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 3早蕨(大島本)3 
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 7渋谷栄一校訂(C)(ver.1-2-3)7 
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早蕨

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 11薫君の中納言時代二十五歳春の物語
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 13 [主要登場人物]
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 薫<かおる>
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呼称---中納言・中納言殿・中納言の君・客人・殿・君、源氏の子
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 匂宮<におうのみや>
17 
 18
呼称---兵部卿宮・宮、今上帝の第三親王
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 中君<なかのきみ>
19 
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呼称---中の宮・姫宮、八の宮の二女
20 
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 弁尼君<べんのあまぎみ>
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呼称---弁
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 25第一章 中君の物語 匂宮との結婚を前にした宇治での生活
25 
 26
26 
 27
  • 宇治の新春、山の阿闍梨から山草が届く---薮しわかねば、春の光を見たまふにつけても
  • 27 
     28
  • 中君、阿闍梨に返事を書く---大事と思ひまはして詠み出だしつらむ、と思せば
  • 28 
     29
  • 正月下旬、薫、匂宮を訪問---内宴など、もの騒がしきころ過ぐして
  • 29 
     30
  • 匂宮、薫に中君を京に迎えることを言う---空のけしきもまた、げにぞあはれ知り顔に霞みわたれる
  • 30 
     31
  • 中君、姉大君の服喪が明ける---かしこにも、よき若人童など求めて、人びとは
  • 31 
     32
  • 薫、中君が宇治を出立する前日に訪問---みづからは、渡りたまはむこと明日とての
  • 32 
     33
  • 中君と薫、紅梅を見ながら和歌を詠み交す---御前近き紅梅の、色も香もなつかしきに
  • 33 
     34
  • 薫、弁の尼と対面---弁ぞ、「かやうの御供にも、思ひかけず長き命
  • 34 
     35
  • 弁の尼、中君と語る---思ほしのたまへるさまを語りて、弁は
  • 35 
     3636 
     37第二章 中君の物語 匂宮との京での結婚生活が始まる
    37 
     38
    38 
     39
  • 中君、京へ向けて宇治を出発---皆かき払ひ、よろづとりしたためて、御車ども寄せて
  • 39 
     40
  • 中君、京の二条院に到着---宵うち過ぎてぞおはし着きたる。見も知らぬさまに
  • 40 
     41
  • 夕霧、六の君の裳着を行い、結婚を思案す---右の大殿は、六の君を宮にたてまつりたまはむこと
  • 41 
     42
  • 薫、桜の花盛りに二条院を訪ね中君と語る---花盛りのほど、二条の院の桜を見やりたまふに
  • 42 
     43
  • 匂宮、中君と薫に疑心を抱く---人びとも、「世の常に、ことことしくなもてなしきこえさせたまひそ
  • 43 
     4444 
     45

    45 
     46【出典】
    46 
     47【校訂】
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     48

    48 
     49 

    第一章 中君の物語 匂宮との結婚を前にした宇治での生活

    49 
     50 [第一段 宇治の新春、山の阿闍梨から山草が届く]
    50 
     51 薮し分かねば、春の光を見たまふにつけても、「いかでかくながらへにける月日ならむ」と、夢のやうにのみおぼえたまふ。
    51 
     52 行き交ふ時々にしたがひ、花鳥の色をも音をも、同じ心に起き臥し見つつ、はかなきことをも、本末をとりて言ひ交はし、心細き世の憂さもつらさも、うち語らひ合はせきこえしにこそ、慰む方もありしか、をかしきこと、あはれなるふしをも、聞き知る人もなきままに、よろづかきくらし、心一つをくだきて、宮のおはしまさずなりにし悲しさよりも、ややうちまさりて恋しくわびしきに、いかにせむと、明け暮るるも知らず惑はれたまへど、世にとまるべきほどは、限りあるわざなりければ、死なれぬもあさまし。
    52 
     53 阿闍梨のもとより、
    53 
     54 「年改まりては、何ごとかおはしますらむ。御祈りは、たゆみなく仕うまつりはべり。今は、一所の御ことをなむ、安からず念じきこえさする」
    54 
     55 など聞こえて、蕨、つくづくし、をかしき籠に入れて、「これは、童べの供養じてはべる初穂なり」とて、たてまつれり。手は、いと悪しうて、歌は、わざとがましくひき放ちてぞ書きたる。
    55 
     56 「君にとてあまたの春を摘みしかば
    56 
     57  常を忘れぬ初蕨なり
    57 
     58 御前に詠み申さしめたまへ」
    58 
     59 とあり。
    59 
     60

