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 3夢浮橋(大島本)3 
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 7渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)7 
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夢浮橋

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 11薫君の大納言時代二十八歳の夏の物語
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 13第一章 薫の物語 横川僧都、薫の依頼を受け浮舟への手紙を書く
13 
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  • 薫、横川に出向く---比叡山においでになって、いつもおさせになるように、お経や仏像などを
  • 15 
     16
  • 僧都、薫に宇治での出来事を語る---僧都は、「やはりそうであったか。普通の女とは見えなかった
  • 16 
     17
  • 薫、僧都に浮舟との面会を依頼---「そうであったのか」と、ちらっと聞いて
  • 17 
     18
  • 僧都、浮舟への手紙を書く---あの弟の童を、お供として連れておいでになっていた
  • 18 
     19
  • 浮舟、薫らの帰りを見る---小野では、たいそう青々と茂っている青葉の山に向かって
  • 19 
     2020 
     21第二章 浮舟の物語 浮舟、小君との面会を拒み、返事も書かない
    21 
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    22 
     23
  • 薫、浮舟のもとに小君を遣わす---あの殿は、「この子をそのまま遣わそう」とお思いになったが
  • 23 
     24
  • 小君、小野山荘の浮舟を訪問---不思議に思うが、「これこそは、それでは、確かな
  • 24 
     25
  • 浮舟、小君との面会を拒む---疑う余地もなく、はっきりお書きになっているが
  • 25 
     26
  • 小君、薫からの手紙を渡す---この子も、そうは聞いていたが、子供なので、唐突に言葉かけるのも
  • 26 
     27
  • 浮舟、薫への返事を拒む---このようにこまごまとお書きになっている様子が、紛れようも
  • 27 
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  • 小君、空しく帰り来る---山里らしい趣のある饗応などをしたが
  • 28 
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    30 
     31 

    第一章 薫の物語 横川僧都、薫の依頼を受け浮舟への手紙を書く

    31 
     32 [第一段 薫、横川に出向く]
    32 
     33 比叡山においでになって、いつもおさせになるように、お経や仏像などをご供養させになる。翌日は、横川においでになったので、僧都は恐縮してご挨拶申し上げなさる。
    33 
     34 何年も、ご祈祷などお頼みなさっていたが、特別に親密ということはなかったが、先般、一品の宮のご不快の折に伺候なさっていたときに、「格別すぐれた効験がおありであった」と御覧になってから、この上なく尊敬なさって、もう少し深いご縁をお結びになったので、「重々しくおいでになる殿が、このようにわざわざ訪ねていらしたこと」と、大仰にお持てなし申し上げなさる。お話など、親密になさっているので、御湯漬などを差し上げなさる。
    34 
     35 少し人びとが静かになったので、
    35 
     36 「小野の辺りに、お持ちの家はございませんか」
    36 
     37 と、お尋ねになると、
    37 
     38 「さようでございます。ひどくみすぼらしい家です。拙僧の母親の老尼がおりますが、京にしっかりした家もございませんうえに、こうして籠もっております間は、夜中、暁でも、お見舞いしよう、と存じております」
    38 
     39 などと申し上げなさる。
    39 
     40 「その近辺には、つい最近まで、人が多く住んでおりましたが、今では、たいそうひっそりとなって行くようですね」
    40 
     41 などとおっしゃって、もう少し近寄って、小声で、
    41 
     42 「まことにとりとめのない気のする話ですが、また一方、お尋ね申し上げるにつけては、どのようなことでかと、合点が行かず思われなさるでしょうが、どちらにしても、遠慮されますが、あの山里に、世話しなければならない人が隠れていますように聞きましたが。はっきりと確かめてからなら、どのような様子で、などとお漏らし申し上げましょう、などと考えておりますうちに、お弟子になって、戒律などをお授けになった、と聞きましたのは、本当ですか。まだ年齢も若く、親などもいた人なので、わたしが死なせてしまったように、恨み言を申す人がおりますので」
    42 
     43 などとおっしゃる。
    43 
     44

