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 3竹河(大島本)3 
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 7渋谷栄一校訂(C)(ver.1-2-2)7 
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竹河

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 11薫君の中将時代十五歳から十九歳までの物語
11 
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 13 [主要登場人物]
13 
 14
14 
 15
 薫<かおる>
15 
 16
呼称---侍従・源侍従の君・四位の侍従・薫中将・宰相中将・中納言・源中納言、源氏の子
16 
 17
 匂宮<におうのみや>
17 
 18
呼称---兵部卿宮・宮、今上帝の第三親王
18 
 19
 夕霧<ゆうぎり>
19 
 20
呼称---右大臣・右の大殿・左大臣・左の大殿、源氏の長男
20 
 21
 紅梅大納言<こうばいのだいなごん>
21 
 22
呼称---大納言・藤大納言・大納言殿・大臣・大臣殿、致仕大臣の二男、故柏木の弟
22 
 23
 蔵人少将<くろうどのしょうしょう>
23 
 24
呼称---蔵人少将・少将・三位中将・宰相中将、夕霧の子
24 
 25
 左近中将<さこんのちゅうじょう>
25 
 26
呼称---中将・中将の君・右兵衛督、鬚黒の長男
26 
 27
 右中弁<うちゅうべん>
27 
 28
呼称---弁の君・右大弁、鬚黒の二男
28 
 29
 藤侍従<とうじじゅう>
29 
 30
呼称---侍従の君・主人の侍従・頭中将、鬚黒の三男
30 
 31
 大君<おおいきみ>
31 
 32
呼称---姫君・姉君・御息所、鬚黒の長女
32 
 33
 中君<なかのきみ>
33 
 34
呼称---若君・右の姫君・中の姫君・尚侍・内裏の君、鬚黒の二女
34 
 35
 真木柱<まきばしら>
35 
 36
呼称---北の方・真木柱の君、鬚黒大将の娘、蛍兵部卿宮の北の方
36 
 37
 玉鬘<たまかずら>
37 
 38
呼称---尚侍・尚侍君・前の尚侍君・大上、鬚黒大将の北の方
38 
 39
 冷泉院<れいぜいいん>
39 
 40
呼称---冷泉院の帝・院・帝・院の上・上、桐壺帝の皇子
40 
 41
 今上帝<きんじょうてい>
41 
 42
呼称---内裏、朱雀院の皇子
42 
 43
 東宮<とうぐう>
43 
 44
呼称---春宮、今上帝の第一親王
44 
 4545 
 46

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 47第一章 鬚黒一族の物語 玉鬘と姫君たち
47 
 48
48 
 49
  • 鬚黒没後の玉鬘と子女たち---これは、源氏の御族にも離れたまへりし、後の大殿わたり
  • 49 
     50
  • 玉鬘の姫君たちへの縁談---男君たちは、御元服などして、おのおのおとなびたまひ
  • 50 
     51
  • 夕霧の息子蔵人少将の求婚---容貌いとようおはする聞こえありて、心かけ申したまふ人
  • 51 
     52
  • 薫君、玉鬘邸に出入りす---六条院の御末に、朱雀院の宮の御腹に生まれたまへりし君
  • 52 
     5353 
     54第二章 玉鬘邸の物語 梅と桜の季節の物語
    54 
     55
    55 
     56
  • 正月、夕霧、玉鬘邸に年賀に参上---睦月の朔日ころ、尚侍の君の御兄弟の大納言
  • 56 
     57
  • 薫君、玉鬘邸に年賀に参上---夕つけて、四位侍従参りたまへり。そこらおとなしき若君達も
  • 57 
     58
  • 梅の花盛りに、薫君、玉鬘邸を訪問---侍従の君、まめ人の名をうれたしと思ひければ
  • 58 
     59
  • 得意の薫君と嘆きの蔵人少将---少将も、声いとおもしろうて、「さき草」歌ふ
  • 59 
     60
  • 三月、花盛りの玉鬘邸の姫君たち---弥生になりて、咲く桜あれば、散りかひくもり
  • 60 
     61
  • 玉鬘の大君、冷泉院に参院の話---尚侍の君、かくおとなしき人の親になりたまふ御年
  • 61 
     62
  • 蔵人少将、姫君たちを垣間見る---中将など立ちたまひてのち、君たちは、打ちさしたまへる碁
  • 62 
     63
  • 姫君たち、桜花を惜しむ和歌を詠む---君達は、花の争ひをしつつ明かし暮らしたまふに
  • 63 
     6464 
     65第三章 玉鬘の大君の物語 冷泉院に参院
    65 
     66
    66 
     67
  • 大君、冷泉院に参院決定---かくいふに、月日はかなく過ぐすも、行く末のうしろめたきを
  • 67 
     68
  • 蔵人少将、藤侍従を訪問---かひなきことも言はむとて、例の、侍従の曹司に来たれば
  • 68 
     69
  • 四月一日、蔵人少将、玉鬘へ和歌を贈る---またの日は、卯月になりにければ、兄弟の君たちの
  • 69 
     70
  • 四月九日、大君、冷泉院に参院---九日にぞ参りたまふ。右の大殿、御車、御前の人びと
  • 70 
     71
  • 蔵人少将、大君と和歌を贈答---蔵人の君、例の人にいみじき言葉を尽くして
  • 71 
     72
  • 冷泉院における大君と薫君---大人、童、めやすき限りをととのへられたり
  • 72 
     73
  • 失意の蔵人少将と大君のその後---かの少将の君はしも、まめやかに、いかにせましと
  • 73 
     7474 
     75第四章 玉鬘の物語 玉鬘の姫君たちの物語
    75 
     76
    76 
     77
  • 正月、男踏歌、冷泉院に回る---その年かへりて、男踏歌せられけり。殿上の若人どもの中に
  • 77 
     78
  • 翌日、冷泉院、薫を召す---夜一夜、所々かきありきて、いと悩ましう苦しくて
  • 78 
     79
  • 四月、大君に女宮誕生---卯月に、女宮生まれたまひぬ。ことにけざやかなるものの
  • 79 
     80
  • 玉鬘、夕霧へ手紙を贈る---「かくて、心やすくて内裏住みもしたまへかし
  • 80 
     81
  • 玉鬘、出家を断念---前の尚侍の君、容貌を変へてむと思し立つを
  • 81 
     82
  • 大君、男御子を出産---年ごろありて、また男御子産みたまひつ
  • 82 
     83
  • 求婚者たちのその後---聞こえし人びとの、めやすくなり上りつつ、さてもおはせましに
  • 83 
     8484 
     85第五章 薫君の物語 人びとの昇進後の物語
    85 
     86
    86 
     87
  • 薫、玉鬘邸に昇進の挨拶に参上---左大臣亡せたまひて、右は左に
  • 87 
     88
  • 薫、玉鬘と対面しての感想---「さらにかうまで思すまじきことになむ
  • 88 
     89
  • 右大臣家の大饗---大臣殿は、ただこの殿の東なりけり。大饗の
  • 89 
     90
  • 宰相中将、玉鬘邸を訪問---左の大殿の宰相中将、大饗のまたの日、夕つけてここに
  • 90 
     9191 
     92

    92 
     93【出典】
    93 
     94【校訂】
    94 
     95

    95 
     96 

    第一章 鬚黒一族の物語 玉鬘と姫君たち

    96 
     97 [第一段 鬚黒没後の玉鬘と子女たち]
    97 
     98 これは、源氏の御族にも離れたまへりし、後の大殿わたりにありける悪御達の、落ちとまり残れるが、問はず語りしおきたるは、紫のゆかりにも似ざめれど、かの女どもの言ひけるは、「源氏の御末々に、ひがことどもの混じりて聞こゆるは、我よりも年の数積もり、ほけたりける人のひがことにや」などあやしがりける。いづれかはまことならむ。
    98 
     99 尚侍の御腹に、故殿の御子は、男三人、女二人なむおはしけるを、さまざまにかしづきたてむことを思しおきてて、年月の過ぐるも心もとながりたまひしほどに、あへなく亡せたまひにしかば、夢のやうにて、いつしかといそぎ思しし御宮仕へもおこたりぬ。
    99 
     100 人の心、時にのみよるわざなりければ、さばかり勢ひいかめしくおはせし大臣の御名残、うちうちの御宝物、領じたまふ所々のなど、その方の衰へはなけれど、おほかたのありさま引き変へたるやうに、殿のうちしめやかになりゆく。
    100 
     101 尚侍の君の御近きゆかり、そこらこそは世に広ごりたまへど、なかなかやむごとなき御仲らひの、もとよりも親しからざりしに、故殿、情けすこしおくれ、むらむらしさ過ぎたまへりける御本性にて、心おかれたまふこともありけるゆかりにや、誰れにもえなつかしく聞こえ通ひたまはず。
    101 
     102 六条院には、すべて、なほ昔に変らず数まへきこえたまひて、亡せたまひなむ後のことども書きおきたまへる御処分の文どもにも、中宮の御次に加へたてまつりたまへれば、右の大殿などは、なかなかその心ありて、さるべき折々訪れきこえたまふ。
    102 
     103

