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10 賢木(大島本)
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SAKAKI
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光る源氏の二十三歳秋九月から二十五歳夏まで近衛大将時代の物語
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Tale of Hikaru-Genji's Konoe-Daisho era from September at the age of 23 to summer at the age of 25
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3 |
第三章 藤壷の物語 塗籠事件
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3 Tale of Fujitsubo
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3.1 |
第一段 源氏、再び藤壷に迫る
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3-1 Genji meets persistently to Fujitsubo
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3.1.1 |
内裏に参りたまはむことは、うひうひしく、所狭く思しなりて、春宮を見たてまつりたまはぬを、おぼつかなく思ほえたまふ。また、頼もしき人もものしたまはねば、ただこの大将の君をぞ、よろづに頼みきこえたまへるに、 なほ、この憎き御心のやまぬに、ともすれば御胸をつぶしたまひつつ、 いささかもけしきを御覧じ知らずなりにしを思ふだに、いと恐ろしきに、今さらにまた、さる事の聞こえありて、わが身はさるものにて、春宮の 御ためにかならずよからぬこと出で来なむ、と思すに、いと恐ろしければ、 御祈りをさへせさせて、このこと思ひやませたてまつらむと、思しいたらぬことなく逃れたまふを、 いかなる折にかありけむ、あさましうて、近づき参りたまへり。心深くたばかりたまひけむことを、知る人なかりければ、夢のやうにぞありける。
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内裏に参内なさるようなことは、物馴れない気がし、窮屈にお感じになって、東宮をご後見申し上げなされないのを、気がかりに思われなさる。また一方、頼りとする人もいらっしゃらないので、ただこの大将の君を、いろいろとお頼り申し上げていらっしゃったが、依然として、この憎らしいご執心が止まないうえに、ややもすれば度々胸をお痛めになって、少しも関係をお気づきあそばさずじまいだったのを思うだけでも、とても恐ろしいのに、今その上にまた、そのような事の噂が立っては、自分の身はともかくも、東宮の御ためにきっとよくない事が出て来よう、とお思いになると、とても恐ろしいので、ご祈祷までおさせになって、この事をお絶ちいただこうと、あらゆるご思案をなさって逃れなさるが、どのような機会だったのだろうか、思いもかけぬことに、お近づきになった。慎重に計画なさったことを、気づいた女房もいなかったので、夢のようであった。
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御所へ参内することも気の進まない源氏であったが、そのために東宮にお目にかからないことを寂しく思っていた。東宮のためにはほかの後援者がなく、ただ源氏だけを中宮も力にしておいでになったが、今になっても源氏は宮を御当惑させるようなことを時々した。院が最後まで秘密の片はしすらご存じなしにお崩れになったことでも、宮は恐ろしい罪であると感じておいでになったのに、今さらまた悪名の立つことになっては、自分はともかくも東宮のために必ず大きな不幸が起こるであろうと、宮は御心配になって、源氏の恋を仏力で止めようと、ひそかに祈祷までもさせてできる限りのことを尽くして源氏の情炎から身をかわしておいでになるが、ある時思いがけなく源氏が御寝所に近づいた。慎重に計画されたことであったから宮様には夢のようであった。
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Uti ni mawiri tamaha m koto ha, uhi-uhisiku, tokoroseku obosi nari te, Touguu wo mi tatematuri tamaha nu wo, obotukanaku omohoye tamahu. Mata, tanomosiki hito mo monosi tamaha ne ba, tada kono Daisyau-no-Kimi wo zo, yorodu ni tanomi kikoye tamahe ru ni, naho, kono nikuki mi-kokoro no yama nu ni, tomo-sure ba ohom-mune wo tubusi tamahi tutu, isasaka mo kesiki wo go-ran-zi sira zu nari ni si wo omohu dani, ito osorosiki ni, imasara ni mata, saru koto no kikoye ari te, waga mi ha saru mono ni te, Touguu no ohom-tame ni kanarazu yokara nu koto ide-ki na m, to obosu ni, ito osorosikere ba, ohom-inori wo sahe se sase te, kono koto omohi yama se tatematura m to, obosi itara nu koto naku nogare tamahu wo, ika naru wori ni ka ari kem, asamasiu te, tikaduki mawiri tamahe ri. Kokoro-hukaku tabakari tamahi kem koto wo, siru hito nakari kere ba, yume no yau ni zo ari keru.
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3.1.2 |
まねぶべきやうなく聞こえ続けたまへど、宮、いとこよなくもて離れきこえたまひて、果て果ては、御胸をいたう悩みたまへば、近うさぶらひつる 命婦、弁などぞ、あさましう見たてまつりあつかふ。 男は、憂し、つらし、と思ひきこえたまふこと、限りなきに、 来し方行く先、かきくらす心地して、うつし心失せにければ、明け果てにけれど、出でたまはずなりぬ。
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筆に写して伝えることができないくらい言葉巧みにかき口説き申し上げなさるが、宮、まことにこの上もなく冷たくおあしらい申し上げなさって、遂には、お胸をひどくお苦しみなさったので、近くに控えていた命婦、弁などは、驚きあきれてご介抱申し上げる。男は、恨めしい、辛い、とお思い申し上げなさること、この上もないので、過去も未来も、まっ暗闇になった感じで、理性も失せてしまったので、すっかり明けてしまったが、お出にならないままになってしまった。
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源氏が御心を動かそうとしたのは偽らぬ誠を盛った美しい言葉であったが、宮はあくまでも冷静をお失いにならなかった。ついにはお胸の痛みが起こってきてお苦しみになった。命婦とか弁とか秘密に与っている女房が驚いていろいろな世話をする。源氏は宮が恨めしくてならない上に、この世が真暗になった気になって呆然として朝になってもそのまま御寝室にとどまっていた。
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Manebu beki yau naku kikoye tuduke tamahe do, Miya, ito koyonaku mote-hanare kikoye tamahi te, hate-hate ha, ohom-mune wo itau nayami tamahe ba, tikau saburahi turu Myaubu, Ben nado zo, asamasiu mi tatematuri atukahu. Wotoko ha, usi, turasi, to omohi kikoye tamahu koto, kagiri naki ni, kisi-kata yuku-saki, kaki-kurasu kokoti si te, utusi-gokoro use ni kere ba, ake-hate ni kere do, ide tamaha zu nari nu.
