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| 3 | 橋姫(明融臨模本) | 3 | |
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| 6 | Last updated 3/10/2000
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| 7 | 渋谷栄一校訂(C)(ver.1-2-2) | 7 | |
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| 9 | 橋姫 | 9 | |
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| 11 | 薫君の宰相中将時代二十二歳秋から十月までの物語
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| 13 | [主要登場人物]
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| 15 | 薫<かおる> | 15 | |
| 16 | 呼称---宰相中将・中将・中将の君、源氏の子
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| 17 | 匂宮<におうのみや> | 17 | |
| 18 | 呼称---三の宮・宮、今上帝の第三親王
| 18 | |
| 19 | 八の宮<はちのみや>
| 19 | |
| 20 | 呼称---古宮・宮・親王・俗聖・聖、桐壺帝の第八親王
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| 21 | 大君<おおいきみ>
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| 22 | 呼称---女君・姫君、八の宮の長女
| 22 | |
| 23 | 中君<なかのきみ>
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| 24 | 呼称---若君・君、八の宮の二女
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| 25 | 冷泉院<れいぜいいん>
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| 26 | 呼称---帝・院・院の帝、桐壺帝の第十皇子
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| 27 | 今上帝<きんじょうてい>
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| 28 | 呼称---内裏、朱雀院の皇子
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| 29 | 女三の宮<おんなさんのみや>
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| 30 | 呼称---入道の宮、薫の母宮
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| 31 | 弁の尼君<べんのあまぎみ>
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| 32 | 呼称---弁の君・老い人・古人・古者、柏木の乳母の娘
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| 35 | 第一章 宇治八の宮の物語 隠遁者八の宮
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| 36 | |
| 37 | 八の宮の家系と家族---そのころ、世に数まへられたまはぬ古宮おはしけり | 37 | |
| 38 | 八の宮と娘たちの生活---「あり経るにつけても、いとはしたなく | 38 | |
| 39 | 八の宮の仏道精進の生活---さすがに、広くおもしろき宮の、池、山などの | 39 | |
| 40 | ある春の日の生活---春のうららかなる日影に、池の水鳥どもの | 40 | |
| 41 | 八の宮の半生と宇治へ移住---父帝にも女御にも、疾く後れきこえたまひて | 41 | |
| 42 | | 42 | |
| 43 | 第二章 宇治八の宮の物語 薫、八の宮と親交を結ぶ
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| 44 | |
| 45 | 八の宮、阿闍梨に師事---いとど、山重なれる御住み処に、尋ね参る人なし | 45 | |
| 46 | 冷泉院にて阿闍梨と薫語る---この阿闍梨は、冷泉院にも親しくさびらひて | 46 | |
| 47 | 阿闍梨、八の宮に薫を語る---中将の君、なかなか、親王の思ひ澄ましたまへらむ御心ばへを | 47 | |
| 48 | 薫、八の宮と親交を結ぶ---げに、聞きしよりもあはれに、住まひたまへるさまより | 48 | |
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| 50 | 第三章 薫の物語 八の宮の娘たちを垣間見る
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| 52 | 晩秋に薫、宇治へ赴く---秋の末つ方、四季にあててしたまふ御念仏を | 52 | |
| 53 | 宿直人、薫を招き入れる---しばし聞かまほしきに、忍びたまへど、御けはひしるく | 53 | |