    103 
     104 [第二段 玉鬘の姫君たちへの縁談]
    104 
     105 男君たちは、御元服などして、おのおのおとなびたまひにしかば、殿のおはせでのち、心もとなくあはれなることもあれど、おのづからなり出でたまひぬべかめり。「姫君たちをいかにもてなしたてまつらむ」と、思し乱る。
    105 
     106 内裏にも、かならず宮仕への本意深きよしを、大臣の奏しおきたまひければ、おとなびたまひぬらむ年月を推し量らせたまひて、仰せ言絶えずあれど、中宮の、いよいよ並びなくのみなりまさりたまふ御けはひにおされて、皆人無徳にものしたまふめる末に参りて、遥かに目を側められたてまつらむもわづらはしく、また人に劣り、数ならぬさまにて見む、はた、心尽くしなるべきを思ほしたゆたふ。
    106 
     107 冷泉院よりは、いとねむごろに思しのたまはせて、尚侍の君の、昔、本意なくて過ぐしたまうし辛さをさへ、とり返し恨みきこえたまうて、
    107 
     108 「今は、まいてさだすぎ、すさまじきありさまに思ひ捨てたまふとも、うしろやすき親になずらへて、譲りたまへ」
    108 
     109 と、いとまめやかに聞こえたまひければ、「いかがはあるべきことならむ。みづからのいと口惜しき宿世にて、思ひの外に心づきなしと思されにしが、恥づかしうかたじけなきを、この世の末にや御覧じ直されまし」など定めかねたまふ。
    109 
     110

    110 
     111 [第三段 夕霧の息子蔵人少将の求婚]
    111 
     112 容貌いとようおはする聞こえありて、心かけ申したまふ人多かり。右の大殿の蔵人少将とかいひしは、三条殿の御腹にて、兄君たちよりも引き越し、いみじうかしづきたまひ、人柄もいとをかしかりし君、いとねむごろに申したまふ。
    112 
     113 いづ方につけても、もて離れたまはぬ御仲らひなれば、この君たちの睦び参りたまひなどするは、気遠くもてなしたまはず。女房にも気近く馴れ寄りつつ、思ふことを語らふにも便りありて、夜昼、あたりさらぬ耳かしかましさを、うるさきものの、心苦しきに、尚侍の殿も思したり。
    113 
     114 母北の方の御文も、しばしばたてまつりたまひて、「いと軽びたるほどにはべるめれど、思し許す方もや」となむ、大臣も聞こえたまひける。
    114 
     115 姫君をば、さらにただのさまにも思しおきてたまはず、中の君をなむ、今すこし世の聞こえ軽々しからぬほどになずらひならば、さもや、と思しける。許したまはずは、盗みも取りつべく、むくつけきまで思へり。こよなきこととは思さねど、女方の心許したまはぬことの紛れあるは、音聞きもあはつけきわざなれば、聞こえつぐ人をも、「あな、かしこ。過ち引き出づな」などのたまふに、朽たされてなむ、わづらはしがりける。
    115 
     116

    116 
     117 [第四段 薫君、玉鬘邸に出入りす]
    117 
     118 六条院の御末に、朱雀院の宮の御腹に生まれたまへりし君、冷泉院に、御子のやうに思しかしづく四位侍従、そのころ十四、五ばかりにて、いときびはに幼かるべきほどよりは、心おきておとなおとなしく、めやすく、人にまさりたる生ひ先しるくものしたまふを、尚侍の君は、婿にても見まほしく思したり。
    118 
     119 この殿は、かの三条の宮といと近きほどなれば、さるべき折々の遊び所には、君達に引かれて見えたまふ時々あり。心にくき女のおはする所なれば、若き男の心づかひせぬなう、見えしらひさまよふ中に、容貌のよさは、この立ち去らぬ蔵人少将、なつかしく心恥づかしげに、なまめいたる方は、この四位侍従の御ありさまに、似る人ぞなかりける。
    119 
     120 六条院の御けはひ近うと思ひなすが、心ことなるにやあらむ、世の中におのづからもてかしづかれたまへる人、若き人びと、心ことにめであへり。尚侍の殿も、「げにこそ、めやすけれ」などのたまひて、なつかしうもの聞こえたまひなどす。
    120 
     121 「院の御心ばへを思ひ出できこえて、慰む世なう、いみじうのみ思ほゆるを、その御形見にも、誰をかは見たてまつらむ。右の大臣は、ことことしき御ほどにて、ついでなき対面もかたきを」
    121 
     122 などのたまひて、兄弟のつらに思ひきこえたまへれば、かの君も、さるべき所に思ひて参りたまふ。世の常のすきずきしさも見えず、いといたうしづまりたるをぞ、ここかしこの若き人ども、口惜しうさうざうしきことに思ひて、言ひなやましける。
    122 
     123

    123 
     124 

    第二章 玉鬘邸の物語 梅と桜の季節の物語

    124 
     125 [第一段 正月、夕霧、玉鬘邸に年賀に参上]
    125 
     126 睦月の朔日ころ、尚侍の君の御兄弟の大納言、「高砂」謡ひしよ、藤中納言、故大殿の太郎、真木柱の一つ腹など参りたまへり。右の大臣も、御子ども六人ながらひき連れておはしたり。御容貌よりはじめて、飽かぬことなく見ゆる人の御ありさまおぼえなり。
    126 
     127 君たちも、さまざまいときよげにて、年のほどよりは、官位過ぎつつ、何ごと思ふらむと見えたるべし。世とともに、蔵人の君は、かしづかれたるさま異なれど、うちしめりて思ふことあり顔なり。
    127 
     128 大臣は、御几帳隔てて、昔に変らず御物語聞こえたまふ。
    128 
     129 「そのこととなくて、しばしばもえうけまはらず。年の数添ふままに、内裏に参るより他のありき、うひうひしうなりにてはべれば、いにしへの御物語も、聞こえまほしき折々多く過ぐしはべるをなむ。
    129 
     130 若き男どもは、さるべきことには召しつかはせたまへ。かならずその心ざし御覧ぜられよと、いましめはべり」など聞こえたまふ。
    130 
     131 「今は、かく、世に経る数にもあらぬやうになりゆくありさまを、思し数まふるになむ、過ぎにし御ことも、いとど忘れがたく思うたまへられける」
    131 
     132 と申したまひけるついでに、院よりのたまはすること、ほのめかし聞こえたまふ。
    132 
     133 「はかばかしう後見なき人の交じらひは、なかなか見苦しきをと、思ひたまへなむわづらふ」
    133 
     134 と申したまへば、
    134 
     135 「内裏に仰せらるることあるやうに承りしを、いづ方に思ほし定むべきことにか。院は、げに、御位を去らせたまへるにこそ、盛り過ぎたる心地すれど、世にありがたき御ありさまは、古りがたくのみおはしますめるを、よろしう生ひ出づる女子はべらましかばと、思ひたまへよりながら、恥づかしげなる御中に、交じらふべき物のはべらでなむ、口惜しう思ひたまへらるる。
    135 
     136 そもそも、女一の宮の女御は、許しきこえたまふや。さきざきの人、さやうの憚りにより、とどこほることもはべりかし」
    136 
     137 と申したまへば、
    137 
     138 「女御なむ、つれづれにのどかになりにたるありさまも、同じ心に後見て、慰めまほしきをなど、かの勧めたまふにつけて、いかがなどだに思ひたまへよるになむ」
    138 
     139 と聞こえたまふ。
    139 
     140 これかれ、ここに集まりたまひて、三条の宮に参りたまふ。朱雀院の古き心ものしたまふ人びと、六条院の方ざまのも、かたがたにつけて、なほかの入道宮をば、えよきず参りたまふなめり。この殿の左近中将、右中弁、侍従の君なども、やがて大臣の御供に出でたまひぬ。ひき連れたまへる勢ひことなり。
    140 
     141

    141 
     142 [第二段 薫君、玉鬘邸に年賀に参上]
    142 
     143 夕つけて、四位侍従参りたまへり。そこらおとなしき若君達も、あまたさまざまに、いづれかは悪ろびたりつる。皆めやすかりつる中に、立ち後れてこの君の立ち出でたまへる、いとこよなく目とまる心地して、例の、ものめでする若き人たちは、「なほ、ことなりけり」など言ふ。
    143 
     144 「この殿の姫君の御かたはらには、これをこそさし並べて見め」
    144 
     145 と、聞きにくく言ふ。げに、いと若うなまめかしきさまして、うちふるまひたまへる匂ひ香など、世の常ならず。「姫君と聞こゆれど、心おはせむ人は、げに人よりはまさるなめりと、見知りたまふらむかし」とぞおぼゆる。
    145 
     146 尚侍の殿、御念誦堂におはして、「こなたに」とのたまへれば、東の階より昇りて、戸口の御簾の前にゐたまへり。御前近き若木の梅、心もとなくつぼみて、鴬の初声もいとおほどかなるに、いと好かせたてまほしきさまのしたまへれば、人びとはかなきことを言ふに、言少なに心にくきほどなるを、ねたがりて、宰相の君と聞こゆる上臈の詠みかけたまふ。
    146 
     147 「折りて見ばいとど匂ひもまさるやと
    147 
     148  すこし色めけ梅の初花」
    148 
     149 「口はやし」と聞きて、
    149 
     150 「よそにてはもぎ木なりとや定むらむ
    150 
     151  下に匂へる梅の初花
    151 
     152 さらば袖触れて見たまへ」など言ひすさぶに、
    152 
     153 「まことは色よりも」
    153 
     154 と、口々、引きも動かしつべくさまよふ。
    154 
     155 尚侍の君、奥の方よりゐざり出でたまひて、
    155 
     156 「うたての御達や。恥づかしげなるまめ人をさへ、よくこそ、面無けれ」
    156 
     157 と忍びてのたまふなり。「まめ人とこそ、付けられたりけれ。いと屈じたる名かな」と思ひゐたまへり。主人の侍従、殿上などもまだせねば、所々もありかで、おはしあひたり。浅香の折敷、二つばかりして、くだもの、盃ばかりさし出でたまへり。
    157 
     158 「大臣は、ねびまさりたまふままに、故院にいとようこそ、おぼえたてまつりたまへれ。この君は、似たまへるところも見えたまはぬを、けはひのいとしめやかに、なまめいたるもてなししもぞ、かの御若盛り思ひやらるる。かうざまにぞおはしけむかし」
    158 
     159 など、思ひ出でられたまひて、うちしほたれたまふ。名残さへとまりたる香うばしさを、人びとはめでくつがへる。
    159 
     160