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3.1.3 |
御悩みにおどろきて、人びと近う参りて、しげうまがへば、我にもあらで、塗籠に押し 入れられておはす。御衣ども隠し持たる人の心地ども、いとむつかし。宮は、ものをいとわびし、と思しけるに、御気上がりて、なほ悩ましうせさせたまふ。兵部卿宮、大夫など参りて、
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ご病気に驚いて、女房たちがお近くに参上して、しきりに出入りするので、茫然自失のまま、塗籠に押し込められていらっしゃる。お召物を隠し持っている女房たちの心地も、とても気が気でない。宮は、何もかもとても辛い、とお思いになったので、のぼせられて、なおもお苦しみあそばす。兵部卿宮、大夫などが参上して、
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御病気を聞き伝えて御帳台のまわりを女房が頻繁に往来することにもなって、源氏は無意識に塗籠(屋内の蔵)の中へ押し入れられてしまった。源氏の上着などをそっと持って来た女房も怖しがっていた。宮は未来と現在を御悲観あそばしたあまりに逆上をお覚えになって、翌朝になってもおからだは平常のようでなかった。兄君の兵部卿の宮とか中宮大夫などが参殿し、
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Ohom-nayami ni odoroki te, hito-bito tikau mawiri te, sigeu magahe ba, ware ni mo ara de, nurigome ni osi-ire rare te ohasu. Ohom-zo-domo kakusi mo' taru hito no kokoti-domo, ito mutukasi. Miya ha, mono wo ito wabisi, to obosi keru ni, mi-ke agari te, naho nayamasiu se sase tamahu. Hyaubukyau-no-Miya, Daibu nado mawiri te,
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3.1.4 |
「僧召せ」
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「僧を呼べ」
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祈りの僧を迎えよう
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"Sou mese."
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3.1.5 |
など騒ぐを、大将、いとわびしう聞きおはす。からうして、暮れゆくほどにぞおこたりたまへる。
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などと騒ぐのを、大将は、とても辛く聞いていらっしゃる。やっとのことで、暮れて行くころに、ご回復あそばした。
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などと言われているのを源氏は苦しく聞いていたのである。日が暮れるころにやっと御病悩はおさまったふうであった。
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nado sawagu wo, Daisyau, ito wabisiu kiki ohasu. Karausite, kure-yuku hodo ni zo okotari tamahe ru.
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3.1.6 |
かく籠もりゐたまへらむとは 思しもかけず、人びとも、また御心惑はさじとて、 かくなむとも 申さぬなるべし。昼の御座にゐざり出でておはします。よろしう思さるるなめりとて、 宮もまかでたまひなどして、御前人少なになりぬ。 例もけ近くならさせたまふ人少なければ、ここかしこの物のうしろなどにぞさぶらふ。命婦の君などは、
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このように籠もっていられようとはお思いにもならず、女房たちも、再びお心を乱させまいと思って、これこれしかじかでとも申し上げないのだろう。昼の御座にいざり出ていらっしゃる。ご回復そばしたらしいと思って、兵部卿宮もご退出などなさって、御前は人少なになった。いつもお側近くに仕えさせなさる者は少ないので、あちらこちらの物蔭などに控えている。命婦の君などは、
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源氏が塗籠で一日を暮らしたとも中宮様はご存じでなかった。命婦や弁なども御心配をさせまいために申さなかったのである。宮は昼の御座へ出てすわっておいでになった。御恢復になったものらしいと言って、兵部卿の宮もお帰りになり、お居間の人数が少なくなった。平生からごく親しくお使いになる人は多くなかったので、そうした人たちだけが、そこここの几帳の後ろや襖子の蔭などに侍していた。命婦などは、
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Kaku komori wi tamahe ra m to ha obosi mo kake zu, hito-bito mo, mata mi-kokoro madohasa zi tote, kaku nam to mo mausa nu naru besi. Hiru no o-masi ni wizari-ide te ohasimasu. Yorosiu obosa ruru na' meri tote, Miya mo makade tamahi nado si te, o-mahe hito-zukuna ni nari nu. Rei mo ke-dikaku narasa se tamahu hito sukunakere ba, koko kasiko no mono no usiro nado ni zo saburahu. Myaubu-no-Kimi nado ha,
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3.1.7 |
「 いかにたばかりて、出だしたてまつらむ。今宵さへ、御気上がらせたまはむ、いとほしう」
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「どのように人目をくらまして、お出し申し上げよう。今夜までも、おのぼせになられたら、おいたわしい」
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「どう工夫して大将さんをそっと出してお帰ししましょう。またそばへおいでになると今夜も御病気におなりあそばすでしょうから、宮様がお気の毒ですよ」
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"Ika ni tabakari te, idasi tatematura m. Koyohi sahe, mi-ke agara se tamaha m, itohosiu."
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3.1.8 |
など、 うちささめき扱ふ。
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などと、ひそひそとささやきもてあましている。
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などとささやいていた。
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nado, uti-sasameki atukahu.