    44 
     45 [第二段 僧都、薫に宇治での出来事を語る]
    45 
     46 僧都は、「やはりそうであったか。普通の女とは見えなかった様子であった。このようにまでおっしゃるのは、並々にはお思いでいらっしゃらなかった人なのであろう」と思うと、「法師の役目とは言いながらも、考えもなく、すぐに尼姿いしてしまったことよ」と、胸がどきりとして、お答え申し上げることに思案なさる。
    46 
     47 「確かなことを聞いていらっしゃるのだろう。これほどご承知で、お尋ねなさるのに、隠しきれるものでない。なまじ無理に隠そうとするのも、つまらないことであろう」などと、しばらく考えを決めて、
    47 
     48 「どのようなことでございましょうか。ここ何か月か、内々に不審に存じておりました女のお身の上のことでしょうか」と言って、
    48 
    c2-149-50 「あちらにおります尼たちが、初瀬に祈願がございまして、参詣して帰って来た道中で、宇治院という所に泊まりましたところ、母親の尼の疲労が急に起こって、ひどく患っているという報せを、人が報告して来たので、《改行》
    下山して出向きましたところに、さっそく不思議なことが」<BR>
    49 「あちらにおります尼たちが、初瀬に祈願がございまして、参詣して帰って来た道中で、宇治院という所に泊まりましたところ、母親の尼の疲労が急に起こって、ひどく患っているという報せを、人が報告して来たので、下山して出向きましたところに、さっそく不思議なことが」<BR>
     51 と声をひそめて、
    50 
     52 「母親が今にも死にそうなのは差し置いて、介抱して心配しておりました。この人も、お亡くなりになったような様子ながら、やはり息はしていらっしゃいましたので、昔物語に、霊殿に置いておいた人の話を思い出して、そのようなことであろうかと、珍しがりまして、弟子の僧の中で効験のある者どもを呼び寄せては、交替で加持させたりしました。
    51 
     53 拙僧は、惜しむほどの年齢ではないが、母親が旅の途上で病気が重いのを助けて、念仏を一心不乱にしようと、仏にお祈り申しておりましたときなので、その人の様子、詳しくは拝見せずにおりました。事情を推察しますに、天狗や木霊などのようなものが、誑かしてお連れ申したのか、と理解しておりました。
    52 
     54 助けて、京にお連れ申して後も、三か月間は死んだ人のようでいらっしゃいましたが、拙僧の妹で、故衛門督の北の方でございました者が、尼になっておりますのが、一人持っていた女の子を亡くして後、月日はたくさん過ぎましたが、悲しみを忘れず嘆いておりましたところ、同じ年くらいに見える人で、このように器量もとても端整で美しい方を発見申して、観音が授けてくださったと喜んで、この人をお死なせ申すまいと、一生懸命になりまして、泣きながら熱心に救ってほしいと懇願申されたので。
    53 
     55 後に、あの坂本に拙僧自身で下山して行きまして、護身などを修法いたしましたところ、だんだんと生き返って普通にお戻りになりましたが、『やはり、このとり憑いた物の怪が、身から離れないような気がする。この悪霊の妨げから逃れて、来世を祈りたい』などと、悲しそうにおっしゃることがございましたので、法師の勤めとしては、お勧め申すべきことと存じまして、本当に出家させ申し上げてしまったのでございます。
    54 
     56 まったく、お世話なさるはずの方とは、どうして何もなしに分かりましょう。珍しい事の様子ですので、世間話の種にもなりそうですが、噂になって、厄介なことになってはいけないと、この老女どもがあれこれ申して、この何か月間は、黙っておりました」
    55 
     57 と申し上げなさると、
    56 
     58