    160 
     161 [第三段 梅の花盛りに、薫君、玉鬘邸を訪問]
    161 
     162 侍従の君、まめ人の名をうれたしと思ひければ、二十余日のころ、梅の花盛りなるに、「匂ひ少なげに取りなされじ。好き者ならはむかし」と思して、藤侍従の御もとにおはしたり。
    162 
     163 中門入りたまふほどに、同じ直衣姿なる人立てりけり。隠れなむと思ひけるを、ひきとどめたれば、この常に立ちわづらふ少将なりけり。
    163 
     164 「寝殿の西面に、琵琶、箏の琴の声するに、心を惑はして立てるなめり。苦しげや。人の許さぬこと思ひはじめむは、罪深かるべきわざかな」と思ふ。琴の声もやみぬれば、
    164 
     165 「いざ、しるべしたまへ。まろは、いとたどたどし」
    165 
     166 とて、ひき連れて、西の渡殿の前なる紅梅の木のもとに、「梅が枝」をうそぶきて立ち寄るけはひの、花よりもしるく、さとうち匂へれば、妻戸おし開けて、人びと、東琴をいとよく掻き合はせたり。女の琴にて、呂の歌は、かうしも合はせぬを、いたしと思ひて、今一返り、をり返し歌ふを、琵琶も二なく今めかし。
    166 
     167 「ゆゑありてもてないたまへるあたりぞかし」と、心とまりぬれば、今宵はすこしうちとけて、はかなしごとなども言ふ。
    167 
     168 内より和琴さし出でたり。かたみに譲りて、手触れぬに、侍従の君して、尚侍の殿、
    168 
     169 「故致仕の大臣の御爪音になむ、通ひたまへる、と聞きわたるを、まめやかにゆかしうなむ。今宵は、なほ鴬にも誘はれたまへ」
    169 
     170 と、のたまひ出だしたれば、「あまえて爪くふべきことにもあらぬを」と思ひて、をさをさ心にも入らず掻きわたしたまへるけしき、いと響き多く聞こゆ。
    170 
     171 「常に見たてまつり睦びざりし親なれど、世におはせずなりにきと思ふに、いと心細きに、はかなきことのついでにも思ひ出でたてまつるに、いとなむあはれなる。
    171 
     172 おほかた、この君は、あやしう故大納言の御ありさまに、いとようおぼえ、琴の音など、ただそれとこそ、おぼえつれ」
    172 
     173 とて泣きたまふも、古めいたまふしるしの、涙もろさにや。
    173 
     174

    174 
     175 [第四段 得意の薫君と嘆きの蔵人少将]
    175 
     176 少将も、声いとおもしろうて、「さき草」謡ふ。さかしら心つきて、うち過ぐしたる人もまじらねば、おのづからかたみにもよほされて遊びたまふに、主人の侍従は、故大臣に似たてまつりたまへるにや、かやうの方は後れて、盃をのみすすむれば、「寿詞をだにせむや」と、恥づかしめられて、「竹河」を同じ声に出だして、まだ若けれど、をかしう謡ふ。簾のうちより土器さし出づ。
    176 
     177 「酔のすすみては、忍ぶることもつつまれず。ひがことするわざとこそ聞きはべれ。いかにもてないたまふぞ」
    177 
     178 と、とみにうけひかず。小袿重なりたる細長の、人香なつかしう染みたるを、取りあへたるままに、被けたまふ。「何ぞもぞ」などさうどきて、侍従は、主人の君にうち被けて去ぬ。引きとどめて被くれど、「水駅にて夜更けにけり」とて、逃げにけり。
    178 
     179 少将は、「この源侍従の君のかうほのめき寄るめれば、皆人これにこそ心寄せたまふらめ。わが身は、いとど屈じいたく思ひ弱りて」、あぢきなうぞ恨むる。
    179 
     180 「人はみな花に心を移すらむ
    180 
     181  一人ぞ惑ふ春の夜の闇」
    181 
     182 うち嘆きて立てば、内の人の返し、
    182 
     183 「をりからやあはれも知らむ梅の花
    183 
     184  ただ香ばかりに移りしもせじ」
    184 
     185 朝に、四位侍従のもとより、主人の侍従のもとに、
    185 
     186 「昨夜は、いと乱りがはしかりしを、人びといかに見たまひけむ」
    186 
     187 と、見たまへとおぼしう、仮名がちに書きて、
    187 
     188 「竹河の橋うちいでし一節に
    188 
     189  深き心の底は知りきや」
    189 
     190 と書きたり。寝殿に持て参りて、これかれ見たまふ。
    190 
     191 「手なども、いとをかしうもあるかな。いかなる人、今よりかくととのひたらむ。幼くて、院にも後れたてまつり、母宮のしどけなう生ほし立てたまへれど、なほ人にはまさるべきにこそあめれ」
    191 
     192 とて、尚侍の君は、この君たちの、手など悪しきことを恥づかしめたまふ。返りこと、げに、いと若く、
    192 
     193 「昨夜は、水駅をなむ、とがめきこゆめりし。
    193 
     194  竹河に夜を更かさじといそぎしも
    194 
     195  いかなる節を思ひおかまし」
    195 
     196 げに、この節をはじめにて、この君の御曹司におはして、けしきばみ寄る。少将の推し量りしもしるく、皆人心寄せたり。侍従の君も、若き心地に、近きゆかりにて、明け暮れ睦びまほしう思ひけり。
    196 
     197

    197 
     198 [第五段 三月、花盛りの玉鬘邸の姫君たち]
    198 
     199 弥生になりて、咲く桜あれば、散りかひくもり、おほかたの盛りなるころ、のどやかにおはする所は、紛るることなく、端近なる罪もあるまじかめり。
    199 
     200 そのころ、十八、九のほどやおはしけむ、御容貌も心ばへも、とりどりにぞをかしき。姫君は、いとあざやかに気高う、今めかしきさましたまひて、げに、ただ人にて見たてまつらむは、似げなうぞ見えたまふ。
    200 
     201 桜の細長、山吹などの、折にあひたる色あひの、なつかしきほどに重なりたる裾まで、愛敬のこぼれ落ちたるやうに見ゆる、御もてなしなども、らうらうじく、心恥づかしき気さへ添ひたまへり。
    201 
     202 今一所は、薄紅梅に、桜色にて、柳の糸のやうに、たをたをとたゆみ、いとそびやかになまめかしう、澄みたるさまして、重りかに心深きけはひは、まさりたまへれど、匂ひやかなるけはひは、こよなしとぞ人思へる。
    202 
     203 碁打ちたまふとて、さし向ひたまへる髪ざし、御髪のかかりたるさまども、いと見所あり。侍従の君、見証したまふとて、近うさぶらひたまふに、兄君たちさしのぞきたまひて、
    203 
     204 「侍従のおぼえ、こよなうなりにけり。御碁の見証許されにけるをや」
    204 
     205 とて、おとなおとなしきさましてついゐたまへば、御前なる人びと、とかうゐなほる。中将、
    205 
     206 「宮仕へのいそがしうなりはべるほどに、人に劣りにたるは、いと本意なきわざかな」
    206 
     207 と愁へたまへば、
    207 
     208 「弁官は、まいて、私の宮仕へおこたりぬべきままに、さのみやは思し捨てむ」
    208 
     209 など申したまふ。碁打ちさして、恥ぢらひておはさうずる、いとをかしげなり。
    209 
     210 「内裏わたりなどまかりありきても、故殿おはしまさましかば、と思ひたまへらるること多くこそ」
    210 
     211 など、涙ぐみて見たてまつりたまふ。二十七、八のほどにものしたまへば、いとよくととのひて、この御ありさまどもを、「いかで、いにしへ思しおきてしに、違へずもがな」と思ひゐたまへり。
    211 
     212 御前の花の木どもの中にも、匂ひまさりてをかしき桜を折らせて、「他のには似ずこそ」など、もてあそびたまふを、
    212 
     213 「幼くおはしましし時、この花は、わがぞ、わがぞと、争ひたまひしを、故殿は、姫君の御花ぞと定めたまふ。上は、若君の御木と定めたまひしを、いとさは泣きののしらねど、やすからず思ひたまへられしはや」とて、「この桜の老木になりにけるにつけても、過ぎにける齢を思ひたまへ出づれば、あまたの人に後れはべりにける、身の愁へも、止めがたうこそ」
    213 
     214 など、泣きみ笑ひみ聞こえたまひて、例よりはのどやかにおはす。人の婿になりて、心静かにも今は見えたまはぬを、花に心とどめてものしたまふ。
    214 
     215