| 54 | 薫、姉妹を垣間見る---あなたに通ふべかめる透垣の戸を、すこし押し開けて | 54 | |
| 55 | 薫、大君と御簾を隔てて対面---かく見えやしぬらむとは思しも寄らで | 55 | |
| 56 | 老女房の弁が応対---たとしへなくさし過ぐして、「あな、かたじけなや | 56 | |
| 57 | 老女房の弁の昔語り---この老い人はうち泣きぬ。「さし過ぎたる罪もやと | 57 | |
| 58 | 薫、大君と和歌を詠み交して帰京---峰の八重雲、思ひやる隔て多く、あはれなるに | 58 | |
| 59 | 薫、宇治へ手紙を書く---老い人の物語、心にかかりて思し出でらる | 59 | |
| 60 | 薫、匂宮に宇治の姉妹を語る---君は、姫君の御返りこと、いとめやすく子めかしきを | 60 | |
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| 62 | 第四章 薫の物語 薫、出生の秘密を知る
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| 64 | 十月初旬、薫宇治へ赴く---十月になりて、五、六日のほどに、宇治へ参うでたまふ | 64 | |
| 65 | 薫、八の宮の娘たちの後見を承引---「このわたりに、おぼえなくて、折々ほのめく | 65 | |
| 66 | 薫、弁の君の昔語りの続きを聞く---さて、暁方の、宮の御行ひしたまふほどに | 66 | |
| 67 | 薫、父柏木の最期を聞く---「空しうなりたまひし騷ぎに、母にはべりし人は | 67 | |
| 68 | 薫、形見の手紙を得る---ささやかにおし巻き合はせたる反故どもの、黴臭きを | 68 | |
| 69 | 薫、父柏木の遺文を読む---帰りたまひて、まづこの袋を見たまへば、唐の浮線綾 | 69 | |
| 70 | | 70 | |
| 71 | | 71 | |
| 72 | 【出典】
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| 73 | 【校訂】
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| 75 | 第一章 宇治八の宮の物語 隠遁者八の宮 | 75 | |
| 76 | [第一段 八の宮の家系と家族]
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| 77 | そのころ、世に数まへられたまはぬ古宮おはしけり。母方なども、やむごとなくものしたまひて、筋異なるべきおぼえなどおはしけるを、時移りて、世の中にはしたなめられたまひける紛れに、なかなかいと名残なく、御後見などももの恨めしき心々にて、かたがたにつけて、世を背き去りつつ、公私に拠り所なく、さし放たれたまへるやうなり。
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| 78 | 北の方も、昔の大臣の御女なりける、あはれに心細く、親たちの思しおきてたりしさまなど思ひ出でたまふに、たとしへなきこと多かれど、古き御契りの二つなきばかりを、憂き世の慰めにて、かたみにまたなく頼み交はしたまへり。
| 78 | |
| 79 | 年ごろ経るに、御子ものしたまはで心もとなかりければ、さうざうしくつれづれる慰めに、「いかで、をかしからむ稚児もがな」と、宮ぞ時々思しのたまひけるに、めづらしく、女君のいとうつくしげなる、生まれたまへり。
| 79 | |
| 80 | これを限りなくあはれと思ひかしづききこえたまふに、さし続きけしきばみたまひて、「このたびは男にても」など思したるに、同じさまにて、平らかにはしたまひながら、いといたくわづらひて亡せたまひぬ。宮、あさましう思し惑ふ。
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| 82 | [第二段 八の宮と娘たちの生活]
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| 83 | 「あり経るにつけても、いとはしたなく、堪へがたきこと多かる世なれど、見捨てがたくあはれなる人の御ありさま、心ざまに、かけとどめらるるほだしにてこそ、過ぐし来つれ、一人とまりて、いとどすさまじくもあるべきかな。いはけなき人びとをも、一人はぐくみ立てむほど、限りある身にて、いとをこがましう、人悪ろかるべきこと」
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| 84 | と思し立ちて、本意も遂げまほしうしたまひけれど、見譲る方なくて残しとどめむを、いみじう思したゆたひつつ、年月も経れば、おのおのおよすけまさりたまふさま、容貌の、うつくしうあらまほしきを、明け暮れの御慰めにて、おのづから見過ぐしたまふ。
| 84 | |
| 85 | 後に生まれたまひし君をば、さぶらふ人びとも、「いでや、折ふし心憂く」など、うちつぶやきつつ、心に入れても扱ひきこえざりけれど、限りのさまにて、何ごとも思し分かざりしほどながら、これをいと心苦しと思ひて、
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| 86 | 「ただ、この君を形見に見たまひて、あはれと思せ」
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| 87 | とばかり、ただ一言なむ、宮に聞こえ置きたまひければ、前の世の契りもつらき折ふしなれど、「さるべきにこそはありけめと、今はと見えしまで、いとあはれと思ひて、うしろめたげにのたまひしを」と、思し出でつつ、この君をしも、いとかなしうしたてまつりたまふ。容貌なむまことにいとうつくしう、ゆゆしきまでものしたまひける。