    57 
     59 [第三段 薫、僧都に浮舟との面会を依頼]
    58 
     60 「そうであったのか」と、ちらっと聞いて、ここまで尋ね出しなさったことではあるが、「てっきり死んだ人として思い諦めていた人だが、それでは、本当は生きていたのだ」とお思いになる、その気持ちは、夢のような気がしてあきれるほどのことなので、抑えることもできずに涙ぐまれなさったのを、僧都が立派な態度なので、「こんな気弱い態度を見せてよいものか」と反省して、さりげなく振る舞いなさるが、「このようにお愛しになっていたのを、この世では死んだ人と同然にしてしまったことよ」と、過ったことをした気がして、罪障深いので、
    59 
     61 「悪霊にとり憑かれていらしたのも、そうなるはずの前世からの因縁なのです。思うに、高貴な家柄の姫君でいらしたのでしょうが、どのような過ちによって、このようにまで身を落としなさったのだろうか」
    60 
     62 と、お尋ね申し上げなさると、
    61 
     63 「皇族の末裔と申す血筋であったでしょうか。わたしも、初めから特別に正妻にと考えた人ではございません。ちょっとしたことでお世話し始めるようになりましたが、また一方で、このようにまで落ちぶれる身分の方とは存じませんでした。珍しく、跡形もなく消えてしまったので、身を投げたのかなどと、いろいろとはっきりしないことが多くて、確実なことは、聞くことができませんでした。
    62 
     64 罪障を軽くしていらっしゃるならば、とても良いことだと安心して、わたし自身は存じましたが、その母親に当たる人が、ひどく慕って悲しんでいるというを、このように聞き出したと、知らせてやりたく存じますが、何か月も隠していらっしゃったご趣旨に背くようで、何となく騒々しくなりましょうか。親子の間の恩愛は絶ち切れず、悲しみを堪えることができずに、きっと尋ねて来ますでしょう」
    63 
     65 などとおっしゃって、そうして、
    64 
     66 「まことに不都合な案内役とはお思いになりましょうが、あの坂本に下山なさってください。このように聞いて、いい加減に知らないふりのできるとは存じません人ですので、夢のようなことも、せめて今なりと話し合おう、と存じております」
    65 
     67 とおっしゃる様子が、実にしみじみとお思いになっているので、
    66 
     68 「尼姿になり、出家をしたと思っていても、髪や鬢を剃った法師でさえ、けしからぬ欲望に消えない者もいるという。まして、女人の身ではどのようなものであろうか。お気の毒にも、罪障を作ることになりはしないだろうか」
    67 
     69 と、つまらないことを引き受けたものだと心が乱れた。
    68 
     70 「下山することは、今日明日は差し支えがあります。来月になって、お手紙を差し上げましょう」
    69 
     71 と申し上げなさる。まことに頼りないが、「ぜひ、ぜひ」と、急に焦れったく思うのも、みっともないので、「それでは」と言って、お帰りになる。
    70 
     72

    71 
     73 [第四段 僧都、浮舟への手紙を書く]
    72 
     74 あのご姉弟の童を、お供として連れておいでになっていた。他の兄弟たちよりは、器量も小ざっぱりとしているのを、呼び出しなさって、
    73 
     75 「この子が、あの女人の近親なのですが、この子をとりあえず遣わしましょう。お手紙をちょっとお書きください。誰それとはなくて、ただ、お探し申し上げる人がいる、という程度の気持ちをお知らせください」
    74 
     76 とおっしゃると、
    75 
     77 「拙僧が、この案内役になって、きっと罪障を負いましょう。事情は、詳しく申し上げました。今は、ご自身でお立ち寄りあそばして、なさるべきことをなさるのに、何の差し支えがございましょう」
    76 
     78 と申し上げなさると、にっこりして、
    77 
     79 「罪障を負う案内役とお考えになるのは、気恥ずかしいことです。わたしは、在俗の姿で、今まで過ごして来たのがまことに不思議なくらいです。
    78 
     80 幼い時から、出家を願う気持ちは強くございましたが、母三条宮が、心細い様子で、頼りがいもないわが身一人を頼りにお思いになっているのが、逃れられない足手まといに思われまして、世俗にかかずらっておりますうちに、自然と官位なども高くなり、身の処置も思うようにならなくなったりして、出家を願いながら過ごして来て、また断れない事も、次々と多く加わって来て、過ごしておりますが、公私ともに、止むを得ない事情によって、こうしていますが、それ以外のところでは、仏がお制止になる方面のことを、少しでもお聞き及びになるようなことは、何とか守り抜こう、身を慎んで、心中では聖に負けません。
    79 
     81 ましてや、ちょっとしたことで、重い罪障を負うようなことは、どうして考えましょうか。まったく有りえないことでございます。お疑いなさいますな。ただ、お気の毒な母親の思いなどを、聞いて晴らしてやろうというほどで、きっと嬉しく気が休まりましょう」
    80 
     82 などと、昔から深かった道心をお話しなさる。
    81 
     83 僧都も、なるほどと、うなずいて、
    82 
     84 「ますます尊いことだ」
    83 
     85 などと申し上げなさるうちに、日も暮れてしまったので、
    84 
     86 「途中の休憩所としても大変に都合のよいはずだが、考えも決まらないうちに立ち寄るのも、やはり不都合であろう」
    85 
     87 と、思いあぐねてお帰りになるときに、この姉弟の童を、僧都が、目を止めておほめになる。
    86 
     88 「この子に託して、とりあえずほのめかしてください」
    87 
     89 と申し上げなさると、手紙を書いてお与えなさる。
    88 
     90 「時々は山においでになって遊んで行きなさいね」と「いわれのないことのようには思われないわけもありのです」
    89 
     91 と、お話しなさる。この子は理解できないが、手紙を受け取ってお供して出る。坂本になると、ご前駆の人びとが少し離れ離れになって、「目立たないように」とおっしゃる。
    90 
     92