    215 
     216 [第六段 玉鬘の大君、冷泉院に参院の話]
    216 
     217 尚侍の君、かくおとなしき人の親になりたまふ御年のほど思ふよりは、いと若うきよげに、なほ盛りの御容貌と見えたまへり。冷泉院の帝は、多くは、この御ありさまのなほゆかしう、昔恋しう思し出でられければ、何につけてかはと、思しめぐらして、姫君の御ことを、あながちに聞こえたまふにぞありける。院へ参りたまはむことは、この君たちぞ、
    217 
     218 「なほ、ものの栄なき心地こそすべけれ。よろづのこと、時につけたるをこそ、世人も許すめれ。げに、いと見たてまつらまほしき御ありさまは、この世にたぐひなくおはしますめれど、盛りならぬ心地ぞするや。琴笛の調べ、花鳥の色をも音をも、時に従ひてこそ、人の耳もとまるものなれ。春宮は、いかが」
    218 
     219 など申したまへば、
    219 
     220 「いさや、はじめよりやむごとなき人の、かたはらもなきやうにてのみ、ものしたまふめればこそ。なかなかにて交じらはむは、胸いたく人笑へなることもやあらむと、つつましければ。殿おはせましかば、行く末の御宿世宿世は知らず、ただ今は、かひあるさまにもてなしたまひてましを」
    220 
     221 などのたまひ出でて、皆ものあはれなり。
    221 
     222

    222 
     223 [第七段 蔵人少将、姫君たちを垣間見る]
    223 
     224 中将など立ちたまひてのち、君たちは、打ちさしたまへる碁打ちたまふ。昔より争ひたまふ桜を賭物にて、
    224 
     225 「三番に、数一つ勝ちたまはむ方には、なほ花を寄せてむ」
    225 
     226 と、戯れ交はし聞こえたまふ。暗うなれば、端近うて打ち果てたまふ。御簾巻き上げて、人びと皆挑み念じきこゆ。折しも例の少将、侍従の君の御曹司に来たりけるを、うち連れて出でたまひにければ、おほかた人少ななるに、廊の戸の開きたるに、やをら寄りてのぞきけり。
    226 
     227 かう、うれしき折を見つけたるは、仏などの現れたまへらむに参りあひたらむ心地するも、はかなき心になむ。夕暮の霞の紛れは、さやかならねど、つくづくと見れば、桜色のあやめも、それと見分きつ。げに、散りなむ後の形見にも見まほしく、匂ひ多く見えたまふを、いとど異ざまになりたまひなむこと、わびしく思ひまさらる。若き人びとのうちとけたる姿ども、夕映えをかしう見ゆ。右勝たせたまひぬ。「高麗の乱声、おそしや」など、はやりかに言ふもあり。
    227 
     228 「右に心を寄せたてまつりて、西の御前に寄りてはべる木を、左になして、年ごろの御争ひの、かかれば、ありつるぞかし」
    228 
     229 と、右方は心地よげにはげましきこゆ。何ごとと知らねど、をかしと聞きて、さしいらへもせまほしけれど、「うちとけたまへる折、心地なくやは」と思ひて、出でて去ぬ。「また、かかる紛れもや」と、蔭に添ひてぞ、うかがひありきける。
    229 
     230

    230 
     231 [第八段 姫君たち、桜花を惜しむ和歌を詠む]
    231 
     232 君達は、花の争ひをしつつ明かし暮らしたまふに、風荒らかに吹きたる夕つ方、乱れ落つるがいと口惜しうあたらしければ、負け方の姫君、
    232 
     233 「桜ゆゑ風に心の騒ぐかな
    233 
     234  思ひぐまなき花と見る見る」
    234 
     235 御方の宰相の君、
    235 
     236 「咲くと見てかつは散りぬる花なれば
    236 
     237  負くるを深き恨みともせず」
    237 
     238 と聞こえ助くれば、右の姫君、
    238 
     239 「風に散ることは世の常枝ながら
    239 
     240  移ろふ花をただにしも見じ」
    240 
     241 この御方の大輔の君、
    241 
     242 「心ありて池のみぎはに落つる花
    242 
     243  あわとなりてもわが方に寄れ」
    243 
     244 勝ち方の童女おりて、花の下にありきて、散りたるをいと多く拾ひて、持て参れり。
    244 
     245 「大空の風に散れども桜花
    245 
     246  おのがものとぞかきつめて見る」
    246 
     247 左のなれき、
    247 
     248 「桜花匂ひあまたに散らさじと
    248 
     249  おほふばかりの袖はありやは
    249 
     250 心せばげにこそ見ゆめれ」など言ひ落とす。
    250 
     251

    251 
     252 

    第三章 玉鬘の大君の物語 冷泉院に参院

    252 
     253 [第一段 大君、冷泉院に参院決定]
    253 
     254 かくいふに、月日はかなく過ぐすも、行く末のうしろめたきを、尚侍の殿はよろづに思す。院よりは、御消息日々にあり。女御、
    254 
     255 「うとうとしう思し隔つるにや。上は、ここに聞こえ疎むるなめりと、いと憎げに思しのたまへば、戯れにも苦しうなむ。同じくは、このころのほどに思し立ちね」
    255 
     256 など、いとまめやかに聞こえたまふ。「さるべきにこそはおはすらめ。いとかうあやにくにのたまふもかたじけなし」など思したり。
    256 
     257 御調度などは、そこらし置かせたまへれば、人びとの装束、何くれのはかなきことをぞいそぎたまふ。これを聞くに、蔵人少将は、死ぬばかり思ひて、母北の方をせめたてまつれば、聞きわづらひたまひて、
    257 
     258 「いとかたはらいたきことにつけて、ほのめかし聞こゆるも、世にかたくなしき闇の惑ひになむ。思し知る方もあらば、推し量りて、なほ慰めさせたまへ」
    258 
     259 など、いとほしげに聞こえたまふを、「苦しうもあるかな」と、うち嘆きたまひて、
    259 
     260 「いかなることと、思うたまへ定むべきやうもなきを、院よりわりなくのたまはするに、思うたまへ乱れてなむ。まめやかなる御心ならば、このほどを思ししづめて、慰めきこえむさまをも見たまひてなむ、世の聞こえもなだらかならむ」
    260 
     261 など申したまふも、この御参り過ぐして、中の君をと思すなるべし。「さし合はせては、うたてしたり顔ならむ。まだ、位などもあさへたるほどを」など思すに、男は、さらにしか思ひ移るべくもあらず、ほのかに見たてまつりてのちは、面影に恋しう、いかならむ折にとのみおぼゆるに、かう頼みかからずなりぬるを、思ひ嘆きたまふこと限りなし。
    261 
     262

    262 
     263 [第二段 蔵人少将、藤侍従を訪問]
    263 
     264 かひなきことも言はむとて、例の、侍従の曹司に来たれば、源侍従の文をぞ見ゐたまへりける。ひき隠すを、さなめりと見て、奪ひ取りつ。「ことあり顔にや」と思ひて、いたうも隠さず。そこはかとなく、ただ世を恨めしげにかすめたり。
    264 
     265 「つれなくて過ぐる月日をかぞへつつ
    265 
     266  もの恨めしき暮の春かな」
    266 
     267 「人はかうこそ、のどやかにさまよくねたげなめれ、わがいと人笑はれなる心焦られを、かたへは目馴れて、あなづりそめられにたる」など思ふも、胸痛ければ、ことにものも言はれで、例、語らふ中将の御許の曹司の方に行くも、例の、かひあらじかしと、嘆きがちなり。
    267 
     268 侍従の君は、「この返りことせむ」とて、上に参りたまふを見るに、いと腹立たしうやすからず、若き心地には、ひとへにものぞおぼえける。
    268 
     269 あさましきまで恨み嘆けば、この前申しも、あまり戯れにくく、いとほしと思ひて、いらへもをさをさせず。かの御碁の見証せし夕暮のことも言ひ出でて、
    269 
     270 「さばかりの夢をだに、また見てしがな。あはれ、何を頼みにて生きたらむ。かう聞こゆることも、残り少なうおぼゆれば、つらきもあはれ、といふことこそ、まことなりけれ」
    270 
     271 と、いとまめだちて言ふ。「あはれとて、言ひやるべき方なきことなり。かの慰めたまふらむ御さま、つゆばかりうれしと思ふべきけしきもなければ、げに、かの夕暮の顕証なりけむに、いとどかうあやにくなる心は添ひたるならむ」と、ことわりに思ひて、
    271 
     272 「聞こしめさせたらば、いとどいかにけしからぬ御心なりけりと、疎みきこえたまはむ。心苦しと思ひきこえつる心も失せぬ。いとうしろめたき御心なりけり」
    272 
     273 と、向ひ火つくれば、
    273 
     274 「いでや、さはれや。今は限りの身なれば、もの恐ろしくもあらずなりにたり。さても負けたまひしこそ、いといとほしかりしか。おいらかに召し入れてやは。目くはせたてまつらましかば、こよなからましものを」など言ひて、
    274 
     275 「いでやなぞ数ならぬ身にかなはぬは
    275 
     276  人に負けじの心なりけり」
    276 
     277 中将、うち笑ひて、
    277 
     278 「わりなしや強きによらむ勝ち負けを
    278 
     279  心一つにいかがまかする」
    279 
     280 といらふるさへぞ、つらかりける。
    280 
     281 「あはれとて手を許せかし生き死にを
    281 
     282  君にまかするわが身とならば」
    282 
     283 泣きみ笑ひみ、語らひ明かす。
    283 
     284