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3.1.9 |
君は、塗籠の戸の細めに開きたるを、やをらおし開けて、御屏風のはさまに伝ひ入りたまひぬ。 めづらしくうれしきにも、涙落ちて見たてまつりたまふ。
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君は、塗籠の戸が細めに開いているのを、静かに押し開けて、御屏風の隙間を伝わってお入りになった。珍しく嬉しいにつけても、涙は落ちて拝見なさる。
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源氏は塗籠の戸を初めから細目にあけてあった所へ手をかけて、そっとあけてから、屏風と壁の間を伝って宮のお近くへ出て来た。ご存じのない宮のお横顔を蔭からよく見ることのできる喜びに源氏は胸をおどらせ涙も流しているのである。
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Kimi ha, nurigome no to no hoso-me ni aki taru wo yawora osi-ake te, mi-byaubu no hasama ni tutahi iri tamahi nu. Medurasiku uresiki ni mo, namida oti te mi tatematuri tamahu.
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3.1.10 |
「 なほ、いと苦しうこそあれ。世や尽きぬらむ」
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「やはり、とても苦しい。死んでしまうのかしら」
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「まだ私は苦しい。死ぬのではないかしら」
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"Naho, ito kurusiu koso are. Yo ya tuki nu ram."
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3.1.11 |
とて、外の方を見出だしたまへるかたはら目、言ひ知らずなまめかしう見ゆ。 御くだものをだに、とて参り据ゑたり。箱の蓋などにも、 なつかしきさまにてあれど、見入れたまはず。 世の中をいたう思し悩めるけしきにて、のどかに眺め入りたまへる、 いみじうらうたげなり。 髪ざし、頭つき、御髪のかかりたるさま、限りなき匂はしさなど、ただ、かの対の姫君に違ふところなし。 年ごろ、すこし思ひ忘れたまへりつるを、「 あさましきまでおぼえたまへるかな ★」と見たまふままに、 すこしもの思ひのはるけどころある心地したまふ。
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と言って、外の方を遠く見ていらっしゃる横顔、何とも言いようがないほど優美に見える。お果物だけでも、といって差し上げた。箱の蓋などにも、おいしそうに盛ってあるが、見向きもなさらない。世の中をとても深く思い悩んでいられるご様子で、静かに物思いに耽っていらっしゃる、たいそういじらしげである。髪の生え際、頭の恰好、御髪のかかっている様子、この上ない美しさなど、まるで、あの対の姫君に異なるところがない。ここ数年来、少し思い忘れていらしたのを、「驚きあきれるまでよく似ていらっしゃることよ」と御覧になっていらっしゃると、少し執心の晴れる心地がなさる。
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とも言って外のほうをながめておいでになる横顔が非常に艶である。これだけでも召し上がるようにと思って、女房たちが持って来たお菓子の台がある、そのほかにも箱の蓋などに感じよく調理された物が積まれてあるが、宮はそれらにお気がないようなふうで、物思いの多い様子をして静かに一所をながめておいでになるのがお美しかった。髪の質、頭の形、髪のかかりぎわなどの美しさは西の対の姫君とそっくりであった。よく似たことなどを近ごろは初めほど感ぜずにいた源氏は、今さらのように驚くべく酷似した二女性であると思って、苦しい片恋のやり場所を自分は持っているのだという気が少しした。
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tote, to-no-kata wo mi-idasi tamahe ru katahara-me, ihi-sira-zu namamekasiu miyu. Ohom-kudamono wo dani, tote mawiri suwe tari. Hako no huta nado ni mo, natukasiki sama nite are do, mi-ire tamaha zu. Yononaka wo itau obosi nayame ru kesiki nite, nodoka ni nagame iri tamahe ru, imiziu rautage nari. Kam-zasi, kasira-tuki, mi-gusi no kakari taru sama, kagirinaki nihohasisa nado, tada, kano Tai-no-Himegimi ni tagahu tokoro nasi. Tosi-goro, sukosi omohi-wasure tamahe ri turu wo, "Asamasiki made oboye tamahe ru kana!" to mi tamahu mama ni, sukosi mono-omohi no haruke-dokoro aru kokoti si tamahu.