    91 
     93 [第五段 浮舟、薫らの帰りを見る]
    92 
     94 小野では、たいそう青々と茂っている青葉の山に向かって、気の紛れることなく、遣水の螢だけを、昔が偲ばれる慰めとして眺めていらっしゃると、いつものように、遥か遠くに谷の見やられる軒端から、前駆が格別の先払いして、たいそうたくさん灯している火の、あわただしい光が見えるといって、尼君たちも端に出て座っていた。
    93 
     95 「どなたがおいでになるのだろう。ご前駆などもとても大勢に見える」
    94 
     96 「昼、あちらに引干しを差し上げた返事に、『大将殿がいらして、ご饗応の事が急になったので、ちょうどよい時であった』と、言ったが」
    95 
     97 「大将殿とは、今上の女二の宮の夫君のことでいらっしゃろうか」
    96 
     98 などと言うのも、とてもこの世から隔絶して、田舎じみたことよ。ほんとうにそうであろうか。時々、このような山路を分けていらしたとき、とてもはっきりしていた随身の声も、ふと中に混じって聞こえる。
    97 
     99 月日の過ぎ行くままに、昔のことがこのように忘れられないでいるのも、「今さらどうなることでもない」と嫌な気持ちになるので、阿弥陀仏に思いを紛らわして、ますます無口になっていた。横川に行き来する人だけが、この近辺では身近な人なのであった。
    98 
     100

    99 
     101 

    第二章 浮舟の物語 浮舟、小君との面会を拒み、返事も書かない

    100 
     102 [第一段 薫、浮舟のもとに小君を遣わす]
    101 
     103 あの殿は、「この子をそのまま遣わそう」とお思いになったが、人目が多くて不都合なので、殿にお帰りになって、翌日、特別に出発させなさる。親しくお思いになる人で、大した身分でない者を二、三人、付けて、昔もいつも使者としていた随身をお加えになった。人が聞いていない間にお呼び寄せになって、
    102 
     104 「そなたの亡くなった姉の顔は、覚えているか。今はこの世にいない人と諦めていたが、まことに確かに、生きていらっしゃると言うのだ。他人には聞かせまいと思うので、行って確かめよ。母にも、まだ言ってはならない。かえって驚いて大騒ぎするうちに、知ってはならない人まで知ってしまおう。その母親のお嘆きがおいたわしいので、このようにして確かめるのだ」
    103 
     105 と、今からもう厳重に口封じなさるのを、子供心にも、姉弟は多いが、この姉君の器量を、他に似る者がないと思い込んでいたので、お亡くなりになったと聞いて、とても悲しいと思い続けていたが、このようにおっしゃるので、嬉しさに涙が落ちるのを、恥ずかしいと思って、
    104 
     106 「はい、はい」
    105 
     107 とぶっきらぼうに申し上げた。
    106 
     108 あちらでは、まだ早朝に、僧都の御もとから、
    107 
     109 「昨夜、大将殿のお使いで、小君が参られたでしょうか。事情をお聞き致しまして、困ったことで、かえって気後れしておりますと、姫君に申し上げてください。拙僧自身で申し上げなければならないことも多いが、今日明日が過ぎてから伺いましょう」
    108 
     110 と書いていらっしゃった。「これはどうしたことか」と尼君は驚いて、こちらに持って来てお見せ申し上げなさると、顔が赤くなって、「世間に知られたのではないか」とつらく、「隠し事をしていた」と恨まれることを思い続けると、答えようもなくてじっとしていらっしゃると、
    109 
     111 「やはり、おっしゃってください。情けなく他人行儀ですこと」
    110 
     112 と、ひどく恨んで、事情を知らないので、慌てるばかりの騷ぎのところに、
    111 
     113 「山から、僧都のお手紙といって、参上した人が来ました」
    112 
     114 と申し入れた。
    113 
     115