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| 88 | 姫君は、心ばせ静かによしある方にて、見る目もてなしも、気高く心にくきさまぞしたまへる。いたはしくやむごとなき筋はまさりて、いづれをも、さまざまに思ひかしづききこえたまへど、かなはぬこと多く、年月に添へて、宮の内も寂しくのみなりまさる。
| 88 | |
| 89 | さぶらひし人も、たつきなき心地するに、え忍びあへず、次々に従ひてまかで散りつつ、若君の御乳母も、さる騷ぎに、はかばかしき人をしも、選りあへたまはざりければ、ほどにつけたる心浅さにて、幼きほどを見捨てたてまつりにければ、ただ宮ぞはぐくみたまふ。
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| 90 | | 90 | |
| 91 | [第三段 八の宮の仏道精進の生活]
| 91 | |
| 92 | さすがに、広くおもしろき宮の、池、山などのけしきばかり昔に変はらで、いといたう荒れまさるを、つれづれと眺めたまふ。
| 92 | |
| 93 | 家司なども、むねむねしき人もなきままに、草青やかに繁り、軒のしのぶぞ、所え顔に青みわたれる。折々につけたる花紅葉の、色をも香をも、同じ心に見はやしたまひしにこそ、慰むことも多かりけれ、いとどしく寂しく、寄りつかむ方なきままに、持仏の御飾りばかりを、わざとせさせたまひて、明け暮れ行ひたまふ。
| 93 | |
| 94 | かかるほだしどもにかかづらふだに、思ひの外に口惜しう、「わが心ながらもかなはざりける契り」とおぼゆるを、まいて、「何にか、世の人めいて今さらに」とのみ、年月に添へて、世の中を思し離れつつ、心ばかりは聖になり果てたまひて、故君の亡せたまひにしこなたは、例の人のさまなる心ばへなど、たはぶれにても思し出でたまはざりけり。
| 94 | |
| 95 | 「などか、さしも。別るるほどの悲しびは、また世にたぐひなきやうにのみこそは、おぼゆべかめれど、あり経れば、さのみやは。なほ、世人になずらふ御心づかひをしたまひて、いとかく見苦しく、たつきなき宮の内も、おのづからもてなさるるわざもや」
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| 96 | と、人はもどききこえて、何くれと、つきづきしく聞こえごつことも、類にふれて多かれど、聞こしめし入れざりけり。
| 96 | |
| 97 | 御念誦のひまひまには、この君たちをもてあそび、やうやうおよすけたまへば、琴習はし、碁打ち、偏つきなど、はかなき御遊びわざにつけても、心ばへどもを見たてまつりたまふに、姫君は、らうらうじく、深く重りかに見えたまふ。若君は、おほどかにらうたげなるさまして、ものづつみしたるけはひに、いとうつくしう、さまざまにおはす。
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| 98 | | 98 | |
| 99 | [第四段 ある春の日の生活]
| 99 | |
| 100 | 春のうららかなる日影に、池の水鳥どもの、羽うち交はしつつ、おのがじしさへづる声などを、常は、はかなきことに見たまひしかども、つがひ離れぬをうらやましく眺めたまひて、君たちに、御琴ども教へきこえたまふ。いとをかしげに、小さき御ほどに、とりどり掻き鳴らしたまふ物の音ども、あはれにをかしく聞こゆれば、涙を浮けたまひて、
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| 101 | 「うち捨ててつがひ去りにし水鳥の
| 101 | |
| 102 | 仮のこの世にたちおくれけむ
| 102 | |
| 103 | 心尽くしなりや」
| 103 | |
| 104 | と、目おし拭ひたまふ。容貌いときよげにおはします宮なり。年ごろの御行ひにやせ細りたまひにたれど、さてしも、あてになまめきて、君たちをかしづきたまふ御心ばへに、直衣の萎えばめるを着たまひて、しどけなき御さま、いと恥づかしげなり。
| 104 | |
| 105 | 姫君、御硯をやをらひき寄せて、手習のやうに書き混ぜたまふを、
| 105 | |
| 106 | 「これに書きたまへ。硯には書きつけざなり」
| 106 | |
| 107 | とて、紙たてまつりたまへば、恥ぢらひて書きたまふ。
| 107 | |
| 108 | 「いかでかく巣立ちけるぞと思ふにも
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| 109 | 憂き水鳥の契りをぞ知る」
| 109 | |
| 110 | よからねど、その折は、いとあはれなりけり。手は、生ひ先見えて、まだよくも続けたまはぬほどなり。
| 110 | |
| 111 | 「若君も書きたまへ」
| 111 | |
| 112 | とあれば、今すこし幼げに、久しく書き出でたまへり。
| 112 | |
| 113 | 「泣く泣くも羽うち着する君なくは
| 113 | |
| 114 | われぞ巣守になりは果てまし」
| 114 | |
| 115 | 御衣どもなど萎えばみて、御前にまた人もなく、いと寂しくつれづれげなるに、さまざまいとらうたげにてものしたまふを、あはれに心苦しう、いかが思さざらむ。経を片手に持たまひて、かつ読みつつ唱歌をしたまふ。
| 115 | |
| 116 | 姫君に琵琶、若君に箏の御琴、まだ幼けれど、常に合はせつつ習ひたまへば、聞きにくくもあらで、いとをかしく聞こゆ。
| 116 | |
| 117 | | 117 | |
| 118 | [第五段 八の宮の半生と宇治へ移住]