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3.1.12 |
気高う恥づ かしげなるさまなども、さらに異人とも思ひ分きがたきを、 なほ、限りなく昔より思ひしめきこえてし心の思ひなしにや、「 さまことに、いみじうねびまさりたまひにけるかな」と、たぐひなくおぼえたまふに、心惑ひして、やをら御帳のうちに かかづらひ入りて、 御衣の褄を引きならしたまふ。けはひしるく、さと匂ひたるに、あさましうむくつけう思されて、やがてひれ伏したまへり。「 見だに向きたまへかし」と 心やましうつらうて、引き寄せたまへるに、御衣をすべし置きて、ゐざりのきたまふに、心にもあらず、 御髪の取り添へられたりければ、いと心憂く、宿世のほど、思し知られて、いみじ、と思したり。
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気品高く気後れするような様子なども、まったく別人と区別することも難しいのを、やはり、何よりも大切に昔からお慕い申し上げてきた心の思いなしか、「たいそう格別に、お年とともにますますお美しくなってこられたなあ」と、他に比べるものがなくお思いになると、惑乱して、そっと御帳の中に纏いつくように入り込んで、御衣の褄を引き動かしなさる。気配ははっきり分かり、さっと匂ったので、あきれて不快な気がなさって、そのまま伏せっておしまいになった。「振り向いて下さるだけでも」と恨めしく辛くて、引き寄せなさると、お召物を脱ぎ滑らせて、いざり退きなさるが、思いがけず、御髪がお召し物と一緒に掴まえられたので、まことに情けなく、宿縁の深さ、思い知られなさって、実に辛い、とお思いになった。
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高雅な所も別人とは思えないのであるが、初恋の宮は思いなしか一段すぐれたものに見えた。華麗な気の放たれることは昔にましたお姿であると思った源氏は前後も忘却して、そっと静かに帳台へ伝って行き、宮のお召し物の褄先を手で引いた。源氏の服の薫香の香がさっと立って、宮は様子をお悟りになった。驚きと恐れに宮は前へひれ伏しておしまいになったのである。せめて見返ってもいただけないのかと、源氏は飽き足らずも思い、恨めしくも思って、お裾を手に持って引き寄せようとした。宮は上着を源氏の手にとめて、御自身は外のほうへお退きになろうとしたが、宮のお髪はお召し物とともに男の手がおさえていた。宮は悲しくてお自身の薄倖であることをお思いになるのであったが、非常にいたわしい御様子に見えた。
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Ke-dakau hadukasige naru sama nado mo, sarani koto-bito to mo omohi-waki gataki wo, naho, kagiri naku mukasi yori omohi-sime kikoye te si kokoro no omohi-nasi ni ya, "Sama koto ni, imiziu nebi-masari tamahi ni keru kana!" to, taguhinaku oboye tamahu ni, kokoro-madohi si te, yawora mi-tyau no uti ni kakadurahi iri te, ohom-zo no tuma wo hiki-narasi tamahu. Kehahi siruku, sato nihohi taru ni, asamasiu mukutukeu obosa re te, yagate hire-husi tamahe ri. "Mi dani muki tamahe kasi." to kokoro-yamasiu turau te, hiki-yose tamahe ru ni, ohom-zo wo subesi oki te, wizari-noki tamahu ni, kokoro ni mo ara zu, mi-gusi no tori-sohe rare tari kere ba, ito kokoro-uku, sukuse no hodo, obosi-sira re te, imizi, to obosi tari.
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3.1.13 |
男も、ここら世をもてしづめたまふ御心、みな乱れて、うつしざまにもあらず、よろづのことを泣く泣く怨みきこえたまへど、 まことに心づきなし、と思して、いらへも聞こえたまはず。ただ、
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男も、長年抑えてこられたお心、すかっり惑乱して、気でも違ったように、すべての事を泣きながらお恨み訴え申し上げなさるが、本当に厭わしい、とお思いになって、お返事も申し上げなさらない。わずかに、
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源氏も今日の高い地位などは皆忘れて、魂も顛倒させたふうに泣き泣き恨みを言うのであるが、宮は心の底からおくやしそうでお返辞もあそばさない。ただ、
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Wotoko mo, kokora yo wo mote-sidume tamahu mi-kokoro, mina midare te, utusi-zama ni mo ara zu, yorodu no koto wo naku-naku urami kikoye tamahe do, makoto ni kokoro-dukinasi, to obosi te, irahe mo kikoye tamaha zu. Tada,
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3.1.14 |
「 心地の、いと悩ましきを。かからぬ折もあらば、聞こえてむ」
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「気分が、とてもすぐれませんので。このようでない時であったら、申し上げましょう」
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「私はからだが今非常によくないのですから、こんな時でない機会がありましたら詳しくお話をしようと思います」
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"Kokoti no, ito nayamasiki wo. Kakara nu wori mo ara ba, kikoye te m."
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3.1.15 |
とのたまへど、尽きせぬ御心のほどを言ひ続けたまふ。
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とおっしゃるが、尽きないお心のたけを言い続けなさる。
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とお言いになっただけであるのに、源氏のほうでは苦しい思いを告げるのに千言万語を費やしていた。
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to notamahe do, tuki se nu mi-kokoro no hodo wo ihi-tuduke tamahu.
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3.1.16 |
さすがに、いみじと聞きたまふふしもまじるらむ。 あらざりしことにはあらねど、改めて、いと口惜しう思さるれば、なつかしきものから、いとようのたまひ逃れて、今宵も明け行く。
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そうは言っても、さすがにお心を打つような内容も交じっているのだろう。以前にも関係がないではなかった仲だが、再びこうなって、ひどく情けなくお思いになるので、優しくおっしゃりながらも、とてもうまく言い逃れなさって、今夜もそのまま明けて行く。
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さすがに身に沁んでお思われになることも混じっていたに違いない。以前になかったことではないが、またも罪を重ねることは堪えがたいことであると思召す宮は、柔らかい、なつかしいふうは失わずに、しかも迫る源氏を強く避けておいでになる。ただこんなふうで今夜も明けていく。
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Sasuga ni, imizi to kiki tamahu husi mo maziru ram. Ara zari si koto ni ha ara ne do, aratame te, ito kutiwosiu obosa rure ba, natukasiki monokara, ito you notamahi nogare te, koyohi mo ake-yuku.
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3.1.17 |
せめて従ひきこえざらむもかたじけなく、心恥づかしき御けはひなれば、
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しいてお言葉に従い申し上げないのも恐れ多く、奥ゆかしいご様子なので、
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この上で力で勝つことはなすに忍びない清い気高さの備わった方であったから、源氏は、
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Semete sitagahi kikoye zara m mo katazikenaku, kokoro-hadukasiki ohom-kehahi nare ba,
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3.1.18 |
「 ただ、かばかりにても、時々、いみじき愁へをだに、はるけはべりぬべくは、何のおほけなき心もはべらじ」
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「わずか、この程度であっても、時々、大層深い苦しみだけでも、晴らすことができれば、何の大それた考えもございません」
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「私はこれだけで満足します。せめて今夜ほどに接近するのをお許しくだすって、今後も時々は私の心を聞いてくださいますなら、私はそれ以上の無礼をしようとは思いません」
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"Tada, kabakari ni te mo, toki-doki, imiziki urehe wo dani, haruke haberi nu beku ha, nani no ohokenaki kokoro mo habera zi."