    114 
     116 [第二段 小君、小野山荘の浮舟を訪問]
    115 
     117 不思議に思うが、「これこそは、それでは、確かなお手紙であろう」と思って、
    116 
     118 「こちらに」
    117 
     119 と言わせなさると、とても小ぎれいでしなやかな童で、何とも言えないような着飾った者が、歩いて来た。円座を差し出すと、簾の側にちょこんと座って、
    118 
     120 「このような形では、お持てなしを受けることはないと、僧都は、おっしゃっていました」
    119 
     121 と言うので、尼君が、お返事などなさる。手紙を中に受け取って見ると、
    120 
     122 「入道の姫君の御方へ、山から」
    121 
     123 とあって、署名なさっていた。人違いだ、などと否定することもできない。
    122 
     124 とても体裁悪く思えて、ますます後ずさりされて、誰にも顔を見せない。
    123 
     125 「いつも控え目でいらっしゃる人柄だが、とても嫌な、情ない方」
    124 
     126 などと言って、僧都の手紙を見ると、
    125 
     127 「今朝、こちらに大将殿がおいでになって、ご事情をお尋ねになるので、初めからの有様を詳しく申し上げてしまいました。ご愛情の深いお二方の仲を背きなさって、賤しい山家の中で出家なさったことは、かえって、仏のお叱りを受けるはずのことを、うかがって驚いています。
    126 
     128 しようがありません。もともとのご宿縁を間違いなさらず、愛執の罪をお晴らし申し上げなさって、一日の出家の功徳は、無量のものですから、やはりご期待なさいませと。詳細は、拙僧自身お目にかかって申し上げましょう。とりあえず、この小君が申し上げなさることでしょう」
    127 
     129 と書いてあった。
    128 
     130