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| 119 | 父帝にも女御にも、疾く後れきこえたまひて、はかばかしき御後見の、取り立てたるおはせざりければ、才など深くもえ習ひたまはず、まいて、世の中に住みつく御心おきては、いかでかは知りたまはむ。高き人と聞こゆる中にも、あさましうあてにおほどかなる、女のやうにおはすれば、古き世の御宝物、祖父大臣の御処分、何やかやと尽きすまじかりけれど、行方もなくはかなく失せ果てて、御調度などばかりなむ、わざとうるはしくて多かりける。
| 119 | |
| 120 | 参り訪らひきこえ、心寄せたてまつる人もなし。つれづれなるままに、雅楽寮の物の師どもなどやうの、すぐれたるを召し寄せつつ、はかなき遊びに心を入れて、生ひ出でたまへれば、その方は、いとをかしうすぐれたまへり。
| 120 | |
| 121 | 源氏の大殿の御弟におはせしを、冷泉院の春宮におはしましし時、朱雀院の大后の、横様に思し構へて、この宮を、世の中に立ち継ぎたまふべく、わが御時、もてかしづきたてまつりける騷ぎに、あいなく、あなたざまの御仲らひには、さし放たれたまひにければ、いよいよかの御つぎつぎになり果てぬる世にて、え交じらひたまはず。また、この年ごろ、かかる聖になり果てて、今は限りと、よろづを思し捨てたり。
| 121 | |
| 122 | かかるほどに、住みたまふ宮焼けにけり。いとどしき世に、あさましうあへなくて、移ろひ住みたまふべき所の、よろしきもなかりければ、宇治といふ所に、よしある山里持たまへりけるに渡りたまふ。思ひ捨てたまへる世なれども、今はと住み離れなむをあはれに思さる。
| 122 | |
| 123 | 網代のけはひ近く、耳かしかましき川のわたりにて、静かなる思ひにかなはぬ方もあれど、いかがはせむ。花紅葉、水の流れにも、心をやる便によせて、いとどしく眺めたまふより他のことなし。かく絶え籠もりぬる野山の末にも、「昔の人ものしたまはましかば」と、思ひきこえたまはぬ折なかりけり。
| 123 | |
| 124 | 「見し人も宿も煙になりにしを
| 124 | |
| 125 | 何とてわが身消え残りけむ」
| 125 | |
| 126 | 生けるかひなくぞ、思し焦がるるや。
| 126 | |
| 127 | | 127 | |
| 128 | 第二章 宇治八の宮の物語 薫、八の宮と親交を結ぶ | 128 | |
| 129 | [第一段 八の宮、阿闍梨に師事]
| 129 | |
| 130 | いとど、山重なれる御住み処に、尋ね参る人なし。あやしき下衆など、田舎びたる山賤どものみ、まれに馴れ参り仕うまつる。峰の朝霧晴るる折なくて、明かし暮らしたまふに、この宇治山に、聖だちたる阿闍梨住みけり。
| 130 | |
| 131 | 才いとかしこくて、世のおぼえも軽からねど、をさをさ公事にも出で仕へず、籠もりゐたるに、この宮の、かく近きほどに住みたまひて、寂しき御さまに、尊きわざをせさせたまひつつ、法文を読みならひたまへば、尊がりきこえて、常に参る。
| 131 | |
| 132 | 年ごろ学び知りたまへることどもの、深き心を解き聞かせたてまつり、いよいよこの世のいとかりそめに、あぢきなきことを申し知らすれば、
| 132 | |
| 133 | 「心ばかりは蓮の上に思ひのぼり、濁りなき池にも住みぬべきを、いとかく幼き人びとを見捨てむうしろめたさばかりになむ、えひたみちに容貌をも変へぬ」
| 133 | |
| 134 | など、隔てなく物語したまふ。
| 134 | |
| 135 | | 135 | |
| 136 | [第二段 冷泉院にて阿闍梨と薫語る]
| 136 | |
| 137 | この阿闍梨は、冷泉院にも親しくさびらひて、御経など教へきこゆる人なりけり。京に出でたるついでに参りて、例の、さるべき文など御覧じて、問はせたまふこともあるついでに、
| 137 | |
| 138 | 「八の宮の、いとかしこく、内教の御才悟り深くものしたまひけるかな。さるべきにて、生まれたまへる人にやものしたまふらむ。心深く思ひ澄ましたまへるほど、まことの聖のおきてになむ見えたまふ」と聞こゆ。
| 138 | |
| 139 | 「いまだ容貌は変へたまはずや。俗聖とか、この若き人びとの付けたなる、あはれなることなり」などのたまはす。
| 139 | |
| 140 | 宰相中将も、御前にさぶらひたまひて、「われこそ、世の中をばいとすさまじう思ひ知りながら、行ひなど、人に目とどめらるばかりは勤めず、口惜しくて過ぐし来れ」と、人知れず思ひつつ、「俗ながら聖になりたまふ心のおきてやいかに」と、耳とどめて聞きたまふ。
| 140 | |
| 141 | 「出家の心ざしは、もとよりものしたまへるを、はかなきことに思ひとどこほり、今となりては、心苦しき女子どもの御上を、え思ひ捨てぬとなむ、嘆きはべりたうぶ」と奏す。
| 141 | |
| 142 | さすがに、物の音めづる阿闍梨にて、
| 142 | |
| 143 | 「げに、はた、この姫君たちの、琴弾き合はせて遊びたまへる、川波にきほひて聞こえはべるは、いとおもしろく、極楽思ひやられはべるや」
| 143 | |
| 144 | と、古体にめづれば、帝ほほ笑みたまひて、
| 144 | |
| 145 | 「さる聖のあたりに生ひ出でて、この世の方ざまは、たどたどしからむと推し量らるるを、をかしのことや。うしろめたく、思ひ捨てがたく、もてわづらひたまふらむを、もし、しばしも後れむほどは、譲りやはしたまはぬ」
| 145 | |
| 146 | などぞのたまはする。この院の帝は、十の御子にぞおはしましける。朱雀院の、故六条院に預けきこえたまひし、入道宮の御例を思ほし出でて、「かの君たちをがな。つれづれなる遊びがたきに」などうち思しけり。
| 146 | |
| 147 | | 147 | |
| 148 | [第三段 阿闍梨、八の宮に薫を語る]
| 148 | |
| 149 | 中将の君、なかなか、親王の思ひ澄ましたまへらむ御心ばへを、「対面して、見たてまつらばや」と思ふ心ぞ深くなりぬる。さて阿闍梨の帰り入るにも、