    60 
     61 [第二段 中君、阿闍梨に返事を書く]
    61 
     62 大事と思ひまはして詠み出だしつらむ、と思せば、歌の心ばへもいとあはれにて、なほざりに、さしも思さぬなめりと見ゆる言の葉を、めでたく好ましげに書き尽くしたまへる人の御文よりは、こよなく目とまりて、涙もこぼるれば、返り事、書かせたまふ。
    62 
     63 「この春は誰れにか見せむ亡き人の
    63 
     64  かたみに摘める峰の早蕨」
    64 
     65 使に禄取らせさせたまふ。
    65 
     66 いと盛りに匂ひ多くおはする人の、さまざまの御もの思ひに、すこしうち面痩せたまへる、いとあてになまめかしきけしきまさりて、昔人にもおぼえたまへり。並びたまへりし折は、とりどりにて、さらに似たまへりとも見えざりしを、うち忘れては、ふとそれかとおぼゆるまでかよひたまへるを、
    66 
     67 「中納言殿の、骸をだにとどめて見たてまつるものならましかばと、朝夕に恋ひきこえたまふめるに、同じくは、見えたてまつりたまふ御宿世ならざりけむよ」
    67 
     68 と、見たてまつる人びとは口惜しがる。
    68 
     69 かの御あたりの人の通ひ来るたよりに、御ありさまは絶えず聞き交はしたまひけり。尽きせず思ひほれたまひて、「新しき年ともいはず、いや目になむ、なりたまへる」と聞きたまひても、「げに、うちつけの心浅さにはものしたまはざりけり」と、いとど今ぞあはれも深く、思ひ知らるる。
    69 
     70 宮は、おはしますことのいと所狭くありがたければ、「京に渡しきこえむ」と思し立ちにたり。
    70 
     71

    71 
     72 [第三段 正月下旬、薫、匂宮を訪問]
    72 
     73 内宴など、もの騒がしきころ過ぐして、中納言の君、「心にあまることをも、また誰れにかは語らはむ」と思しわびて、兵部卿宮の御方に参りたまへり。
    73 
     74 しめやかなる夕暮なれば、宮うち眺めたまひて、端近くぞおはしましける。箏の御琴かき鳴らしつつ、例の、御心寄せなる梅の香をめでおはする、下枝を押し折りて参りたまへる、匂ひのいと艶にめでたきを、折をかしう思して、
    74 
     75 「折る人の心にかよふ花なれや
    75 
     76  色には出でず下に匂へる」
    76 
     77 とのたまへば、
    77 
     78 「見る人にかこと寄せける花の枝を
    78 
     79  心してこそ折るべかりけれ
    79 
     80 わづらはしく」
    80 
     81 と、戯れ交はしたまへる、いとよき御あはひなり。
    81 
     82 こまやかなる御物語どもになりては、かの山里の御ことをぞ、まづはいかにと、宮は聞こえたまふ。中納言も、過ぎにし方の飽かず悲しきこと、そのかみより今日まで思ひの絶えぬよし、折々につけて、あはれにもをかしくも、泣きみ笑ひみとかいふらむやうに、聞こえ出でたまふに、ましてさばかり色めかしく、涙もろなる御癖は、人の御上にてさへ、袖もしぼるばかりになりて、かひがひしくぞあひしらひきこえたまふめる。
    82 
     83