    129 
     131 [第三段 浮舟、小君との面会を拒む]
    130 
     132 疑う余地もなく、はっきりお書きになっているが、他の人には事情が分からない。
    131 
     133 「この君は、どなたでいらっしゃのだろう。やはり、とても情けない。今になってさえ、このようにひたすらお隠しになっている」
    132 
     134 と責められて、少し外の方を向いて御覧になると、この子は、これが最期と思った夕暮れにも、とても恋しいと思った人なのであった。一緒の所に住んでいたときは、とても意地悪で、妙に生意気で憎らしかったが、母親がとてもかわいがって、宇治にも時々連れておいでになったので、少し大きくなってからは、お互いに仲好くしていた。
    133 
     135 子供心を思い出すにつけても、夢のようである。真先に、母親の様子を、とても尋ねたく、「その他の人びとについては自然とだんだん聞くが、母親がどうしていらっしゃるかは、少しも聞くことができない」と、なまじこの子を見たばかりに、とても悲しくなって、ぽろぽろと涙がこぼれた。
    134 
     136 たいそう可憐で、少し似ていらっしゃるところがあるように思われるので、
    135 
     137 「ご姉弟でいらっしゃるようだ。お話し申し上げたくお思いでいることもあろう。内にお入れ申そう」
    136 
     138 と言うのを、「どうして、今はもう生きている者と思っていないのに、尼姿に身を変えて、急に会うのも気がひける」と思うと、しばらくためらって、
    137 
     139 「おっしゃるとおり、隠し事があると、お思いになるのがつらくて、何も申すことができません。情けなかった姿は、珍しいことだと御覧になったでしょうが、正気も失い、魂などと申すものも、以前とは違ったものになってしまったのでしょうか、何ともかとも、過ぎ去った昔のことを、自分ながら全然思い出すことができないところに、紀伊守とかいった人が、世間話をした中で、知っていた方のことかと、わずかに思い出される気がしました。
    138 
     140 その後は、あれやこれやと考え続けましたが、いっこうにはっきりと思い出されませんが、ただ一人おいでになった方の、何とか幸福にと並々ならず思っていらしたような母親が、まだ生きておいでかと、そのことばかりが脳裏を離れず、悲しい時々がございますので、今日見ると、この童の顔は、小さい時に見たことのある気がするのにつけても、とても堪えがたい気がするが、今さら、このような人に、生きていると知られないで終わりたいと、存じております。
    139 
     141 あの母親が、もしこの世に生きておいででしたら、その方お一人だけには、お目にかかりたく存じております。この僧都が、おっしゃっている方などには、まったく知られ申すまいと、存じております。何とか工夫して、間違いであると申し上げて、隠してくださいませ」
    140 
     142 とおっしゃるので、
    141 
     143 「まことに難しいことですね。僧都のお考えは、聖と申すなかでも、あまりにに正直一途の方でいらっしゃいますから、まさに何も残さずに申し上げなさったことでしょう。後で分かってしまいましょう。いい加減な軽々しいご身分でもいらっしゃらないし」
    142 
     144 などと言い騒いで、
    143 
     145 「見たこともないほど強情でいらっしゃること」
    144 
     146 と、皆で話し合って、母屋の際に几帳を立てて入れた。
    145 
     147

    146 
     148 [第四段 小君、薫からの手紙を渡す]
    147 
     149 この子も、そうは聞いていたが、子供なので、唐突に言葉かけるのも気がひけるが、
    148 
     150 「もう一通ございますお手紙を、ぜひ差し上げたい。僧都のお導きは、確かなことでしたのに、このようにはっきりしませんとは」
    149 
     151 と、伏目になって言うと、
    150 
     152 「それそれ。まあ、かわいらしい」
    151 
     153 などと言って、
    152 
     154 「お手紙を御覧になるはずの人は、ここにいらっしゃるようです。はたの者は、どのようなことかと分からずにおりますが、さらにおっしゃってください。幼いご年齢ですが、このようなお使いをお任せになる理由もあるのでしょう」
    153 
     155 などと言うので、
    154 
     156 「よそよそしくなさって、はっきりしないお持てなしをなさるのでは、何を申し上げられましょう。他人のようにお思いになっていたら、申し上げることもございません。ただ、このお手紙を、人を介してではなく差し上げなさい、とございましたので、ぜひとも差し上げたい」
    155 
     157 と言うと、
    156 
     158 「まことにごもっともです。やはり、とてもこのように情けなくいらっしゃらないで。いくら何でも気味悪いほどのお方ですこと」
    157 
     159 とお促し申して、几帳の側に押し寄せ申したので、人心地もなく座っていらっしゃるその感じは、他人ではない気がするので、すぐそこに近寄って差し上げた。
    158 
     160 「お返事を早く頂戴して、帰りましょう」
    159 
     161 と、このようにすげない態度を、つらいと思って急ぐ。
    160 
     162 尼君は、お手紙を開いて、お見せ申し上げる。以前と同じようなご筆跡で、紙の香なども、いつもの、世にないまで染み込んでいた。ちらっと見て、例によって、何にでも感心するでしゃばり者は、ほんとめったになく素晴らしいと思うであろう。
    161 
     163 「まったく申し上げようもなく、いろいろと罪障の深いお身の上を、僧都に免じてお許し申し上げて、今は何とかして、驚きあきれたような当時の夢のような思い出話なりとも、せめてと、せかれる気持ちが、自分ながらもどかしく思われることです。まして、傍目にはどんなに見られることでしょうか」
    162 
     164 と、お心を書き尽くしきれない。
    163 
     165 「仏法の師と思って尋ねて来た道ですが、それを道標としていたのに
    164 
     166  思いがけない山道に迷い込んでしまったことよ
    165 
     167 この子は、お忘れになったでしょうか。わたしは、行方不明になったあなたのお形見として見ているのです」
    166 
     168 などと、とても愛情がこもっている。
    167 
     169