    284 
     285 [第三段 四月一日、蔵人少将、玉鬘へ和歌を贈る]
    285 
     286 またの日は、卯月になりにければ、兄弟の君たちの、内裏に参りさまよふに、いたう屈じ入りて眺めゐたまへれば、母北の方は、涙ぐみておはす。大臣も、
    286 
     287 「院の聞こしめすところもあるべし。何にかは、おほなおほな聞き入れむ、と思ひて、くやしう、対面のついでにも、うち出で聞こえずなりにし。みづからあながちに申さましかば、さりともえ違へたまはざらまし」
    287 
     288 などのたふ。さて、例の、
    288 
     289 「花を見て春は暮らしつ今日よりや
    289 
     290  しげき嘆きの下に惑はむ」
    290 
     291 と聞こえたまへり。
    291 
     292 御前にて、これかれ上臈だつ人びと、この御懸想人の、さまざまにいとほしげなるを聞こえ知らするなかに、中将の御許、
    292 
     293 「生き死にをと言ひしさまの、言にのみはあらず、心苦しげなりし」
    293 
     294 など聞こゆれば、尚侍の君も、いとほしと聞きたまふ。大臣、北の方の思すところにより、せめて人の御恨み深くはと、取り替へありて思すこの御参りを、さまたげやうに思ふらむはしも、めざましきこと、限りなきにても、ただ人には、かけてあるまじきものに、故殿の思しおきてたりしものを、院に参りたまはむだに、行く末のはえばえしからぬを思したる、折しも、この御文取り入れてあはれがる。御返事、
    294 
     295 「今日ぞ知る空を眺むるけしきにて
    295 
     296  花に心を移しけりとも」
    296 
     297 「あな、いとほし。戯れにのみも取りなすかな」
    297 
     298 など言へど、うるさがりて書き変へず。
    298 
     299

    299 
     300 [第四段 四月九日、大君、冷泉院に参院]
    300 
     301 九日にぞ、参りたまふ。右の大殿、御車、御前の人びとあまたたてまつりたまへり。北の方も、恨めしと思ひきこえたまへど、年ごろさもあらざりしに、この御ことゆゑ、しげう聞こえ通ひたまへるを、またかき絶えむもうたてあれば、被け物ども、よき女の装束ども、あまたたてまつれたまへり。
    301 
     302 「あやしう、うつし心もなきやうなる人のありさまを、見たまへ扱ふほどに、承りとどむることもなかりけるを、おどろかさせたまはぬも、うとうとしくなむ」
    302 
     303 とぞありける。おいらかなるやうにてほのめかしたまへるを、いとほしと見たまふ。大臣も御文あり。
    303 
     304 「みづからも参るべきに、思うたまへつるに、慎む事のはべりてなむ。男ども、雑役にとて参らす。疎からず召し使はせたまへ」
    304 
     305 とて、源少将、兵衛佐など、たてまつれたまへり。「情けはおはすかし」と、喜びきこえたまふ。大納言殿よりも、人びとの御車たてまつれたまふ。北の方は、故大臣の御女、真木柱の姫君なれば、いづかたにつけても、睦ましう聞こえ通ひたまふべけれど、さしもあらず。
    305 
     306 藤中納言はしも、みづからおはして、中将、弁の君たち、もろともに事行ひたまふ。殿のおはせましかばと、よろづにつけてあはれなり。
    306 
     307

    307 
     308 [第五段 蔵人少将、大君と和歌を贈答]
    308 
     309 蔵人の君、例の人にいみじき言葉を尽くして、
    309 
     310 「今は限りと思ひはべる命の、さすがに悲しきを。あはれと思ふ、とばかりだに、一言のたまはせば、それにかけとどめられて、しばしもながらへやせむ」
    310 
     311 などあるを、持て参りて見れば、姫君二所うち語らひて、いといたう屈じたまへり。夜昼もろともに慣らひたまひて、中の戸ばかり隔てたる西東をだに、いといぶせきものにしたまひて、かたみにわたり通ひおはするを、よそよそにならむことを思すなりけり。
    311 
     312 心ことにしたて、ひきつくろひたてまつりたまへる御さま、いとをかし。殿の思しのたまひしさまなどを思し出でて、ものあはれなる折からにや、取りて見たまふ。「大臣、北の方の、さばかり立ち並びて、頼もしげなる御なかに、などかうすずろごとを思ひ言ふらむ」とあやしきにも、「限り」とあるを、「まことや」と思して、やがてこの御文の端に、
    312 
     313 「あはれてふ常ならぬ世の一言も
    313 
     314  いかなる人にかくるものぞは
    314 
     315 ゆゆしき方にてなむ、ほのかに思ひ知りたる」
    315 
     316 と書きたまひて、「かう言ひやれかし」とのたまふを、やがてたてまつれたるを、限りなう珍しきにも、折思しとむるさへ、いとど涙もとどまらず。
    316 
     317 立ちかへり、「誰が名は立たじ」など、かことがましくて、
    317 
     318 「生ける世の死には心にまかせねば
    318 
     319  聞かでややまむ君が一言
    319 
     320 塚の上にも掛けたまふべき御心のほど、思ひたまへましかば、ひたみちにも急がれはべらましを」
    320 
     321 などあるに、「うたてもいらへをしてけるかな。書き変へでやりつらむよ」と苦しげに思して、ものものたまはずなりぬ。
    321 
     322

    322 
     323 [第六段 冷泉院における大君と薫君]
    323 
     324 大人、童、めやすき限りをととのへられたり。おほかたの儀式などは、内裏に参りたまはましに、変はることなし。まづ、女御の御方に渡りたまひて、尚侍の君は、御物語など聞こえたまふ。夜更けてなむ、上にまう上りたまひける。
    324 
     325 后、女御など、みな年ごろ経てねびたまへるに、いとうつくしげにて、盛りに見所あるさまを見たてまつりたまふは、などてかはおろかならむ。はなやかに時めきたまふ。ただ人だちて、心やすくもてなしたまへるさましもぞ、げに、あらまほしうめでたかりける。
    325 
     326 尚侍の君を、しばしさぶらひたまひなむと、御心とどめて思しけるに、いと疾く、やをら出でたまひにければ、口惜しう心憂しと思したり。
    326 
     327 源侍従の君をば、明け暮れ御前に召しまつはしつつ、げに、ただ昔の光る源氏の生ひ出でたまひしに劣らぬ人の御おぼえなり。院のうちには、いづれの御方にも疎からず、馴れ交じらひありきたまふ。この御方にも、心寄せあり顔にもてなして、下には、いかに見たまふらむの心さへ添ひたまへり。
    327 
     328 夕暮のしめやかなるに、藤侍従と連れてありくに、かの御方の御前近く見やらるる五葉に、藤のいとおもしろく咲きかかりたるを、水のほとりの石に、苔を席にて眺めゐたまへり。まほにはあらねど、世の中恨めしげにかすめつつ語らふ。
    328 
     329 「手にかくるものにしあらば藤の花
    329 
     330  松よりまさる色を見ましや」
    330 
     331 とて、花を見上げたるけしきなど、あやしくあはれに心苦しく思ほゆれば、わが心にあらぬ世のありさまにほのめかす。
    331 
     332 「紫の色はかよへど藤の花
    332 
     333  心にえこそかからざりけれ」
    333 
     334 まめなる君にて、いとほしと思へり。いと心惑ふばかりは思ひ焦られざりしかど、口惜しうはおぼえけり。
    334 
     335