| 149 | |
| 150 | 「かならず参りて、もの習ひきこゆべく、まづうちうちにも、けしき賜はりたまへ」
| 150 | |
| 151 | など語らひたまふ。
| 151 | |
| 152 | 帝の、御言伝にて、「あはれなる御住まひを、人伝てに聞くこと」など聞こえたまうて、
| 152 | |
| 153 | 「世を厭ふ心は山にかよへども
| 153 | |
| 154 | 八重立つ雲を君や隔つる」
| 154 | |
| 155 | 阿闍梨、この御使を先に立てて、かの宮に参りぬ。なのめなる際の、さるべき人の使だにまれなる山蔭に、いとめづらしく、待ちよろこびたまうて、所につけたる肴などして、さる方にもてはやしたまふ。御返し、
| 155 | |
| 156 | 「あと絶えて心澄むとはなけれども
| 156 | |
| 157 | 世を宇治山に宿をこそ借れ」
| 157 | |
| 158 | 聖の方をば卑下して聞こえなしたまへれば、「なほ、世に恨み残りける」と、いとほしく御覧ず。
| 158 | |
| 159 | 阿闍梨、中将の、道心深げにものしたまふなど、語りきこえて、
| 159 | |
| 160 | 「法文などの心得まほしき心ざしなむ、いはけなかりし齢より深く思ひながら、えさらず世にあり経るほど、公私に暇なく明け暮らし、わざととぢ籠もりて習ひ読み、おほかたはかばかしくもあらぬ身にしも、世の中を背き顔ならむも、憚るべきにあらねど、おのづからうちたゆみ、紛らはしくてなむ過ぐし来るを、いとありがたき御ありさまを承り伝へしより、かく心にかけてなむ、頼みきこえさする、など、ねむごろに申したまひし」など語りきこゆ。
| 160 | |
| 161 | 宮、
| 161 | |
| 162 | 「世の中をかりそめのことと思ひ取り、厭はしき心のつきそむることも、わが身に愁へある時、なべての世も恨めしう思ひ知る初めありてなむ、道心も起こるわざなめるを、年若く、世の中思ふにかなひ、何ごとも飽かぬことはあらじとおぼゆる身のほどに、さはた、後の世をさへ、たどり知りたまふらむがありがたさ。
| 162 | |
| 163 | ここには、さべきにや、ただ厭ひ離れよと、ことさらに仏などの勧めおもむけたまふやうなるありさまにて、おのづからこそ、静かなる思ひかなひゆけど、残り少なき心地するに、はかばかしくもあらで、過ぎぬべかめるを、来し方行く末、さらに得たるところなく思ひ知らるるを、かへりては、心恥づかしげなる法の友にこそは、ものしたまふなれ」
| 163 | |
| 164 | などのたまひて、かたみに御消息通ひ、みづからも参うでたまふ。
| 164 | |
| 165 | | 165 | |
| 166 | [第四段 薫、八の宮と親交を結ぶ]
| 166 | |
| 167 | げに、聞きしよりもあはれに、住まひたまへるさまよりはじめて、いと仮なる草の庵に、思ひなし、ことそぎたり。同じき山里といへど、さる方にて心とまりぬべく、のどやかなるもあるを、いと荒ましき水の音、波の響きに、もの忘れうちし、夜など、心解けて夢をだに見るべきほどもなげに、すごく吹き払ひたり。
| 167 | |
| 168 | 「聖だちたる御ために、かかるしもこそ、心とまらぬもよほしならめ、女君たち、何心地して過ぐしたまふらむ。世の常の女しくなよびたる方は、遠くや」と推し量らるる御ありさまなり。
| 168 | |
| 169 | 仏の御隔てに、障子ばかりを隔ててぞおはすべかめる。好き心あらむ人は、けしきばみ寄りて、人の御心ばへをも見まほしう、さすがにいかがと、ゆかしうもある御けはひなり。
| 169 | |
| 170 | されど、「さる方を思ひ離るる願ひに、山深く尋ねきこえたる本意なく、好き好きしきなほざりごとをうち出であざればまむも、ことに違ひてや」など思ひ返して、宮の御ありさまのいとあはれなるを、ねむごろにとぶらひきこえたまひ、たびたび参りたまひつつ、思ひしやうに、優婆塞ながら行ふ山の深き心、法文など、わざとさかしげにはあらで、いとよくのたまひ知らす。
| 170 | |
| 171 | 聖だつ人、才ある法師などは、世に多かれど、あまりこはごはしう、気遠げなる宿徳の僧都、僧正の際は、世に暇なくきすくにて、ものの心を問ひあらはさむも、ことことしくおぼえたまふ。
| 171 | |
| 172 | また、その人ならぬ仏の御弟子の、忌むことを保つばかりの尊さはあれど、けはひ卑しく言葉たみて、こちなげにもの馴れたる、いとものしくて、昼は、公事に暇なくなどしつつ、しめやかなる宵のほど、気近き御枕上などに召し入れ語らひたまふにも、いとさすがにものむつかしうなどのみあるを、いとあてに、心苦しきさまして、のたまひ出づる言の葉も、同じ仏の御教へをも、耳近きたとひにひきまぜ、いとこよなく深き御悟りにはあらねど、よき人は、ものの心を得たまふ方の、いとことにものしたまひければ、やうやう見馴れたてまつりたまふたびごとに、常に見たてまつらまほしうて、暇なくなどしてほど経る時は、恋しくおぼえたまふ。
| 172 | |
| 173 | この君の、かく尊がりきこえたまへれば、冷泉院よりも、常に御消息などありて、年ごろ、音にもをさをさ聞こえたまはず、寂しげなりし御住み処、やうやう人目見る時々あり。折ふしに、訪らひきこえたまふこと、いかめしう、この君も、まづさるべきことにつけつつ、をかしきやうにも、まめやかなるさまにも、心寄せ仕うまつりたまふこと、三年ばかりになりぬ。
| 173 | |
| 174 | | 174 | |
| 175 | 第三章 薫の物語 八の宮の娘たちを垣間見る | 175 | |
| 176 | [第一段 晩秋に薫、宇治へ赴く]
| 176 | |
| 177 | 秋の末つ方、四季にあててしたまふ御念仏を、この川面は、網代の波も、このころはいとど耳かしかましく静かならぬを、とて、かの阿闍梨の住む寺の堂に移ろひたまひて、七日のほど行ひたまふ。姫君たちは、いと心細く、つれづれまさりて眺めたまひけるころ、中将の君、久しく参らぬかなと、思ひ出できこえたまひけるままに、有明の月の、まだ夜深くさし出づるほどに出で立ちて、いと忍びて、御供に人などもなくて、やつれておはしけり。