    83 
     84 [第四段 匂宮、薫に中君を京に迎えることを言う]
    84 
     85 空のけしきもまた、げにぞあはれ知り顔に霞みわたれる。夜になりて、烈しう吹き出づる風のけしき、まだ冬めきていと寒げに、大殿油も消えつつ、闇はあやなきたどたどしさなれど、かたみに聞きさしたまふべくもあらず、尽きせぬ御物語をえはるけやりたまはで、夜もいたう更けぬ。
    85 
     86 世にためしありがたかりける仲の睦びを、「いで、さりとも、いとさのみはあざりけむ」と、残りありげに問ひなしたまふぞ、わりなき御心ならひなめるかし。さりながらも、ものに心えたまひて、嘆かしき心のうちもあきらむばかり、かつは慰め、またあはれをもさまし、さまざまに語らひたまふ、御さまのをかしきにすかされたてまつりて、げに、心にあまるまで思ひ結ぼほるることども、すこしづつ語りきこえたまふぞ、こよなく胸のひまあく心地したまふ。
    86 
     87 宮も、かの人近く渡しきこえてむとするほどのことども、語らひきこえたまふを、
    87 
     88 「いとうれしきことにもはべるかな。あいなく、みづからの過ちとなむ思うたまへらるる飽かぬ昔の名残を、また尋ぬべき方もはべらねば、おほかたには、何ごとにつけても、心寄せきこゆべき人となむ思うたまふるを、もし便なくや思し召さるべき」
    88 
     89 とて、かの、「異人とな思ひわきそ」と、譲りたまひし心おきてをも、すこしは語りきこえたまへど、岩瀬の森の呼子鳥めいたりし夜のことは、残したりけり。心のうちには、「かく慰めがたき形見にも、げに、さてこそ、かやうにも扱ひきこゆべかりけれ」と、悔しきことやうやうまさりゆけど、今はかひなきものゆゑ、「常にかうのみ思はば、あるまじき心もこそ出で来れ。誰がためにもあぢきなく、をこがましからむ」と思ひ離る。「さても、おはしまさむにつけても、まことに思ひ後見きこえむ方は、また誰れかは」と思せば、御渡りのことどもも心まうけせさせたまふ。
    89 
     90

    90 
     91 [第五段 中君、姉大君の服喪が明ける]
    91 
     92 かしこにも、よき若人童など求めて、人びとは心ゆき顔にいそぎ思ひたれど、今はとてこの伏見を荒らし果てむも、いみじく心細ければ、嘆かれたまふこと尽きせぬを、さりとても、またせめて心ごはく、絶え籠もりてもたけかるまじく、「浅からぬ仲の契りも、絶え果てぬべき御住まひを、いかに思しえたるぞ」とのみ、怨みきこえたまふも、すこしはことわりなれば、いかがすべからむ、と思ひ乱れたまへり。
    92 
     93 如月の朔日ごろとあれば、ほど近くなるままに、花の木どものけしきばむも残りゆかしく、「峰の霞の立つを見捨てむことも、おのが常世にてだにあらぬ旅寝にて、いかにはしたなく人笑はれなることもこそ」など、よろづにつつましく、心一つに思ひ明かし暮らしたまふ。
    93 
     94 御服も、限りあることなれば、脱ぎ捨てたまふに、禊も浅き心地ぞする。親一所は、見たてまつらざりしかば、恋しきことは思ほえず。その御代はりにも、この度の衣を深く染めむと、心には思しのたまへど、さすがに、さるべきゆゑもなきわざなれば、飽かず悲しきこと限りなし。
    94 
     95 中納言殿より、御車、御前の人びと、博士などたてまつれたまへり。
    95 
     96 「はかなしや霞の衣裁ちしまに
    96 
     97  花のひもとく折も来にけり」
    97 
     98 げに、色々いときよらにてたてまつれたまへり。御渡りのほどの被け物どもなど、ことことしからぬものから、品々にこまやかに思しやりつつ、いと多かり。
    98 
     99 「折につけては、忘れぬさまなる御心寄せのありがたく、はらからなども、えいとかうまではおはせぬわざぞ」
    99 
     100 など、人びとは聞こえ知らす。あざやかならぬ古人どもの心には、かかる方を心にしめて聞こゆ。若き人は、時々も見たてまつりならひて、今はと異ざまになりたまはむを、さうざうしく、「いかに恋しくおぼえさせたまはむ」と聞こえあへり。
    100 
     101

