」といふ文字を上に書きたり。細き組して、口の方を結ひたるに、かの御名の封つきたり。開くるも恐ろしうおぼえたまふ。
    369 
     370 色々の紙にて、たまさかに通ひける御文の返りこと、五つ、六つぞある。さては、かの御手にて、病は重く限りになりにたるに、またほのかにも聞こえむこと難くなりぬるを、ゆかしう思ふことは添ひにたり、御容貌も変りておはしますらむが、さまざま悲しきことを、陸奥紙五、六枚に、つぶつぶと、あやしき鳥の跡のやうに書きて、
    370 
     371 「目の前にこの世を背く君よりも
    371 
     372  よそに別るる魂ぞ悲しき」
    372 
     373 また、端に、
    373 
     374 「めづらしく聞きはべる二葉のほども、うしろめたう思うたまふる方はなけれど、
    374 
     375  命あらばそれとも見まし人知れぬ
    375 
     376  岩根にとめし松の生ひ末」
    376 
     377 書きさしたるやうに、いと乱りがはしうて、「小侍従の君に」と上には書きつけたり。
    377 
     378 紙魚といふ虫の棲み処になりて、古めきたる黴臭さながら、跡は消えず、ただ今書きたらむにも違はぬ言の葉どもの、こまごまとさだかなるを見たまふに、「げに、落ち散りたらましよ」と、うしろめたう、いとほしきことどもなり。
    378 
     379 「かかること、世にまたあらむや」と、心一つにいどどもの思はしさ添ひて、内裏へ参らむと思しつるも、出で立たれず。宮の御前に参りたまへれば、いと何心もなく、若やかなるさましたまひて、経読みたまふを、恥ぢらひて、もて隠したまへり。「何かは、知りにけりとも、知られたてまつらむ」など、心に籠めて、よろづに思ひゐたまへり。
    379 
     380

    380 
     381 【出典】
    381 
     382出典1 世の憂き目見えぬ山路へ入らむには思ふ人こそほだしなりけれ(古今集雑下-九五五 物部吉名)(戻)
    382 
     383出典2 君ならで誰にか見せむ梅の花色をも香をも知る人ぞ知る(古今集春上-三八 紀友則)(戻)
    383 
     384出典3 いづこにか世をば厭はむ心こそ野にも山にも惑ふべらなれ(古今集雑下-九四七 素性法師)(戻)
    384 
     385出典4 月読みの光に来ませ足引きの山重なりて遠からなくに(古今六帖五-二八四一)(戻)
    385 
     386出典5 雁の来る峰の朝霧晴れずのみ思ひ尽きせぬ世の中の憂さ(古今集雑下-九三五 読人しらず)(戻)
    386 
     387出典6 わが庵は都の巽しかぞ住む世を宇治山と人は言ふなり(古今集雑下-九八三 喜撰法師)(戻)
    387 
     388出典7 おほかたのわが身一つの憂きからになべての世をも恨みつるかな(拾遺集恋五-九五三 紀貫之)(戻)
    388 
     389出典8 優婆塞が行ふ山の椎が本あなそばそばし床にしあらねば(宇津保物語-嵯峨院二一二)(戻)
    389 
     390出典9 主知らぬ香こそ匂へれ秋の野に誰が脱ぎかけし藤袴ぞも(古今集秋上-二四一 素性法師)(戻)
    390 
     391出典10 月隠重山兮 *[*=敬+手]扇喩之 風息大虚兮 動樹教之(和漢朗詠集下-五八七)(戻)
    391 
     392出典11 思ひやる心ばかりは障らじを何隔つらむ峰の白雲(後撰集離別-一三〇六 橘直幹)(戻)
    392 
     393出典12 さむしろに衣片敷き今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫(古今集恋四-六八九 読人しらず)(戻)
    393 
     394出典13 さす棹の雫に濡るる袖ゆゑに身さへ浮きても思ほゆるかな(源氏釈所引-出典未詳)(戻)
    394 
     395出典14 梅の花立ち寄るばかりありしより人のとがむる香にぞしみぬる(古今集春上-三五 読人しらず)(戻)
    395 
     396出典15 琴の音に峰の松風かよふらしいづれの緒より調べそめけむ(拾遺集雑上-四五一 斎宮女御)(戻)
    396 
     397出典16 形こそ深山隠れの朽ち木なれ心は花になさばなりなむ(古今集雑上-八七五 兼芸法師)(戻)
    397 
     398出典17 声をだに聞かで別るる魂よりもなき床に寝む君ぞ悲しき(古今集哀傷-八五八 読人しらず)(戻)
    398 
     399

    399 
     400 【校訂】
    400 
     401備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△
    401 
     402校訂1 いとうつくしう--(/+いとうつくしう)(戻)
    402 
     403校訂2 生ひ先見えて--おいさき見えておいさき見えて(おいさき見えて<後出>/$)(戻)
    403 
     404校訂3 思ほし--お(お/+も)ほし(戻)
    404 
     405校訂4 とて--とく(く/$て)(戻)
    405 
     406校訂5 若き--わかきわかき(わかき<前出>/$)(戻)
    406 
     407校訂6 御消息--御せうそと(と/$こ)(戻)
    407 
     408校訂7 したたかに--した(た/+た)かゝ(ゝ/$)に(戻)
    408 
     409校訂8 こちごちしかる--(/+こ)ちこ(こ/$)/\しかる(戻)
    409 
     410校訂9 ものし--(/+も)のし(戻)
    410 
     411校訂10 この聞こえ--このきみも(みも/$こえ)(戻)
    411 
     412校訂11 果て果ては--はや(はや/$)はて/\は(戻)
    412 
     413校訂12 のみこそ--のみなん(なん/$)こそ(戻)
    413 
     414校訂13 たるに--たるを(を/$に)(戻)
    414 
     415校訂14 つき--つきつき(つき<後出>/$)(戻)
    415 
     416校訂15 知りにけり--しりにき(き/$けり)(戻)
    416 
     417

    417 
     418源氏物語の世界ヘ
    418 
     419ローマ字版
    419 
     420現代語訳
    420 
     421注釈
    421 
     422明融臨模本
    422 
     423大島本
    423 
     424自筆本奥入
    424 
     425425 
     426
    426 
     427427 
     428428