| 177 | |
| 178 | 川のこなたなれば、舟などもわづらはで、御馬にてなりけり。入りもてゆくままに、霧りふたがりて、道も見えぬ繁木の中を分けたまふに、いと荒ましき風のきほひに、ほろほろと落ち乱るる木の葉の露の散りかかるも、いと冷やかに、人やりならずいたく濡れたまひぬ。かかるありきなども、をさをさならひたまはぬ心地に、心細くをかしく思されけり。
| 178 | |
| 179 | 「山おろしに耐へぬ木の葉の露よりも
| 179 | |
| 180 | あやなくもろきわが涙かな」
| 180 | |
| 181 | 山賤のおどろくもうるさしとて、随身の音もせさせたまはず。柴の籬を分けて、そこはかとなき水の流れどもを踏みしだく駒の足音も、なほ、忍びてと用意したまへるに、隠れなき御匂ひぞ、風に従ひて、主知らぬ香とおどろく寝覚めの家々ありける。
| 181 | |
| 182 | 近くなるほどに、その琴とも聞き分かれぬ物の音ども、いとすごげに聞こゆ。「常にかく遊びたまふと聞くを、ついでなくて、宮の御琴の音の名高きも、え聞かぬぞかし。よき折なるべし」と思ひつつ入りたまへば、琵琶の声の響きなりけり。「黄鐘調」に調べて、世の常の掻き合はせなれど、所からにや、耳馴れぬ心地して、掻き返す撥の音も、ものきよげにおもしろし。箏の琴、あはれになまめいたる声して、たえだえ聞こゆ。
| 182 | |
| 183 | | 183 | |
| 184 | [第二段 宿直人、薫を招き入れる]
| 184 | |
| 185 | しばし聞かまほしきに、忍びたまへど、御けはひしるく聞きつけて、宿直人めく男、なまかたくなしき、出で来たり。
| 185 | |
| 186 | 「しかしかなむ籠もりおはします。御消息をこそ聞こえさせめ」と申す。
| 186 | |
| 187 | 「何か。しか限りある御行ひのほどを、紛らはしきこえさせむにあいなし。かく濡れ濡れ参りて、いたづらに帰らむ愁へを、姫君の御方に聞こえて、あはれとのたまはせばなむ、慰むべき」
| 187 | |
| 188 | とのたまへば、醜き顔うち笑みて、
| 188 | |
| 189 | 「申させはべらむ」とて立つを、
| 189 | |
| 190 | 「しばしや」と召し寄せて、
| 190 | |
| 191 | 「年ごろ、人伝てにのみ聞きて、ゆかしく思ふ御琴の音どもを、うれしき折かな。しばし、すこしたち隠れて聞くべきものの隈ありや。つきなくさし過ぎて参り寄らむほど、皆琴やめたまひては、いと本意なからむ」
| 191 | |
| 192 | とのたまふ。御けはひ、顔容貌の、さるなほなほしき心地にも、いとめでたくかたじけなくおぼゆれば、
| 192 | |
| 193 | 「人聞かぬ時は、明け暮れかくなむ遊ばせど、下人にても、都の方より参り、立ちまじる人はべる時は、音もせさせたまはず。おほかた、かくて女たちおはしますことをば隠させたまひ、なべての人に知らせたてまつらじと、思しのたまはするなり」
| 193 | |
| 194 | と申せば、うち笑ひて、
| 194 | |
| 195 | 「あぢきなき御もの隠しなり。しか忍びたまふなれど、皆人、ありがたき世の例に、聞き出づべかめるを」とのたまひて、「なほ、しるべせよ。われは、好き好きしき心など、なき人ぞ。かくておはしますらむ御ありさまの、あやしく、げに、なべてにおぼえたまはぬなり」
| 195 | |
| 196 | とこまやかにのたまへば、
| 196 | |
| 197 | 「あな、かしこ。心なきやうに、後の聞こえやはべらむ」
| 197 | |
| 198 | とて、あなたの御前は、竹の透垣しこめて、皆隔てことなるを、教へ寄せたてまつれり。御供の人は、西の廊に呼び据ゑて、この宿直人あひしらふ。
| 198 | |
| 199 | | 199 | |
| 200 | [第三段 薫、姉妹を垣間見る]
| 200 | |
| 201 | あなたに通ふべかめる透垣の戸を、すこし押し開けて見たまへば、月をかしきほどに霧りわたれるを眺めて、簾を短く巻き上げて、人びとゐたり。簀子に、いと寒げに、身細く萎えばめる童女一人、同じさまなる大人などゐたり。内なる人一人、柱に少しゐ隠れて、琵琶を前に置きて、撥を手まさぐりにしつつゐたるに、雲隠れたりつる月の、にはかにいと明くさし出でたれば、
| 201 | |
| 202 | 「扇ならで、これしても、月は招きつべかりけり」
| 202 | |
| 203 | とて、さしのぞきたる顔、いみじくらうたげに匂ひやかなるべし。
| 203 | |
| 204 | 添ひ臥したる人は、琴の上に傾きかかりて、
| 204 | |
| 205 | 「入る日を返す撥こそありけれ、さま異にも思ひ及びたまふ御心かな」
| 205 | |
| 206 | とて、うち笑ひたるけはひ、今少し重りかによしづきたり。
| 206 | |
| 207 | 「及ばずとも、これも月に離るるものかは」
| 207 | |
| 208 | など、はかなきことを、うち解けのたまひ交はしたるけはひども、さらによそに思ひやりしには似ず、いとあはれになつかしうをかし。
| 208 | |
| 209 | 「昔物語などに語り伝へて、若き女房などの読むをも聞くに、かならずかやうのことを言ひたる、さしもあらざりけむ」と、憎く推し量らるるを、「げに、あはれなるものの隈ありぬべき世なりけり」と、心移りぬべし。
| 209 | |
| 210 | 霧の深ければ、さやかに見ゆべくもあらず。また、月さし出でなむと思すほどに、奥の方より、「人おはす」と告げきこゆる人やあらむ、簾下ろして皆入りぬ。おどろき顔にはあらず、なごやかにもてなして、やをら隠れぬるけはひども、衣の音もせず、いとなよよかに心苦しくて、いみじうあてにみやびかなるを、あはれと思ひたまふ。