    101 
     102 [第六段 薫、中君が宇治を出立する前日に訪問]
    102 
     103 みづからは、渡りたまはむこと明日とての、まだつとめておはしたり。例の、客人居の方におはするにつけても、今はやうやうもの馴れて、「我こそ、人より先に、かうやうにも思ひそめしか」など、ありしさま、のたまひし心ばへを思ひ出でつつ、「さすがに、かけ離れ、ことの外になどは、はしたなめたまはざりしを、わが心もて、あやしうも隔たりにしかな」と、胸いたく思ひ続けられたまふ。
    103 
     104 垣間見せし障子の穴も思ひ出でらるれば、寄りて見たまへど、この中をば下ろし籠めたれば、いとかひなし。
    104 
     105 内にも、人びと思ひ出できこえつつうちひそみあへり。中の宮は、まして、もよほさるる御涙の川に、明日の渡りもおぼえたまはず、ほれぼれしげにてながめ臥したまへるに、
    105 
     106 「月ごろの積もりも、そこはかとなけれど、いぶせく思うたまへらるるを、片端もあきらめきこえさせて、慰めはべらばや。例の、はしたなくなさし放たせたまひそ。いとどあらぬ世の心地しはべり」
    106 
     107 と聞こえたまへれば、
    107 
     108 「はしたなしと思はれたてまつらむとしも思はねど、いさや、心地も例のやうにもおぼえず、かき乱りつつ、いとどはかばかしからぬひがこともやと、つつましうて」
    108 
     109 など、苦しげにおぼいたれど、「いとほし」など、これかれ聞こえて、中の障子の口にて対面したまへり。
    109 
     110 いと心恥づかしげになまめきて、また「このたびは、ねびまさりたまひにけり」と、目も驚くまで匂ひ多く、「人にも似ぬ用意など、あな、めでたの人や」とのみ見えたまへるを、姫宮は、面影さらぬ人の御ことをさへ思ひ出できこえたまふに、いとあはれと見たてまつりたまふ。
    110 
     111 「尽きせぬ御物語なども、今日は言忌すべくや」
    111 
     112 など言ひさしつつ、
    112 
     113 「渡らせたまふべき所近く、このころ過ぐして移ろひはべるべければ、夜中暁と、つきづきしき人の言ひはべるめる、何事の折にも、疎からず思しのたまはせば、世にはべらむ限りは、聞こえさせ承りて過ぐさまほしくなむはべるを、いかがは思し召すらむ。人の心さまざまにはべる世なれば、あいなくやなど、一方にもえこそ思ひはべらね」
    113 
     114 と聞こえたまへば、
    114 
     115 「宿をばかれじと思ふ心深くはべるを、近く、などのたまはするにつけても、よろづに乱れはべりて、聞こえさせやるべき方もなく」
    115 
     116 など、所々言ひ消ちて、いみじくものあはれと思ひたまへるけはひなど、いとようおぼえたまへるを、「心からよそのものに見なしつる」と、いと悔しく思ひゐたまへれど、かひなければ、その夜のことかけても言はず、忘れにけるにやと見ゆるまで、けざやかにもてなしたまへり。
    116 
     117

    117 
     118 [第七段 中君と薫、紅梅を見ながら和歌を詠み交す]
    118 
     119 御前近き紅梅の、色も香もなつかしきに、鴬だに見過ぐしがたげにうち鳴きて渡るめれば、まして「春や昔の」と心を惑はしたまふどちの御物語に、折あはれなりかし。風のさと吹き入るるに、花の香も客人の御匂ひも、橘ならねど、昔思ひ出でらるるつまなり。「つれづれの紛らはしにも、世の憂き慰めにも、心とどめてもてあそびたまひしものを」など、心にあまりたまへば、
    119 
     120 「見る人もあらしにまよふ山里に
    120 
     121  昔おぼゆる花の香ぞする」
    121 
     122 言ふともなくほのかにて、たえだえ聞こえたるを、なつかしげにうち誦じなして、
    122 
     123 「袖ふれし梅は変はらぬ匂ひにて
    123 
     124  根ごめ移ろふ宿やことなる」
    124 
     125 堪へぬ涙をさまよくのごひ隠して、言多くもあらず、
    125 
     126 「またもなほ、かやうにてなむ、何ごとも聞こえさせよかるべき」
    126 
     127 など、聞こえおきて立ちたまひぬ。
    127 
     128 御渡りにあるべきことども、人びとにのたまひおく。この宿守に、かの鬚がちの宿直人などはさぶらふべければ、このわたりの近き御荘どもなどに、そのことどもものたまひ預けなど、こまやかなることどもをさへ定めおきたまふ。
    128 
     129