    335 
     336 [第七段 失意の蔵人少将と大君のその後]
    336 
     337 かの少将の君はしも、まめやかに、いかにせましと、過ちもしつべく、しづめがたくなむおぼえける。聞こえたまひし人びと、中の君をと、移ろふもあり。少将の君をば、母北の方の御恨みにより、さもやと思ほして、ほのめかし聞こえたまひしを、絶えて訪れずなりにたり。
    337 
     338 院には、かの君たちも、親しくもとよりさぶらひたまへど、この参りたまひてのち、をさをさ参らず、まれまれ殿上の方にさしのぞきても、あぢきなう、逃げてなむまかでける。
    338 
     339 内裏には、故大臣の心ざしおきたまへるさまことなりしを、かく引き違へたる御宮仕へを、いかなるにか、と思して、中将を召してなむのたまはせける。
    339 
     340 「御けしきよろしからず。さればこそ、世人の心のうちも、傾きぬべきことなりと、かねて申しし事を、思しとるかた異にて、かう思し立ちにしかば、ともかくも聞こえがたくてはべるに、かかる仰せ言のはべれば、なにがしらが身のためも、あぢきなくなむはべる」
    340 
     341 と、いとものしと思ひて、尚侍の君を申したまふ。
    341 
     342 「いさや。ただ今、かう、にはかにしも思ひ立さざりしを。あながちに、いとほしうのたまはせしかば、後見なき交じらひの内裏わたりは、はしたなげなめるを、今は心やすき御ありさまなめるに、まかせきこえて、と思ひ寄りしなり。誰れも誰れも、便なからむ事は、ありのままにも諌めたまはで、今ひき返し、右の大臣も、ひがひがしきやうに、おもむけてのたまふなれば、苦しうなむ。これもさるべきにこそは」
    342 
     343 と、なだらかにのたまひて、心も騒がいたまはず。
    343 
     344 「その昔の御宿世は、目に見えぬものなれば、かう思しのたまはするを、これは契り異なるとも、いかがは奏し直すべきことならむ。中宮を憚りきこえたまふとて、院の女御をば、いかがしたてまつりたまはむとする。後見や何やと、かねて思し交はすとも、さしもえはべらじ。
    344 
     345 よし、見聞きはべらむ。よう思へば、内裏は、中宮おはしますとて、異人は交じらひたまはずや。君に仕うまつることは、それが心やすきこそ、昔より興あることにはしけれ。女御は、いささかなることの違ひ目ありて、よろしからず思ひきこえたまはむに、ひがみたるやうになむ、世の聞き耳もはべらむ」
    345 
     346 など、二所して申したまへば、尚侍の君、いと苦しと思して、さるは、限りなき御思ひのみ、月日に添へてまさる。
    346 
     347 七月よりはらみたまひにけり。「うち悩みたまへるさま、げに、人のさまざまに聞こえわづらはすも、ことわりぞかし。いかでかはかからむ人を、なのめに見聞き過ぐしてはやまむ」とぞおぼゆる。明け暮れ、御遊びをせさせたまひつつ、侍従も気近う召し入るれば、御琴の音などは聞きたまふ。かの「梅が枝」に合はせたりし中将の御許の和琴も、常に召し出でて弾かせたまへば、聞き合はするにも、ただにはおぼえざりけり。
    347 
     348

    348 
     349 

    第四章 玉鬘の物語 玉鬘の姫君たちの物語

    349 
     350 [第一段 正月、男踏歌、冷泉院に回る]
    350 
     351 その年かへりて、男踏歌せられけり。殿上の若人どもの中に、物の上手多かるころほひなり。その中にも、すぐれたるを選らせたまひて、この四位の侍従、右の歌頭なり。かの蔵人少将、楽人の数のうちにありけり。
    351 
     352 十四日の月のはなやかに曇りなきに、御前より出でて、冷泉院に参る。女御も、この御息所も、上に御局して見たまふ。上達部、親王たち、ひき連れて参りたまふ。
    352 
     353 「右の大殿、致仕の大殿の族を離れて、きらきらしうきよげなる人はなき世なり」と見ゆ。内裏の御前よりも、この院をばいと恥づかしう、ことに思ひきこえて、「皆人用意を加ふる中にも、蔵人少将は、見たまふらむかし」と思ひやりて、静心なし。
    353 
     354 匂ひもなく見苦しき綿花も、かざす人がらに見分かれて、様も声も、いとをかしくぞありける。「竹河」謡ひて、御階のもとに踏みよるほど、過ぎにし夜のはかなかりし遊びも思ひ出でられければ、ひがこともしつべくて涙ぐみけり。
    354 
     355 后の宮の御方に参れば、上もそなたに渡らせたまひて御覧ず。月は、夜深くなるままに、昼よりもはしたなう澄み上りて、いかに見たまふらむとのみおぼゆれば、踏む空もなうただよひありきて、盃も、さして一人をのみとがめらるるは、面目なくなむ。
    355 
     356

    356 
     357 [第二段 翌日、冷泉院、薫を召す]
    357 
     358 夜一夜、所々かきありきて、いと悩ましう苦しくて臥したるに、源侍従を、院より召したれば、「あな、苦し。しばし休むべきに」とむつかりながら参りたまへり。御前のことどもなど問はせたまふ。
    358 
     359 「歌頭は、うち過ぐしたる人のさきざきするわざを、選ばれたるほど、心にくかりけり」
    359 
     360 とて、うつくしと思しためり。「万春楽」を御口ずさみにしたまひつつ、御息所の御方に渡らせたまへば、御供に参りたまふ。物見に参りたる里人多くて、例よりははなやかに、けはひ今めかし。
    360 
     361 渡殿の戸口にしばしゐて、声聞き知りたる人に、ものなどのたまふ。
    361 
     362 「一夜の月影は、はしたなかりしわざかな。蔵人少将の、月の光にかかやきたりしけしきも、桂の影に恥づるにはあらずやありけむ。雲の上近くては、さしも見えざりき」
    362 
     363 など語りたまへば、人びとあはれと、聞くもあり。
    363 
     364 「闇はあやなきを、月映えは、今すこし心異なり、と定めきこえし」などすかして、内より、
    364 
     365 「竹河のその夜のことは思ひ出づや
    365 
     366  しのぶばかりの節はなけれど」
    366 
     367 と言ふ。はかなきことなれど、涙ぐまるるも、「げに、いと浅くはおぼえぬことなりけり」と、みづから思ひ知らる。
    367 
     368 「流れての頼めむなしき竹河に
    368 
     369  世は憂きものと思ひ知りにき」
    369 
     370 ものあはれなるけしきを、人びとをかしがる。さるは、おり立ちて人のやうにもわびたまはざりしかど、人ざまのさすがに心苦しう見ゆるなり。
    370 
     371 「うち出で過ぐすこともこそはべれ。あな、かしこ」
    371 
     372 とて、立つほどに、「こなたに」と召し出づれば、はしたなき心地すれど、参りたまふ。
    372 
     373 「故六条院の、踏歌の朝に、女楽にて遊びせられける、いとおもしろかりきと、右の大臣の語られし。何ごとも、かのわたりのさしつぎなるべき人、難くなりにける世なりや。いと物の上手なる女さへ多く集まりて、いかにはかなきことも、をかしかりけむ」
    373 
     374 など思しやりて、御琴ども調べさせたまひて、箏は御息所、琵琶は侍従に賜ふ。和琴を弾かせたまひて、「この殿」など遊びたまふ。御息所の御琴の音、まだ片なりなるところありしを、いとよう教へないたてまつりたまひてけり。今めかしう爪音よくて、歌、曲のものなど、上手にいとよく弾きたまふ。何ごとも、心もとなく、後れたることはものしたまはぬ人なめり。
    374 
     375 容貌、はた、いとをかしかべしと、なほ心とまる。かやうなる折多かれど、おのづから気遠からず、乱れたまふ方なく、なれなれしうなどは怨みかけねど、折々につけて、思ふ心の違へる嘆かしさをかすむるも、いかが思しけむ、知らずかし。
    375 
     376

    376 
     377 [第三段 四月、大君に女宮誕生]
    377 
     378 卯月に、女宮生まれたまひぬ。ことにけざやかなるものの、栄もなきやうなれど、院の御けしきに従ひて、右の大殿よりはじめて、御産養したまふ所々多かり。尚侍の君、つと抱き持ちてうつくしみたまふに、疾う参りたまふべきよしのみあれば、五十日のほどに参りたまひぬ。
    378 
     379 女一の宮、一所おはしますに、いとめづらしくうつくしうておはすれば、いといみじう思したり。いとどただこなたにのみおはします。女御方の人びと、「いとかからでありぬべき世かな」と、ただならず言ひ思へり。
    379 
     380 正身の御心どもは、ことに軽々しく背きたまふにはあらねど、さぶらふ人びとの中に、くせぐせしきことも出で来などしつつ、かの中将の君の、さいへど人のこのかみにて、のたまひしことかなひて、尚侍の君も、「むげにかく言ひ言ひの果ていかならむ。人笑へに、はしたなうもやもてなされむ。上の御心ばへは浅からねど、年経てさぶらひたまふ御方々、よろしからず思ひ放ちたまはば、苦しくもあるべきかな」と思ほすに、内裏には、まことにものしと思しつつ、たびたび御けしきありと、人の告げ聞こゆれば、わづらはしくて、中の姫君を、公ざまにて交じらはせたてまつらむことを思して、尚侍を譲りたまふ。
    380 
     381 朝廷、いと難うしたまふことなりければ、年ごろ、かう思しおきてしかど、え辞したまはざりしを、故大臣の御心を思して、久しうなりにける昔の例など引き出でて、そのことかなひたまひぬ。この君の御宿世にて、年ごろ申したまひしは難きなりけり、と見えたり。
    381 
     382