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3.1.19 |
など、たゆめきこえたまふべし。 なのめなることだに、かやうなる仲らひは、あはれなることも添ふなるを、まして、たぐひなげなり。
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などと、ご安心申し上げなさるのだろう。ありふれたことでさえも、このような間柄には、しみじみとしたことも多く付きまとうというものだが、それ以上に、匹敵するものがなさそうである。
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こんなふうに言って油断をおさせしようとした。今後の場合のために。こうした深刻な関係でなくても、これに類したあぶない逢瀬を作る恋人たちは別れが苦しいものであるから、まして源氏にここは離れがたい。
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nado, tayume kikoye tamahu besi. Nanome naru koto dani, kayau naru nakarahi ha, ahare naru koto mo sohu naru wo, masite, taguhi-nage nari.
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3.1.20 |
明け果つれば、 二人して、 いみじきことどもを聞こえ、宮は、半ばは亡きやうなる御けしきの心苦しければ、
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明けてしまったので、二人して、大変なことになるとご忠告申し上げ、宮は、半ば魂も抜けたような御様子なのが、おいたわしいので、
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夜が明けてしまったので王命婦と弁とが源氏の退去をいろいろに言って頼んだ。宮様は半ば死んだようになっておいでになるのである。
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Ake-hature ba, hutari si te, imiziki koto-domo wo kikoye, Miya ha, nakaba ha naki yau naru mi-kesiki no kokoro-gurusikere ba,
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3.1.21 |
「 世の中にありと聞こし召されむも ★、いと恥づかしければ、 やがて亡せはべりなむも、また、 この世ならぬ罪となりはべりぬべきこと」
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「世の中にまだ生きているとお聞きあそばすのも、とても恥ずかしいので、このまま死んでしまいますのも、また、この世だけともならぬ罪障となりましょうことよ」
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「恥知らずの男がまだ生きているかとお思われしたくありませんから、私はもうそのうち死ぬでしょう。そしたらまた死んだ魂がこの世に執着を持つことで罰せられるのでしょう」
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"Yononaka ni ari to kikosimesa re m mo, ito hadukasikere ba, yagate use haberi na m mo, mata, konoyo nara nu tumi to nari haberi nu beki koto."
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3.1.22 |
など聞こえたまふも、むくつけきまで思し 入れり。
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などと申し上げなさるが、鬼気迫るまでに思いつめていらっしゃった。
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恐ろしい気がするほど源氏は真剣になっていた。
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nado kikoye tamahu mo, mukutukeki made obosi-ire ri.
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3.1.23 |
「 逢ふことのかたきを今日に限らずは
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「お逢いすることの難しさが今日でおしまいでないならば
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「逢ふことの難きを今日に限らずば
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"Ahu koto no kataki wo kehu ni kagira zu ha
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3.1.24 |
今幾世をか嘆きつつ経む
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いく転生にわたって嘆きながら過すことでしょうか
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なほ幾世をか歎きつつ経ん
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ima iku-yo wo ka nageki tutu he m
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3.1.25 |
御ほだしにもこそ」
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御往生の妨げにもなっては」
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どうなってもこうなっても私はあなたにつきまとっているのですよ」
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Ohom-hodasi ni mo koso."
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3.1.26 |
と聞こえたまへば、さすがに、うち嘆きたまひて、
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と申し上げなさると、そうは言うものの、ふと嘆息なさって、
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宮は吐息をおつきになって、
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to kikoye tamahe ba, sasuga ni, uti-nageki tamahi te,
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3.1.27 |
「 長き世の恨みを人に残しても
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「未来永劫の怨みをわたしに残したと言っても
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長き世の恨みを人に残しても
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"Nagaki yo no urami wo hito ni nokosi te mo
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3.1.28 |
かつは心をあだと知らなむ」
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そのようなお心はまた一方ですぐに変わるものと知っていただきたい」
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かつは心をあだとしらなん
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katu ha kokoro wo ada to sira nam
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3.1.29 |
はかなく言ひなさせたまへるさまの、言ふよしなき心地すれど、人の思さむところも、わが御ためも苦しければ、我にもあらで、出でたまひぬ。
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わざと何でもないことのようにおっしゃる様子が、何とも言いようのない気がするが、相手のお思いになることも、ご自分のためにも苦しいので、呆然自失の心地で、お出になった。
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とお言いになった。源氏の言葉をわざと軽く受けたようにしておいでになる御様子の優美さに源氏は心を惹かれながらも宮の御軽蔑を受けるのも苦しく、わがためにも自重しなければならないことを思って帰った。
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Hakanaku ihi-nasa se tamahe ru sama no, ihu yosi naki kokoti sure do, hito no obosa m tokoro mo, waga ohom-tame mo kurusikere ba, ware ni mo ara de, ide tamahi nu.