    129 
     130 [第八段 薫、弁の尼と対面]
    130 
     131 弁ぞ、
    131 
     132 「かやうの御供にも、思ひかけず長き命いとつらくおぼえはべるを、人もゆゆしく見思ふべければ、今は世にあるものとも人に知られはべらじ」
    132 
     133 とて、容貌も変へてけるを、しひて召し出でて、いとあはれと見たまふ。例の、昔物語などせさせたまひて、
    133 
     134 「ここには、なほ、時々は参り来べき、いとたつきなく心細かるべきに、かくてものしたまはむは、いとあはれにうれしかるべきことになむ」
    134 
     135 など、えも言ひやらず泣きたまふ。
    135 
     136 「厭ふにはえて延びはべる命のつらく、またいかにせよとて、うち捨てさせたまひけむ、と恨めしく、なべての世を思ひたまへ沈むに、罪もいかに深くはべらむ」
    136 
     137 と、思ひけることどもを愁へかけきこゆるも、かたくなしげなれど、いとよく言ひ慰めたまふ。
    137 
     138 いたくねびにたれど、昔、きよげなりける名残を削ぎ捨てたれば、額のほど、様変はれるに、すこし若くなりて、さる方に雅びかなり。
    138 
     139 「思ひわびては、などかかる様にもなしたてまつらざりけむ。それに延ぶるやうもやあらまし。さても、いかに心深く語らひきこえてあらまし」
    139 
     140 など、一方ならずおぼえたまふに、この人さへうらやましければ、隠ろへたる几帳をすこし引きやりて、こまかにぞ語らひたまふ。げに、むげに思ひほけたるさまながら、ものうち言ひたるけしき、用意、口惜しからず、ゆゑありける人の名残と見えたり。
    140 
     141 「さきに立つ涙の川に身を投げば
    141 
     142  人におくれぬ命ならまし」
    142 
     143 と、うちひそみ聞こゆ。
    143 
     144 「それもいと罪深かなることにこそ。かの岸に到ること、などか。さしもあるまじきことにてさへ、深き底に沈み過ぐさむもあいなし。すべて、なべてむなしく思ひとるべき世になむ」
    144 
     145 などのたまふ。
    145 
     146 「身を投げむ涙の川に沈みても
    146 
     147  恋しき瀬々に忘れしもせじ
    147 
     148 いかならむ世に、すこしも思ひ慰むることありなむ」
    148 
     149 と、果てもなき心地したまふ。
    149 
     150 帰らむ方もなく眺められて、日も暮れにけれど、すずろに旅寝せむも、人のとがむることやと、あいなければ、帰りたまひぬ。
    150 
     151

    151 
     152 [第九段 弁の尼、中君と語る]
    152 
     153 思ほしのたまへるさまを語りて、弁は、いとど慰めがたくくれ惑ひたり。皆人は心ゆきたるけしきにて、もの縫ひいとなみつつ、老いゆがめる容貌も知らず、つくろひさまよふに、いよいよやつして、
    153 
     154 「人はみないそぎたつめる袖の浦に
    154 
     155  一人藻塩を垂るる海人かな」
    155 
     156 と愁へきこゆれば、
    156 
     157 「塩垂るる海人の衣に異なれや
    157 
     158  浮きたる波に濡るるわが袖
    158 
     159 世に住みつかむことも、いとありがたかるべきわざとおぼゆれば、さまに従ひて、ここをば荒れ果てじとなむ思ふを、さらば対面もありぬべけれど、しばしのほども、心細くて立ちとまりたまふを見おくに、いとど心もゆかずなむ。かかる容貌なる人も、かならずひたぶるにしも絶え籠もらぬわざなめるを、なほ世の常に思ひなして、時々も見えたまへ」
    159 
     160 など、いとなつかしく語らひたまふ。昔の人のもてつかひたまひしさるべき御調度どもなどは、皆この人にとどめおきたまひて、
    160 
     161 「かく、人より深く思ひ沈みたまへるを見れば、前の世も、取り分きたる契りもや、ものしたまひけむと思ふさへ、睦ましくあはれになむ」
    161 
     162 とのたまふに、いよいよ童べの恋ひて泣くやうに、心をさめむ方なくおぼほれゐたり。
    162 
     163