    382 
     383 [第四段 玉鬘、夕霧へ手紙を贈る]
    383 
     384 「かくて、心やすくて内裏住みもしたまへかし」と、思すにも、「いとほしう、少将のことを、母北の方のわざとのたまひしものを。頼めきこえしやうにほのめかし聞こえしも、いかに思ひたまふらむ」と思し扱ふ。
    384 
     385 弁の君して、心うつくしきやうに、大臣に聞こえたまふ。
    385 
     386 「内裏より、かかる仰せ言のあれば、さまざまに、あながちなる交じらひの好みと、世の聞き耳もいかがと思ひたまへてなむ、わづらひぬる」
    386 
     387 と聞こえたまへば、
    387 
     388 「内裏の御けしきは、思しとがむるも、ことわりになむ承る。公事につけても、宮仕へしたまはぬは、さるまじきわざになむ。はや、思し立つべきになむ」
    388 
     389 と申したまへり。
    389 
     390 また、このたびは、中宮の御けしき取りてぞ参りたまふ。「大臣おはせましかば、おし消ちたまはざらまし」など、あはれなることどもをなむ。姉君は、容貌など名高う、をかしげなりと、聞こしめしおきたりけるを、引き変へたまへるを、なま心ゆかぬやうなれど、これもいとらうらうじく、心にくくもてなしてさぶらひたまふ。
    390 
     391

    391 
     392 [第五段 玉鬘、出家を断念]
    392 
     393 前の尚侍の君、容貌を変へてむと思し立つを、
    393 
     394 「かたがたに扱ひきこえたまふほどに、行なひも心あわたたしうこそ思されめ。今すこし、いづ方も心のどかに見たてまつりなしたまひて、もどかしきところなく、ひたみちに勤めたまへ」
    394 
     395 と、君たちの申したまへば、思しとどこほりて、内裏には、時々忍びて参りたまふ折もあり。院には、わづらはしき御心ばへのなほ絶えねば、さるべき折も、さらに参りたまはず。いにしへを思ひ出でしが、さすがに、かたじけなうおぼえしかしこまりに、人の皆許さぬことに思へりしをも、知らず顔に思ひて参らせたてまつりて、「みづからさへ、戯れにても、若々しきことの世に聞こえたらむこそ、いとまばゆく見苦しかるべけれ」と思せど、さる罪によりと、はた、御息所にも明かしきこえたまはねば、「われを、昔より、故大臣は取り分きて思しかしづき、尚侍の君は、若君を、桜の争ひ、はかなき折にも、心寄せたまひし名残に、思し落としけるよ」と、恨めしう思ひきこえたまひけり。院の上、はた、ましていみじうつらしとぞ思しのたまはせける。
    395 
     396 「古めかしきあたりにさし放ちて。思ひ落とさるるも、ことわりなり」
    396 
     397 と、うち語らひたまひて、あはれにのみ思しまさる。
    397 
     398

    398 
     399 [第六段 大君、男御子を出産]
    399 
     400 年ごろありて、また男御子産みたまひつ。そこらさぶらひたまふ御方々に、かかることなくて年ごろになりにけるを、おろかならざりける御宿世など、世人おどろく。帝は、まして限りなくめづらしと、この今宮をば思ひきこえたまへり。「おりゐたまはぬ世ならましかば、いかにかひあらまし。今は何ごとも栄なき世を、いと口惜し」となむ思しける。
    400 
     401 女一の宮を、限りなきものに思ひきこえたまひしを、かくさまざまにうつくしくて、数添ひたまへれば、めづらかなる方にて、いとことにおぼいたるをなむ、女御も、「あまりかうてはものしからむ」と、御心動きける。
    401 
     402 ことにふれて、やすからずくねくねしきこと出で来などして、おのづから御仲も隔たるべかめり。世のこととして、数ならぬ人の仲らひにも、もとよりことわりえたる方にこそ、あいなきおほよその人も、心を寄するわざなめれば、院のうちの上下の人びと、いとやむごとなくて、久しくなりたまへる御方にのみことわりて、はかないことにも、この方ざまを良からず取りなしなどするを、御兄の君たちも、
    402 
     403 「さればよ。悪しうやは聞こえおきける」
    403 
     404 と、いとど申したまふ。心やすからず、聞き苦しきままに、
    404 
     405 「かからで、のどやかにめやすくて世を過ぐす人も多かめりかし。限りなき幸ひなくて、宮仕への筋は、思ひ寄るまじきわざなりけり」
    405 
     406 と、大上は嘆きたまふ。
    406 
     407

    407 
     408 [第七段 求婚者たちのその後]
    408 
     409 聞こえし人びとの、めやすくなり上りつつ、さてもおはせましに、かたはならぬぞあまたあるや。その中に、源侍従とて、いと若う、ひはづなりと見しは、宰相の中将にて、「匂ふや、薫るや」と、聞きにくくめで騒がるなる、げに、いと人柄重りかに心にくきを、やむごとなき親王たち、大臣の、御女を、心ざしありてのたまふなるなども、聞き入れずなどあるにつけて、「そのかみは、若う心もとなきやうなりしかど、めやすくねびまさりぬべかめり」など、言ひおはさうず。
    409 
     410 少将なりしも、三位中将とか言ひて、おぼえあり。
    410 
     411 「容貌さへ、あらまほしかりきや」
    411 
     412 など、なま心悪ろき仕うまつり人は、うち忍びつつ、
    412 
     413 「うるさげなる御ありさまよりは」
    413 
     414 など言ふもありて、いとほしうぞ見えし。この中将は、なほ思ひそめし心絶えず、憂くもつらくも思ひつつ、左大臣の御女を得たれど、をさをさ心もとめず、「道の果てなる常陸帯の」と、手習にも言種にもするは、いかに思ふやうのあるにかありけむ。
    414 
     415 御息所、やすげなき世のむつかしさに、里がちになりたまひにけり。尚侍の君、思ひしやうにはあらぬ御ありさまを、口惜しと思す。内裏の君は、なかなか今めかしう心やすげにもてなして、世にもゆゑあり、心にくきおぼえにて、さぶらひたまふ。
    415 
     416

    416 
     417 

    第五章 薫君の物語 人びとの昇進後の物語

    417 
     418 [第一段 薫、玉鬘邸に昇進の挨拶に参上]
    418 
     419 左大臣亡せたまひて、右は左に、藤大納言、左大将かけたまへる右大臣になりたまふ。次々の人びとなり上がりて、この薫中将は、中納言に、三位の君は、宰相になりて、喜びしたまへる人びと、この御族より他に人なきころほひになむありける。
    419 
     420 中納言の御喜びに、前の尚侍の君に参りたまへり。御前の庭にて拝したてまつりたまふ。尚侍の君対面したまひて、
    420 
     421 「かく、いと草深くなりゆく葎の門を、よきたまはぬ御心ばへにも、まづ昔の御こと思ひ出でられてなむ」
    421 
     422 など聞こえたまふ、御声、あてに愛敬づき、聞かまほしう今めきたり。「古りがたくもおはするかな。かかれば、院の上は、怨みたまふ御心絶えぬぞかし。今つひに、ことひき出でたまひてむ」と思ふ。
    422 
     423 「喜びなどは、心にはいとしも思うたまへねども、まづ御覧ぜられにこそ参りはべれ。よきぬなどのたまはするは、おろかなる罪にうちかへさせたまふにや」と申したまふ。
    423 
     424 「今日は、さだすぎにたる身の愁へなど、聞こゆべきついでにもあらずと、つつみはべれど、わざと立ち寄りたまはむことは難きを、対面なくて、はた、さすがにくだくだしきことになむ。
    424 
     425 院にさぶらはるるが、いといたう世の中を思ひ乱れ、中空なるやうにただよふを、女御を頼みきこえ、また后の宮の御方にも、さりとも思し許されなむと、思ひたまへ過ぐすに、いづ方にも、なめげに心ゆかぬものに思されたなれば、いとかたはらいたくて、宮たちは、さてさぶらひたまふ。この、いと交じらひにくげなるみづからは、かくて心やすくだにながめ過ぐいたまへとて、まかでさせたるを、それにつけても、聞きにくくなむ。
    425 
     426 上にもよろしからず思しのたまはすなる。ついであらば、ほのめかし奏したまへ。とざまかうざまに、頼もしく思ひたまへて、出だし立てはべりしほどは、いづ方をも心やすく、うちとけ頼みきこえしかど、今は、かかること誤りに、幼うおほけなかりけるみづからの心を、もどかしくなむ」
    426 
     427 と、うち泣いたまふけしきなり。
    427 
     428