| 210 | |
| 211 | やをら出でて、京に、御車率て参るべく、人走らせつ。ありつる侍に、
| 211 | |
| 212 | 「折悪しく参りはべりにけれど、なかなかうれしく、思ふことすこし慰めてなむ。かくさぶらふよし聞こえよ。いたう濡れにたるかことも聞こえさせむかし」
| 212 | |
| 213 | とのたまへば、参りて聞こゆ。
| 213 | |
| 214 | | 214 | |
| 215 | [第四段 薫、大君と御簾を隔てて対面]
| 215 | |
| 216 | かく見えやしぬらむとは思しも寄らで、うちとけたりつることどもを、聞きやしたまひつらむと、いといみじく恥づかし。あやしく、香うばしく匂ふ風の吹きつるを、思ひかけぬほどなれば、「驚かざりける心おそさよ」と、心も惑ひて、恥ぢおはさうず。
| 216 | |
| 217 | 御消息など伝ふる人も、いとうひうひしき人なめるを、「折からにこそ、よろづのことも」と思いて、まだ霧の紛れなれば、ありつる御簾の前に歩み出でて、ついゐたまふ。
| 217 | |
| 218 | 山里びたる若人どもは、さしいらへむ言の葉もおぼえで、御茵さし出づるさまも、たどたどしげなり。
| 218 | |
| 219 | 「この御簾の前には、はしたなくはべりけり。うちつけに浅き心ばかりにては、かくも尋ね参るまじき山のかけ路に思うたまふるを、さま異にこそ。かく露けき度を重ねては、さりとも、御覧じ知るらむとなむ、頼もしうはべる」
| 219 | |
| 220 | と、いとまめやかにのたまふ。
| 220 | |
| 221 | 若き人びとの、なだらかにもの聞こゆべきもなく、消え返りかかやかしげなるも、かたはらいたければ、女ばらの奥深きを起こし出づるほど、久しくなりて、わざとめいたるも苦しうて、
| 221 | |
| 222 | 「何ごとも思ひ知らぬありさまにて、知り顔にも、いかばかりかは、聞こゆべく」
| 222 | |
| 223 | と、いとよしあり、あてなる声して、ひき入りながらほのかにのたまふ。
| 223 | |
| 224 | 「かつ知りながら、憂きを知らず顔なるも、世のさがと思うたまへ知るを、一所しも、あまりおぼめかせたまふらむこそ、口惜しかるべけれ。ありがたう、よろづを思ひ澄ましたる御住まひなどに、たぐひきこえさせたまふ御心のうちは、何ごとも涼しく推し量られはべれば、なほ、かく忍びあまりはべる深さ浅さのほども、分かせたまはむこそ、かひははべらめ。
| 224 | |
| 225 | 世の常の好き好きしき筋には、思しめし放つべくや。さやうの方は、わざと勧むる人はべりとも、なびくべうもあらぬ心強さになむ。
| 225 | |
| 226 | おのづから聞こしめし合はするやうもはべりなむ。つれづれとのみ過ぐしはべる世の物語も、聞こえさせ所に頼みきこえさせ、またかく、世離れて、眺めさせたまふらむ御心の紛らはしには、さしも、驚かせたまふばかり聞こえ馴れはべらば、いかに思ふさまにはべらむ」
| 226 | |
| 227 | など、多くのたまへば、つつましく、いらへにくくて、起こしつる老い人の出で来たるにぞ、譲りたまふ。
| 227 | |
| 228 | | 228 | |
| 229 | [第五段 老女房の弁が応対]
| 229 | |
| 230 | たとしへなくさし過ぐして、
| 230 | |
| 231 | 「あな、かたじけなや。かたはらいたき御座のさまにもはべるかな。御簾の内にこそ。若き人びとは、物のほど知らぬやうにはべるこそ」
| 231 | |
| 232 | など、したたかに言ふ声のさだすぎたるも、かたはらいたく君たちは思す。
| 232 | |
| 233 | 「いともあやしく、世の中に住まひたまふ人の数にもあらぬ御ありさまにて、さもありぬべき人びとだに、訪らひ数まへきこえたまふも、見え聞こえずのみなりまさりはべるめるに、ありがたき御心ざしのほどは、数にもはべらぬ心にも、あさましきまで思ひたまへはべるを、若き御心地にも思し知りながら、聞こえさせたまひにくきにやはべらむ」
| 233 | |
| 234 | と、いとつつみなくもの馴れたるも、なま憎きものから、けはひいたう人めきて、よしある声なれば、
| 234 | |
| 235 | 「いとたづきも知らぬ心地しつるに、うれしき御けはひにこそ。何ごとも、げに、思ひ知りたまひける頼み、こよなかりけり」
| 235 | |
| 236 | とて、寄り居たまへるを、几帳の側より見れば、曙、やうやう物の色分かるるに、げに、やつしたまへると見ゆる狩衣姿の、いと濡れしめりたるほど、「うたて、この世の外の匂ひにや」と、あやしきまで薫り満ちたり。
| 236 | |
| 237 | | 237 | |
| 238 | [第六段 老女房の弁の昔語り]
| 238 | |
| 239 | この老い人はうち泣きぬ。
| 239 | |
| 240 | 「さし過ぎたる罪もやと、思うたまへ忍ぶれど、あはれなる昔の御物語の、いかならむついでにうち出で聞こえさせ、片端をも、ほのめかし知ろしめさせむと、年ごろ念誦のついでにも、うち交ぜ思うたまへわたるしるしにや、うれしき折にはべるを、まだきにおぼほれはべる涙にくれて、えこそ聞こえさせずはべりけれ」
| 240 | |
| 241 | と、うちわななくけしき、まことにいみじくもの悲しと思へり。
| 241 | |
| 242 | おほかた、さだ過ぎたる人は、涙もろなるものとは見聞きたまへど、いとかうしも思へるも、あやしうなりたまひて、
| 242 | |
| 243 | 「ここに、かく参るをば、たび重なりぬるを、かくあはれ知りたまへる人もなくてこそ、露けき道のほどに、独りのみそほちつれ。うれしきついでなめるを、言な残いたまひそかし」とのたまへば、
| 243 | |
| 244 | 「かかるついでしも、はべらじかし。また、はべりとも、夜の間のほど知らぬ命の、頼むべきにもはべらぬを。さらば、ただ、かかる古者、世にはべりけりとばかり、知ろしめされはべらなむ。