    163 
     164 

    第二章 中君の物語 匂宮との京での結婚生活が始まる

    164 
     165 [第一段 中君、京へ向けて宇治を出発]
    165 
     166 皆かき払ひ、よろづとりしたためて、御車ども寄せて、御前の人びと、四位五位いと多かり。御みづからも、いみじうおはしまさまほしけれど、ことことしくなりて、なかなか悪しかるべければ、ただ忍びたるさまにもてなして、心もとなく思さる。
    166 
     167 中納言殿よりも、御前の人、数多くたてまつれたまへり。おほかたのことをこそ、宮よりは思しおきつめれ、こまやかなるうちうちの御扱ひは、ただこの殿より、思ひ寄らぬことなく訪らひきこえたまふ。
    167 
     168 日暮れぬべしと、内にも外にも、もよほしきこゆるに、心あわたたしく、いづちならむと思ふにも、いとはかなく悲しとのみ思ほえたまふに、御車に乗る大輔の君といふ人の言ふ、
    168 
     169 「ありふればうれしき瀬にも逢ひけるを
    169 
     170  身を宇治川に投げてましかば」
    170 
     171 うち笑みたるを、「弁の尼の心ばへに、こよなうもあるかな」と、心づきなうも見たまふ。いま一人、
    171 
     172 「過ぎにしが恋しきことも忘れねど
    172 
     173  今日はたまづもゆく心かな」
    173 
     174 いづれも年経たる人びとにて、皆かの御方をば、心寄せまほしくきこえためりしを、今はかく思ひ改めて言忌するも、「心憂の世や」とおぼえたまへば、ものも言はれたまはず。
    174 
     175 道のほどの、遥けくはげしき山路のありさまを見たまふにぞ、つらきにのみ思ひなされし人の御仲の通ひを、「ことわりの絶え間なりけり」と、すこし思し知られける。七日の月のさやかにさし出でたる影、をかしく霞みたるを見たまひつつ、いと遠きに、ならはず苦しければ、うち眺められて、
    175 
     176 「眺むれば山より出でて行く月も
    176 
     177  世に住みわびて山にこそ入れ」
    177 
     178 様変はりて、つひにいかならむとのみ、あやふく、行く末うしろめたきに、年ごろ何ごとをか思ひけむとぞ、取り返さまほしきや。
    178 
     179

    179 
     180 [第二段 中君、京の二条院に到着]
    180 
     181 宵うち過ぎてぞおはし着きたる。見も知らぬさまに、目もかかやくやうなる殿造りの、三つば四つばなる中に引き入れて、宮、いつしかと待ちおはしましければ、御車のもとに、みづから寄らせたまひて下ろしたてまつりたまふ。
    181 
     182 御しつらひなど、あるべき限りして、女房の局々まで、御心とどめさせたまひけるほどしるく見えて、いとあらまほしげなり。いかばかりのことにかと見えたまへる御ありさまの、にはかにかく定まりたまへば、「おぼろけならず思さるることなめり」と、世人も心にくく思ひおどろきけり。
    182 
     183 中納言は、三条の宮に、この二十余日のほどに渡りたまはむとて、このころは日々におはしつつ見たまふに、この院近きほどなれば、けはひも聞かむとて、夜更くるまでおはしけるに、たてまつれたまへる御前の人びと帰り参りて、ありさまなど語りきこゆ。
    183 
     184 いみじう御心に入りてもてなしたまふなるを聞きたまふにも、かつはうれしきものから、さすがに、わが心ながらをこがましく、胸うちつぶれて、「ものにもがなや」と、返す返す独りごたれて、
    184 
     185 「しなてるや鳰の湖に漕ぐ舟の
    185 
     186  まほならねどもあひ見しものを」
    186 
     187 とぞ言ひくたさまほしき。
    187 
     188

    188 
     189 [第三段 夕霧、六の君の裳着を行い、結婚を思案す]
    189 
     190 右の大殿は、六の君を宮にたてまつりたまはむこと、この月にと思し定めたりけるに、かく思ひの外の人を、このほどより先にと思し顔にかしづき据ゑたまひて、離れおはすれば、「いとものしげに思したり」と聞きたまふも、いとほしければ、御文は時々たてまつりたまふ。
    190 
     191 御裳着のこと、世に響きていそぎたまへるを、延べたまはむも人笑へなるべければ、二十日あまりに着せたてまつりたまふ。
    191 
     192 同じゆかりにめづらしげなくとも、この中納言をよそ人に譲らむが口惜しきに、
    192 
     193 「さもやなしてまし。年ごろ人知れぬものに思ひけむ人をも亡くなして、もの心細くながめゐたまふなるを」
    193 
     194 など思し寄りて、さるべき人してけしきとらせたまひけれど、
    194 
     195 「世のはかなさを目に近く見しに、いと心憂く、身もゆゆしうおぼゆれば、いかにもいかにも、さやうのありさまはもの憂くなむ」
    195 
     196 と、すさまじげなるよし聞きたまひて、
    196 
     197 「いかでか、この君さへ、おほなおほな言出づることを、もの憂くはもてなすべきぞ」
    197 
     198 と恨みたまひけれど、親しき御仲らひながらも、人ざまのいと心恥づかしげにものしたまへば、えしひてしも聞こえ動かしたまはざりけり。
    198 
     199