    428 
     429 [第二段 薫、玉鬘と対面しての感想]
    429 
     430 「さらにかうまで思すまじきことになむ。かかる御交じらひのやすからぬことは、昔より、さることとなりはべりにけるを、位を去りて、静かにおはしまし、何ごともけざやかならぬ御ありさまとなりにたるに、誰もうちとけたまへるやうなれど、おのおのうちうちは、いかがいどましくも思すこともなからむ。
    430 
     431 人は何の咎と見ぬことも、わが御身にとりては恨めしくなむ、あいなきことに心動かいたまふこと、女御、后の常の御癖なるべし。さばかりの紛れもあらじものとてやは、思し立ちけむ。ただなだらかにもてなして、御覧じ過ぐすべきことにはべるなり。男の方にて、奏すべきことにもはべらぬことになむ」
    431 
     432 と、いとすくすくしう申したまへば、
    432 
     433 「対面のついでに愁へきこえむと、待ちつけたてまつりたるかひなく、あはの御ことわりや」
    433 
     434 と、うち笑ひておはする、人の親にて、はかばかしがりたまへるほどよりは、いと若やかにおほどいたる心地す。「御息所も、かやうにぞおはすべかめる。宇治の姫君の心とまりておぼゆるも、かうざまなるけはひのをかしきぞかし」と思ひゐたまへり。
    434 
     435 尚侍も、このころまかでたまへり。こなたかなた住みたまへるけはひをかしう、おほかたのどやかに、紛るることなき御ありさまどもの、簾の内、心恥づかしうおぼゆれば、心づかひせられて、いとどもてしづめめやすきを、大上は、「近うも見ましかば」と、うち思しけり。
    435 
     436

    436 
     437 [第三段 右大臣家の大饗]
    437 
     438 大臣殿は、ただこの殿の東なりけり。大饗の垣下の君達など、あまた集ひたまふ。兵部卿宮、左の大殿の賭弓の還立、相撲の饗応などには、おはしまししを思ひて、今日の光と請じたてまつりたまひけれど、おはしまさず。
    438 
     439 心にくくもてかしづきたまふ姫君たちを、さるは、心ざしことに、いかで、と思ひきこえたまふべかめれど、宮ぞ、いかなるにかあらむ、御心もとめたまはざりける。源中納言の、いとどあらまほしうねびととのひ、何ごとも後れたる方なくものしたまふを、大臣も北の方も、目とどめたまひけり。
    439 
     440 隣のかくののしりて、行き違ふ車の音、先駆追ふ声々も、昔のこと思ひ出でられて、この殿には、ものあはれにながめたまふ。
    440 
     441 「故宮亡せたまひて、ほどもなく、この大臣の通ひたまひしほどを、いとあはつけいやうに、世人はもどくなりしかど、かくてものしたまふも、さすがなる方にめやすかりけり。定めなの世や。いづれにか寄るべき」などのたまふ。
    441 
     442

    442 
     443 [第四段 宰相中将、玉鬘邸を訪問]
    443 
     444 左の大殿の宰相中将、大饗のまたの日、夕つけてここに参りたまへり。御息所、里におはすと思ふに、いとど心げさう添ひて、
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     445 「朝廷のかずまへたまふ喜びなどは、何ともおぼえはべらず。私の思ふことかなはぬ嘆きのみ、年月に添へて、思うたまへはるけむ方なきこと」
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     446 と、涙おしのごふも、ことさらめいたり。二十七、八のほどの、いと盛りに匂ひ、はなやかなる容貌したまへり。
    446 
     447 「見苦しの君たちの、世の中を心のままにおごりて、官位をば何とも思はず、過ぐしいますがらふや。故殿のおはせましかば、ここなる人びとも、かかるすさびごとにぞ、心は乱らまし」
    447 
     448 とうち泣きたまふ。右兵衛督、右大弁にて、皆非参議なるを、うれはしと思へり。侍従と聞こゆめりしぞ、このころ、頭中将と聞こゆめる。年齢のほどは、かたはならねど、人に後ると嘆きたまへり。宰相は、とかくつきづきしく。
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     450 【出典】
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     451出典1 已被楊妃遥側目(白氏文集巻三-「上陽白髪人」)(戻)
    451 
     452出典2 色よりも香こそあはれと思ほゆれ誰が袖触れし宿の梅ぞも(古今集春上-三三 読人しらず)(戻)
    452 
     453出典3 梅が枝に 来居る鴬 や 春かけて はれ 春かけて 鳴けどもいまだ や 雪は降りつつ あはれ そこよしや 雪は降りつつ(催馬楽-梅が枝)(戻)
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     454出典4 鴬声誘引来花下 草色匂留坐水辺(白氏文集巻十八-「春江」・和漢朗詠集上-鴬)(戻)
    454 
     455出典5 この殿は むべも富みけり 三枝の あはれ 三枝の はれ 三枝の 三つば四つばの中に 殿づくりせり 殿づくりせりや(催馬楽-この殿は)(戻)
    455 
    c1456<A NAME="no6">出典6</A> 竹河の 橋のつめなるや 橋のつめなるや 花園に はれ 花園に 我をば放てや 我をば放てや 少女めざしたぐへて(催馬楽-竹河)<A HREF="#te6">(戻)</A><BR>456<A NAME="no6">出典6</A> 竹河の 橋のつめなるや 橋のつめなるや 花園に はれ 花園に 我をば放てや 我をば放てや <ruby><rb>少女<rp>(<rt>めざし<rp>)</ruby>たぐへて(催馬楽-竹河)<A HREF="#te6">(戻)</A><BR>
     457出典7 春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる(古今集春上-四一 凡河内躬恒)(戻)
    457 
     458出典8 桜咲くさくらの山の桜花咲く桜あれば散る桜あり(源氏釈所引-出典未詳)(戻)
    458 
     459出典9 桜花散りかひ曇れ老いらくの来むといふなる道まがふがに(古今集賀-三四九 在原業平)(戻)
    459 
     460出典10 花鳥の色をも音をもいたづらにもの憂かる身は過ぐすのみなり(後撰集夏-二一二 藤原雅正)(戻)
    460 
     461出典11 桜色に衣は深く染めて着む花の散りなむ後の形見に(古今集春上-六六 紀有朋)(戻)
    461 
     462出典12 枝よりもあだに散りにし花なれば落ちても水の泡とこそなれ(古今集春下-八一 菅野高世)(戻)
    462 
     463出典13 大空に覆ふばかりの袖もがな春咲く花を風にまかせじ(後撰集春中-六四 読人しらず)(戻)
    463 
     464出典14 人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな(後撰集雑一-一一〇二 藤原兼輔)(戻)
    464 
     465出典15 嬉しくは忘るることもありなまし辛きぞ長き形見なりける(古今六帖四-二一九一 清原深養父)(戻)
    465 
     466出典16 恋死なば誰が名は立たじ世の中の常なきものと言ひはなすとも(古今集恋二-六〇三 清原深養父)(戻)
    466 
     467出典17 季札之初使北過徐君---乃解其宝剣、懸徐君塚樹而去(史記-呉世家)(戻)
    467 
     468出典18 春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる(古今集春上-四一 凡河内躬恒)(戻)
    468 
     469出典19 世の中をかく言ひ言ひの果て果てはいかにやいかになるらむとすらむ(拾遺集雑上-五〇七 読人しらず)(戻)
    469 
     470出典20 東路の道の果てなる常陸帯のかごとばかりも逢ひ見てしがな(古今六帖五-三三六〇)(戻)
    470 
     471

    471 
     472 【校訂】
    472 
     473備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△
    473 
     474校訂1 ゆかりにも似ざめれど--ゆかり(り/+に<朱>)せ(せ/$さ<朱>)めれと(戻)
    474 
     475校訂2 若き--わか(か/+き)(戻)
    475 
     476校訂3 ましかばと--*ましかは(戻)
    476 
     477校訂4 匂ひ香--にほひ(ひ/+か<朱>)(戻)
    477 
     478校訂5 けしきばみ--けしきい(い/$は<朱>)み(戻)
    478 
     479校訂6 見所--みと(と/+こ<朱>)ろ(戻)
    479 
     480校訂7 見証--け(け/+ん)そ(戻)
    480 
     481校訂8 おはしましし--おはしまさうし(さうし/$しゝ)(戻)
    481 
     482校訂9 そこはかとなく--そこはかとなくて(て/#)(戻)
    482 
     483校訂10 勝ち負けを--かちまけに(に/$を<朱>)(戻)
    483 
     484校訂11 らかりける--つらかりけり(り/$る<朱>)(戻)
    484 
     485校訂12 かき絶えむ--かきたら(ら/$え<朱>)ん(戻)
    485 
     486校訂13 かことがましく--かう(う/$こ<朱>)とかましく(戻)
    486 
     487校訂14 見所--見とこゝ(ゝ/#)ろ(戻)
    487 
     488校訂15 おぼえざり--おほ(ほ/+え<朱>)さり(戻)
    488 
     489校訂16 月映えは--月はえ(え/+は)(戻)
    489 
     490校訂17 心とまる--(/+心<朱>)とまる(戻)
    490 
     491校訂18 なりたまへる--なりたまへり(り/$る)(戻)
    491 
     492校訂19 はかないこと--はかなひ(ひ/$い<朱>)こと(戻)
    492 
     493校訂20 尚侍の君--ないし(し/+の<朱>)かんの君(戻)
    493 
     494校訂21 あはつけいやう--あい(い/$は<朱>)つけいやう(戻)
    494 
     495校訂22 官位をば--つかさくらいを(を/+は<朱>)(戻)
    495 
     496

    496 
     497源氏物語の世界ヘ
    497 
     498ローマ字版
    498 
     499現代語訳
    499 
     500注釈
    500 
     501大島本
    501 
     502自筆本奥入
    502 
     503503 
     504
    504 
     505505 
     506506