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3.2 |
第二段 藤壷、出家を決意
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3-2 Fujitsubo determines to become a nun
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3.2.1 |
「 いづこを面にてかは、またも見えたてまつらむ。いとほしと思し知るばかり」と思して、御文も聞こえたまはず。うち絶えて、内裏、春宮にも参りたまはず、 籠もりおはして、起き臥し、「 いみじかりける人の御心かな」と、人悪ろく恋しう悲しきに、 心魂も失せにけるにや、悩ましうさへ思さる。もの心細く、「 なぞや、世に経れば憂さこそまされ ★」と、 思し立つには、 この女君のいと らうたげにて、あはれにうち頼みきこえたまへるを、 振り捨てむこと、いとかたし。
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「何の面目があって、再びお目にかかることができようか。気の毒だとお気づきになるだけでも」とお思いになって、後朝の文も差し上げなさらない。すっかりもう、内裏、東宮にも参内なさらず、籠もっていらして、寝ても覚めても、「本当にひどいお気持ちの方だ」と、体裁が悪いほど恋しく悲しいので、気も魂も抜け出してしまったのだろうか、ご気分までが悪く感じられる。何となく心細く、「どうしてか、世の中に生きていると嫌なことばかり増えていくのだろう」と、発意なさる一方では、この女君がとてもかわいらしげで、心からお頼り申し上げていらっしゃるのを、振り捨てるようなこと、とても難しい。
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あれほど冷酷に扱われた自分はもうその方に顔もお見せしたくない。同情をお感じになるまでは沈黙をしているばかりであると源氏は思って、それ以来宮へお手紙を書かないでいた。ずっともう御所へも東宮へも出ずに引きこもっていて、夜も昼も冷たいお心だとばかり恨みながらも、自分の今の態度を裏切るように恋しさがつのった。魂もどこかへ行っているようで、病気にさえかかったらしく感ぜられた。心細くて人間的な生活を捨てないからますます悲しみが多いのである、自分などは僧房の人になるべきであると、こんな決心をしようとする時にいつも思われるのは若い夫人のことであった。優しく自分だけを頼みにして生きている妻を捨てえようとは思われないのであった。
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"Iduko wo omote ni te ka ha, mata mo miye tatematura m. Itohosi to obosi-siru bakari." to obosi te, ohom-humi mo kikoye tamaha zu. Uti-taye te, Uti, Touguu ni mo mawiri tamaha zu, komori ohasi te, oki-husi, "Imizikari keru hito no mi-kokoro kana!" to, hito-waroku kohisiu kanasiki ni, kokoro-damasihi mo use ni keru ni ya, nayamasiu sahe obosa ru. Mono-kokoro-bosoku, "Nazo ya, yo ni hure ba usa koso masare." to, obosi-tatu ni ha, kono Womna-Gimi no ito rautage ni te, ahare ni uti-tanomi kikoye tamahe ru wo, huri-sute m koto, ito katasi.
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3.2.2 |
宮も、その名残、例にもおはしまさず。かうことさらめきて籠もりゐ、おとづれたまはぬを、命婦などはいとほしがりきこゆ。宮も、春宮の御ためを思すには、「 御心置きたまはむこと、いとほしく、世をあぢきなきものに思ひなりたまはば、ひたみちに思し立つこともや」と、 さすがに苦しう思さるべし。
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宮も、あの事があとを引いて、普段通りでいらっしゃらない。こうわざとらしく籠もっていらして、お便りもなさらないのを、命婦などはお気の毒がり申し上げる。宮も、東宮の御身の上をお考えになると、「お心隔てをお置きになること、お気の毒であるし、世の中をつまらないものとお思いになったら、一途に出家を思い立つ事もあろうか」と、やはり苦しくお思いにならずにはいられないのだろう。
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宮のお心も非常に動揺したのである。源氏はその時きり引きこもって手紙も送って来ないことで命婦などは気の毒がった。宮も東宮のためには源氏に好意を持たせておかねばならないのに、自分の態度から人生を悲観して僧になってしまわれることになってはならぬとさすがに思召すのであった。
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Miya mo, sono nagori, rei ni mo ohasimasa zu. Kau kotosara-meki te komori-wi, otodure tamaha nu wo, Myaubu nado ha itohosigari kikoyu. Miya mo, Touguu no ohom-tame wo obosu ni ha, "Mi-kokoro-oki tamaha m koto, itohosiku, yo wo adikinaki mono ni omohi nari tamaha ba, hitamiti ni obosi-tatu koto mo ya?" to, sasuga ni kurusiu obosa ru besi.
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3.2.3 |
「 かかること絶えずは、いとどしき世に、憂き名さへ漏り出でなむ。大后の、あるまじきことに のたまふなる位をも去りなむ」と、やうやう思しなる。院の思しのたまはせしさまの、 なのめならざりしを思し出づるにも、「 よろづのこと、ありしにもあらず、変はりゆく世にこそあめれ。 戚夫人の見けむ目のやうにあらずとも、かならず、人笑へなることは、ありぬべき身にこそあめれ」など、世の疎ましく、過ぐしがたう思さるれば、背きなむことを思し取るに、春宮、見たてまつらで面変はりせむこと、あはれに思さるれば、忍びやかにて参りたまへり。
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「このようなことが止まなかったら、ただでさえ辛い世の中に、嫌な噂までが立てられるだろう。大后が、けしからんことだとおっしゃっているという地位をも退いてしまおう」と、次第にお思いになる。故院が御配慮あそばして仰せになったことが、並大抵のことではなかったことをお思い出しになるにも、「すべてのことが、以前と違って、変わって行く世の中のようだ。戚夫人が受けたような辱めではなくても、きっと、世間の物嗤いになるようなことは、身の上に起こるにちがいない」などと、世の中が厭わしく、生きて行きがたく感じられずにはいられないので、出家してしまうことを御決意なさるが、東宮に、お眼にかからないで尼姿になること、悲しく思われなさるので、こっそりと参内なさった。
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そうといってああしたことが始終あっては瑕を捜し出すことの好きな世間はどんな噂を作るかが想像される。自分が尼になって、皇太后に不快がられている后の位から退いてしまおうと、こうこのごろになって宮はお思いになるようになった。院が自分のためにどれだけ重い御遺言をあそばされたかを考えると何ごとも当代にそれが実行されていないことが思われる。漢の初期の戚夫人が呂后に苛まれたようなことまではなくても、必ず世間の嘲笑を負わねばならぬ人に自分はなるに違いないと中宮はお思いになるのである。これを転機にして尼の生活にはいるのがいちばんよいことであるとお考えになったが、東宮にお逢いしないままで姿を変えてしまうことはおかわいそうなことであるとお思いになって、目だたぬ形式で御所へおはいりになった。
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"Kakaru koto taye zu ha, itodosiki yo ni, uki-na sahe mori-ide na m. Oho-Gisaki no, aru maziki koto ni notamahu naru kurawi wo mo sari na m." to, yau-yau obosi-naru. Win no obosi notamahase si sama no, nanome nara zari si wo obosi-iduru ni mo, "Yorodu no koto, ari si ni mo ara zu, kahari-yuku yo ni koso a' mere. Seki-huzin no mi kem me no yau ni ha ara zu to mo, kanarazu, hito-warahe naru koto ha, ari nu beki mi ni koso a' mere." nado, yo no utomasiku, sugusi-gatau obosa rure ba, somuki na m koto wo obosi-toru ni, Touguu, mi tatematura de omo-gahari se m koto, ahare ni obosa rure ba, sinobi-yaka ni te mawiri tamahe ri.