    199 
     200 [第四段 薫、桜の花盛りに二条院を訪ね中君と語る]
    200 
     201 花盛りのほど、二条の院の桜を見やりたまふに、主なき宿のまづ思ひやられたまへば、「心やすくや」など、独りごちあまりて、宮の御もとに参りたまへり。
    201 
     202 ここがちにおはしましつきて、いとよう住み馴れたまひにたれば、「めやすのわざや」と見たてまつるものから、例の、いかにぞやおぼゆる心の添ひたるぞ、あやしきや。されど、実の御心ばへは、いとあはれにうしろやすくぞ思ひきこえたまひける。
    202 
     203 何くれと御物語聞こえ交はしたまひて、夕つ方、宮は内裏へ参りたまはむとて、御車の装束して、人びと多く参り集まりなどすれば、立ち出でたまひて、対の御方へ参りたまへり。
    203 
     204 山里のけはひ、ひきかへて、御簾のうち心にくく住みなして、をかしげなる童の、透影ほの見ゆるして、御消息聞こえたまへれば、御茵さし出でて、昔の心知れる人なるべし、出で来て御返り聞こゆ。
    204 
     205 「朝夕の隔てもあるまじう思うたまへらるるほどながら、そのこととなくて聞こえさせむも、なかなかなれなれしきとがめやと、つつみはべるほどに、世の中変はりにたる心地のみぞしはべるや。御前の梢も霞隔てて見えはべるに、あはれなること多くもはべるかな」
    205 
     206 と聞こえて、うち眺めてものしたまふけしき、心苦しげなるを、
    206 
     207 「げに、おはせましかば、おぼつかなからず行き返り、かたみに花の色、鳥の声をも、折につけつつ、すこし心ゆきて過ぐしつべかりける世を」
    207 
     208 など、思し出づるにつけては、ひたぶるに絶え籠もりたまへりし住まひの心細さよりも、飽かず悲しう、口惜しきことぞ、いとどまさりける。
    208 
     209

    209 
     210 [第五段 匂宮、中君と薫に疑心を抱く]
    210 
     211 人びとも、
    211 
     212 「世の常に、ことことしくなもてなしきこえさせたまひそ。限りなき御心のほどをば、今しもこそ、見たてまつり知らせたまふさまをも、見えたてまつらせたまふべけれ」
    212 
     213 など聞こゆれど、人伝てならず、ふとさし出で聞こえむことの、なほつつましきを、やすらひたまふほどに、宮、出でたまはむとて、御まかり申しに渡りたまへり。いときよらにひきつくろひ化粧じたまひて、見るかひある御さまなり。
    213 
     214 中納言はこなたになりけり、と見たまひて、
    214 
     215 「などか、むげにさし放ちては、出だし据ゑたまへる。御あたりには、あまりあやしと思ふまで、うしろやすかりし心寄せを。わがためはをこがましきこともや、とおぼゆれど、さすがにむげに隔て多からむは、罪もこそ得れ。近やかにて、昔物語もうち語らひたまへかし」
    215 
     216 など、聞こえたまふものから、
    216 
     217 「さはありとも、あまり心ゆるびせむも、またいかにぞや。疑はしき下の心にぞあるや」
    217 
     218 と、うち返しのたまへば、一方ならずわづらはしけれど、わが御心にも、あはれ深く思ひ知られにし人の御心を、今しもおろかなるべきならねば、「かの人も思ひのたまふめるやうに、いにしへの御代はりとなずらへきこえて、かう思ひ知りけりと、見えたてまつるふしもあらばや」とは思せど、さすがに、とかくやと、かたがたにやすからず聞こえなしたまへば、苦しう思されけり。
    218 
     219