    168 
     170 [第五段 浮舟、薫への返事を拒む]
    169 
     171 このようにこまごまとお書きになっている様子が、紛れようもないので、そうかといって、昔の自分とも違う姿を、意外にも見つけられ申したときの、体裁の悪さなどを思い乱れて、今まで以上に晴れ晴れしくない気持ちは、何ともいいようがない。
    170 
     172 そうはいってもふと涙がこぼれて、臥せりなさったので、「まことに世間知らずのなさりようだ」と、扱いかねた。
    171 
     173 「どのように申し上げましょう」
    172 
     174 などと責められて、
    173 
     175 「気分がとても苦しゅうございますのを、おさまりましてから、やがて差し上げましょう。昔のことを思い出しても、まったく思い当たることがなく、不思議で、どのような夢であったのかとばかり、分かりません。少し気分が静まったら、このお手紙なども、分かるようなこともありましょうか。今日は、やはりお持ち帰りください。人違いであったら、とても体裁悪いでしょうから」
    174 
     176 と言って、広げたまま、尼君にお渡しになったので、
    175 
     177 「とても見苦しいなさりようですこと。あまり不作法なのは、世話している者どもも、咎を免れないことでしょう」
    176 
     178 などと言って騒ぐのも、嫌で聞いていられなく思われるので、顔を引き入れてお臥せりになった。
    177 
     179 主人の尼が、この君にお話を少し申し上げて、
    178 
     180 「物の怪のせいでしょうか。いつもの様子にお見えになる時もなく、ずっと患っていらっしゃって、お姿も尼姿におなりになったが、お探し申し上げなさる方がいたら、とても厄介なことになりましょうことよと、拝見し嘆いておりましたのも、その通りに、このようにまことにおいたわしく、胸打つご事情がございましたのを、今は、まことに恐れ多く存じております。
    179 
     181 常日頃も、ずっとご病気がちでいらしたようなのを、ますますこのようなお手紙にお思い乱れなさったのか、いつも以上に分別がなくおいでです」
    180 
     182 と申し上げる。
    181 
     183

    182 
     184 [第六段 小君、空しく帰り来る]
    183 
     185 山里らしい趣のある饗応などをしたが、子供心には、どことなくいたたまれないような気がして、
    184 
     186 「わざわざお遣わしあそばされたそのしるしに、何とお返事申し上げたらよいのでしょう。ただ一言でもおっしゃってください」
    185 
     187 などと言うと、
    186 
     188 「ほんとうですこと」
    187 
     189 などと言って、これこれです、とそのまま伝えるが、何もおっしゃらないので、しかたなくて、
    188 
     190 「ただ、あのように、はっきりしないご様子を申し上げなさるのがよいのでしょう。雲が遥かに遠く隔たった場所でもないようでございますので、山の風が吹いても、またきっとお立ち寄りなさいまし」
    189 
     191 と言うので、用もないのに日暮れまでいるのも妙な具合なので、帰ろうとする。心ひそかにお会いしたいご様子なのに、会うこともできずに終わったのを、気がかりで残念で、不満足のまま帰参した。
    190 
     192 早く早くとお待ちになっていたが、このようにはっきりしないまま帰って来たので、期待が外れて、「かえって遣らないほうがましだった」と、お思いになることがいろいろで、「誰かが隠し置いているのであろうか」と、ご自分の想像の限りを尽くして、放ってお置きになった経験からも、と本にございますようです。
    191 
     193

    192 
     194源氏物語の世界ヘ
    193 
     195本文
    194 
     196ローマ字版
    195 
     197注釈
    196 
     198大島本
    197 
     199自筆本奥入
    198 
     200199 
     201
    200 
     202201 
     203202