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3.2.4 |
大将の君は、さらぬことだに、思し寄らぬことなく仕うまつりたまふを、御心地悩ましきにことつけて、御送りにも参りたまはず。おほかたの御とぶらひは、同じやうなれど、「 むげに、思し屈しにける」と、 心知るどちは、いとほしがりきこゆ。
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大将の君は、それほどでないことでさえ、お気づきにならないことなくお仕え申し上げていらっしゃるが、ご気分がすぐれないことを理由にして、お送りの供奉にも参上なさらない。一通りのお世話は、いつもと同じようだが、「すっかり、気落ちしていらっしゃる」と、事情を知っている女房たちは、お気の毒にお思い申し上げる。
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源氏はそんな時でなくても十二分に好意を表する慣わしであったが、病気に托して供奉もしなかった。贈り物その他は常に変わらないが、来ようとしないことはよくよく悲観しておいでになるに違いないと、事情を知っている人たちは同情した。
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Daisyau-no-Kimi ha, saranu koto dani, obosi-yora nu koto naku tukau-maturi tamahu wo, mi-kokoti nayamasiki ni koto-tuke te, ohom-okuri ni mo mawiri tamaha zu. Ohokata no ohom-toburahi ha, onazi yau nare do, "Muge ni, obosi-ku'-si ni keru." to, kokoro-siru-doti ha, itohosigari kikoyu.
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3.2.5 |
宮は、いみじううつくしうおとなびたまひて、 めづらしううれしと思して、むつれきこえたまふを、 かなしと見たてまつりたまふにも、思し立つ筋はいとかたけれど、内裏わたりを見たまふにつけても、世のありさま、あはれにはかなく、移り変はることのみ多かり。
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宮は、たいそうかわいらしく御成長されて、珍しく嬉しいとお思いになって、おまつわり申し上げなさるのを、いとしいと拝見なさるにつけても、御決意なさったことはとても難しく思われるが、宮中の雰囲気を御覧になるにつけても、世の中のありさま、しみじみと心細く、移り変わって行くことばかりが多い。
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東宮はしばらくの間に美しく御成長しておいでになった。ひさびさ母宮とお逢いになった喜びに夢中になって、甘えて御覧になったりもするのが非常におかわいいのである。この方から離れて信仰の生活にはいれるかどうかと御自身で疑問が起こる。しかも御所の中の空気は、時の推移に伴う人心の変化をいちじるしく見せて人生は無常であるとお教えしないではおかなかった。
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Miya ha, imiziu utukusiu otonabi tamahi te, medurasiu uresi to obosi te, muture kikoye tamahu wo, kanasi to mi tatematuri tamahu ni mo, obosi-tatu sudi ha ito katakere do, Uti watari wo mi tamahu ni tuke te mo, yo no arisama, ahare ni hakanaku, uturi-kaharu koto nomi ohokari.
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3.2.6 |
大后の御心もいとわづらはしくて、かく出で入りたまふにも、はしたなく、事に触れて苦しければ、宮の御ためにも危ふくゆゆしう、よろづにつけて思ほし乱れて、
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大后のお心もとても煩わしくて、このようにお出入りなさるにつけても、体裁悪く、何かにつけて辛いので、東宮のお身の上のためにも危険で恐ろしく、万事につけてお思い乱れて、
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太后の復讐心に燃えておいでになることも面倒であったし、宮中への出入りにも不快な感を与える官辺のことも堪えられぬほど苦しくて、自分が現在の位置にいることは、かえって東宮を危うくするものでないかなどとも煩悶をあそばすのであった。
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Oho-Gisaki no mi-kokoro mo ito wadurahasiku te, kaku ide-iri tamahu ni mo, hasitanaku, koto ni hure te kurusikere ba, Miya no ohom-tame ni mo ayahuku yuyusiu, yorodu ni tuke te omohosi midare te,
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3.2.7 |
「 御覧ぜで、久しからむほどに、 容貌の異ざまにてうたてげに変はりてはべらば、いかが思さるべき」
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「御覧にならないで、長い間のうちに、姿形が違ったふうに嫌な恰好に変わりましたら、どのようにお思いあそばしますか」
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「長くお目にかからないでいる間に、私の顔がすっかり変わってしまったら、どうお思いになりますか」
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"Go-ran-ze de, hisasikara mu hodo ni, katati no koto-zama ni te utate-ge ni kahari te habera ba, ikaga obosa ru beki?"