    219 
     220 【出典】
    220 
     221出典1 日の光薮し分かねば石の上古りにし里に花も咲きけり(古今集雑上-八七〇 布留今道)(戻)
    221 
     222出典2 花鳥の色をも音をもいたづらにもの憂かる身は過ぐすのみなり(後撰集夏-二一二 藤原雅正)(戻)
    222 
     223出典3 わが身から憂き世の中と名付けつつ人のためさへ悲しかるらむ(古今集雑下-九六〇 読人しらず)(戻)
    223 
     224出典4 春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる(古今集春上-四一 凡河内躬恒)(戻)
    224 
     225出典5 恋しくは来てもみよかし人づてに岩瀬の森の呼子鳥かな(玄々集-九三)(戻)
    225 
     226出典6 いざここにわが世は経なむ菅原や伏見の里の荒れまくも惜し(古今集雑下-九八一 読人しらず)(戻)
    226 
     227出典7 春霞立つを見捨てて行く雁は花なき里に住みやならへる(古今集春上-三一 伊勢)(戻)
    227 
     228出典8 今ぞ知る苦しきものと人待たむ里をば離れず訪ふべかりけり(古今集雑下-九六九 在原業平)(戻)
    228 
     229出典9 月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つはもとの身にして(古今集恋五-七四七 在原業平)(戻)
    229 
     230出典10 五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする(古今集夏-一三九 読人しらず)(戻)
    230 
     231出典11 逢ふことのあらしにまよふ小舟ゆゑとまる我さへこがれぬるかな(九条右大臣集-三五)(戻)
    231 
    c2-1232-233<A NAME="no12">出典12</A> 憎さのみ益田の池のねぬなはは厭ふにはふるものにぞありける(源氏釈所引-《改行》
    出典未詳)あやしくも厭ふにはゆる心かないかにしてかは思ひやむべき(後撰集恋二-六〇八 読人しらず)<A HREF="#te12">(戻)</A><BR>
    232<A NAME="no12">出典12</A> 憎さのみ益田の池のねぬなはは厭ふにはふるものにぞありける(源氏釈所引-出典未詳)あやしくも厭ふにはゆる心かないかにしてかは思ひやむべき(後撰集恋二-六〇八 読人しらず)<A HREF="#te12">(戻)</A><BR>
     234出典13 大方の我が身一つの憂きからになべての世をも恨みつるかな(拾遺集恋五-九五三 紀貫之)(戻)
    233 
     235出典14 涙河底の水屑となりはてて恋しき瀬々に流れこそすれ(拾遺集恋四-八七七 源順)(戻)
    234 
     236出典15 我が恋は行方も知らず果てもなし逢ふを限りと思ふばかりぞ(古今集恋二-六一一 凡河内躬恒)(戻)
    235 
     237出典16 心から浮きたる舟に乗りそめて一日も波に濡れぬ日ぞなき(後撰集恋三-七七九 小野小町)(戻)
    236 
     238出典17 かかる瀬もありけるものをとまりゐて身を宇治川と思ひけるかな(九条右大臣集-五八)(戻)
    237 
     239出典18 都にて山の端に見し月なれど波より出でて波にこそ入れ(土佐日記-二六)(戻)
    238 
     240出典19 この殿は むべも むべも富みけり さきくさの あはれ さきくさの はれ さきくさの 三つ葉四つ葉の中に 殿づくりせりや 殿づくりせりや(催馬楽-この殿は)(戻)
    239 
     241出典20 取り返すものにもがなや世の中をありしながらの我が身と思はむ(源氏釈所引-出典未詳)(戻)
    240 
     242出典21 しなてるや鳰の海に漕ぐ舟のまほにも妹に逢ひ見てしがな(河海抄所引-出典未詳)(戻)
    241 
     243出典22 浅茅原主なき宿の桜花心やすくや風に散るらむ(拾遺集春-六二 恵慶法師)植ゑて見し主なき宿の梅の花色ばかりこそ昔なりけれ(源氏釈所引-出典未詳)(戻)
    242 
     244

    243 
     245 【校訂】
    244 
     246備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△
    245 
     247校訂1 残したりけり--のこし(し/+たり)けり(戻)
    246 
     248校訂2 心まうけせさせ--心まうけ(け/+せ<朱>)させ(戻)
    247 
     249校訂3 垣間見--かいは(は/#ま<朱>)み(戻)
    248 
     250校訂4 罪深かなる--*つみふかくなる(戻)
    249 
     251校訂5 旅寝せむも--たひねせん(ん/+も<朱>)(戻)
    250 
     252校訂6 心寄せまほしく--心よせま(ま/+ほ<朱>)し(し/+く<朱>)(戻)
    251 
     253校訂7 見たまふにぞ--見給ふに(に/+そ)(戻)
    252 
     254

    253 
     255源氏物語の世界ヘ
    254 
     256ローマ字版
    255 
     257現代語訳
    256 
     258注釈
    257 
     259大島本
    258 
     260自筆本奥入
    259 
     261260 
     262
    261 
     263262 
     264263