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3.2.8 |
と聞こえたまへば、御顔うちまもりたまひて、
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とお申し上げなさると、お顔をじっとお見つめになって、
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と中宮がお言いになると、じっと東宮はお顔を見つめてから、
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to kikoye tamahe ba, mi-kaho uti-mamori tamahi te,
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3.2.9 |
「 式部がやうにや。いかでか、さはなりたまはむ」
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「式部のようになの。どうして、そのようにはおなりになりましょう」
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「式部のようにですか。そんなことはありませんよ」
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"Sikibu ga yau ni ya? Ikade ka, sa ha nari tamaha m."
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3.2.10 |
と、笑みてのたまふ。 いふかひなくあはれにて、
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と、笑っておっしゃる。何とも言いようがなくいじらしいので、
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とお笑いになった。たよりない御幼稚さがおかわいそうで、
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to, wemi te notamahu. Ihukahinaku ahare ni te,
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3.2.11 |
「 それは、老いてはべれば醜きぞ。さはあらで、髪はそれよりも 短くて、黒き衣などを着て、夜居の僧のやうになりはべらむとすれば、見たてまつらむことも、いとど久しかるべきぞ」
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「あの人は、年老いていますので醜いのですよ。そうではなくて、髪はそれよりも短くして、黒い衣などを着て、夜居の僧のようになりましょうと思うので、お目にかかることも、ますます間遠になるにちがいありませんよ」
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「いいえ。式部は年寄りですから醜いのですよ。そうではなくて、髪なんか式部よりも短くなって、黒い着物などを着て、夜居のお坊様のように私はなろうと思うのですから、今度などよりもっと長くお目にかかれませんよ」
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"Sore ha, oyi te habere ba minikuki zo. Sa ha ara de, kami ha sore yori mo mizikaku te, kuroki kinu nado wo ki te, yowi-no-sou no yau ni nari habera m to sure ba, mi tatematura m koto mo, itodo hisasikaru beki zo."
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3.2.12 |
とて泣きたまへば、まめだちて、
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と言ってお泣きになると、真剣になって、
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宮がお泣きになると、東宮はまじめな顔におなりになって、
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tote, naki tamahe ba, mame-dati te,
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3.2.13 |
「 久しうおはせぬは、恋しきものを」
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「長い間いらっしゃらないのは、恋しいのに」
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「長く御所へいらっしゃらないと、私はお逢いしたくてならなくなるのに」
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"Hisasiu ohase nu ha, kohisiki mono wo!"
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3.2.14 |
とて、涙の落つれば、恥づかしと思して、さすがに背きたまへる、御髪はゆらゆらときよらにて、まみのなつかしげに匂ひたまへるさま、おとなびたまふままに、 ただかの御顔を脱ぎすべたまへり。 御歯のすこし朽ちて、口の内黒みて、笑みたまへる薫りうつくしきは、女にて見たてまつらまほしうきよらなり。「 いと、かうしもおぼえたまへるこそ、心憂けれ」と、玉の瑕に思さるるも、 世のわづらはしさの、空恐ろしうおぼえたまふなりけり。
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と言って、涙が落ちたので、恥ずかしいとお思いになって、それでも横をお向きになっていらっしゃる、お髪はふさふさと美しくて、目もとがやさしく輝いていらっしゃる様子、大きく成長なさっていくにつれて、まるで、あの方のお顔を移し変えなさったようである。御歯が少し虫歯になって、口の中が黒ずんで、笑っていらっしゃる輝く美しさは、女として拝見したい美しさである。「とても、こんなに似ていらっしゃるのが、心配だ」と、玉の疵にお思いなされるのも、世間のうるさいことが、空恐ろしくお思いになられるのであった。
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とお言いになったあとで、涙がこぼれるのを、恥ずかしくお思いになって顔をおそむけになった。お肩にゆらゆらとするお髪がきれいで、お目つきの美しいことなど、御成長あそばすにしたがってただただ源氏の顔が一つまたここにできたとより思われないのである。お歯が少し朽ちて黒ばんで見えるお口に笑みをお見せになる美しさは、女の顔にしてみたいほどである。こうまで源氏に似ておいでになることだけが玉の瑕であると、中宮がお思いになるのも、取り返しがたい罪で世間を恐れておいでになるからである。
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tote, namida no oture ba, hadukasi to obosi te, sasuga ni somuki tamahe ru, mi-gusi ha yura-yura to kiyora ni te, mami no natukasi-ge ni nihohi tamahe ru sama, otonabi tamahu mama ni, tada kano ohom-kaho wo nugi-sube tamahe ri. Ohom-ha no sukosi kuti te, kuti no uti kuromi te, wemi tamahe ru kawori utukusiki ha, womna ni te mi tatematura mahosiu kiyora nari. "Ito, kau simo oboye tamahe ru koso, kokoro-ukere." to, tama-no-kizu ni obosa ruru mo, yo no wadurahasisa no, sora-osorosiu oboye tamahu nari keri.
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出典8 |
世に経れば憂さこそまされ |
世にふれば憂さこそまされみ吉野の岩のかけ道踏み慣らしてむ |
古今集雑下-九五一 読人しらず |
3.2.1 |
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Last updated 5/19/2004 渋谷栄一校訂(C)(ver.1-2-3) Last updated 5/19/2001 渋谷栄一注釈(ver.1-1-2) |
Last updated 5/19/2001 渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2) |
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Last updated 8/11/2002 Written in Japanese roman letters by Eiichi Shibuya(C) (ver.1-3-2)
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Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition) |