| 244 | |
| 245 | 三条の宮にはべりし小侍従、はかなくなりはべりにけると、ほの聞きはべりし。そのかみ、睦ましう思うたまへし同じほどの人、多く亡せはべりにける世の末に、はるかなる世界より伝はりまうで来て、この五、六年のほどなむ、これにかくさぶらひはべる。
| 245 | |
| 246 | 知ろしめさじかし。このころ、藤大納言と申すなる御兄の、右衛門の督にて隠れたまひにしは、物のついでなどにや、かの御上とて、聞こしめし伝ふることもはべらむ。
| 246 | |
| 247 | 過ぎたまひて、いくばくも隔たらぬ心地のみしはべる。その折の悲しさも、まだ袖の乾く折はべらず思うたまへらるるを、かくおとなしくならせたまひにける御齢のほども、夢のやうになむ。
| 247 | |
| 248 | かの権大納言の御乳母にはべりしは、弁が母になむはべりし。朝夕に仕うまつり馴れはべりしに、人数にもはべらぬ身なれど、人に知らせず、御心よりはた余りけることを、折々うちかすめのたまひしを、今は限りになりたまひにし御病の末つ方に、召し寄せて、いささかのたまひ置くことなむはべりしを、聞こしめすべきゆゑなむ、一事はべれど、かばかり聞こえ出ではべるに、残りをと思しめす御心はべらば、のどかになむ、聞こしめし果てはべるべき。若き人びとも、かたはらいたく、さし過ぎたりと、つきじろひはべるも、ことわりになむ」
| 248 | |
| 249 | とて、さすがにうち出でずなりぬ。
| 249 | |
| 250 | あやしく、夢語り、巫女やうのものの、問はず語りすらむやうに、めづらかに思さるれど、あはれにおぼつかなく思しわたることの筋を聞こゆれば、いと奥ゆかしけれど、げに、人目もしげし、さしぐみに古物語にかかづらひて、夜を明かし果てむも、こちごちしかるべければ、
| 250 | |
| 251 | 「そこはかと思ひ分くことは、なきものから、いにしへのことと聞きはべるも、ものあはれになむ。さらば、かならずこの残り聞かせたまへ。霧晴れゆかば、はしたなかるべきやつれを、面なく御覧じとがめられぬべきさまなれば、思うたまふる心のほどよりは、口惜しうなむ」
| 251 | |
| 252 | とて、立ちたまふに、かのおはします寺の鐘の声、かすかに聞こえて、霧いと深くたちわたれり。
| 252 | |
| 253 | | 253 | |
| 254 | [第七段 薫、大君と和歌を詠み交して帰京]
| 254 | |
| 255 | 峰の八重雲、思ひやる隔て多く、あはれなるに、なほ、この姫君たちの御心のうちども心苦しう、「何ごとを思し残すらむ。かく、いと奥まりたまへるも、ことわりぞかし」などおぼゆ。
| 255 | |
| 256 | 「あさぼらけ家路も見えず尋ね来し
| 256 | |
| 257 | 槙の尾山は霧こめてけり
| 257 | |
| 258 | 心細くもはべるかな」
| 258 | |
| 259 | と、立ち返りやすらひたまへるさまを、都の人の目馴れたるだに、なほ、いとことに思ひきこえたるを、まいて、いかがはめづらしう見きこえざらむ。御返り聞こえ伝へにくげに思ひたれば、例の、いとつつましげにて、
| 259 | |
| 260 | 「雲のゐる峰のかけ路を秋霧の
| 260 | |
| 261 | いとど隔つるころにもあるかな」
| 261 | |
| 262 | すこしうち嘆いたまへるけしき、浅からずあはれなり。
| 262 | |
| 263 | 何ばかりをかしきふしは見えぬあたりなれど、げに、心苦しきこと多かるにも、明うなりゆけば、さすがにひた面なる心地して、
| 263 | |
| 264 | 「なかなかなるほどに、承りさしつること多かる残りは、今すこし面馴れてこそは、恨みきこえさすべかめれ。さるは、かく世の人めいて、もてなしたまふべくは、思はずに、もの思し分かざりけりと、恨めしうなむ」
| 264 | |
| 265 | とて、宿直人がしつらひたる西面におはして、眺めたまふ。
| 265 | |
| 266 | 「網代は、人騒がしげなり。されど、氷魚も寄らぬにやあらむ。すさまじげなるけしきなり」
| 266 | |
| 267 | と、御供の人びと見知りて言ふ。
| 267 | |
| 268 | 「あやしき舟どもに、柴刈り積み、おのおの何となき世の営みどもに、行き交ふさまどもの、はかなき水の上に浮かびたる、誰も思へば同じことなる、世の常なさなり。われは浮かばず、玉の台に静けき身と、思ふべき世かは」と思ひ続けらる。
| 268 | |
| 269 | 硯召して、あなたに聞こえたまふ。
| 269 | |
c1 | 270 | 「<A HREF="#no12">橋姫の心</A><A NAME="te12">を</A><汲みて高瀬さす<BR> | 270 | 「<A HREF="#no12">橋姫の心</A><A NAME="te12">を</A>汲みて高瀬さす<BR> |
| 271 | 棹のしづくに袖ぞ濡れぬる
| 271 | |
| 272 | 眺めたまふらむかし」
| 272 | |
| 273 | とて、宿直人に持たせたまへり。いと寒げに、いららぎたる顔して持て参る。御返り、紙の香など、おぼろけならむ恥づかしげなるを、疾きをこそかかる折には、とて、
| 273 | |
| 274 | 「さしかへる宇治の河長朝夕の
| 274 | |
| 275 | しづくや袖を朽たし果つらむ
| 275 | |
| 276 | 身さへ浮きて」
| 276 | |
| 277 | と、いとをかしげに書きたまへり。「まほにめやすくもものしたまひけり」と、心とまりぬれど、
| 277 | |
| 278 | 「御車率て参りぬ」
| 278 | |
| 279 | と、人びと騒がしきこゆれば、宿直人ばかりを召し寄せて、
| 279 | |
| 280 | 「帰りわたらせたまはむほどに、かならず参るべし」
| 280 | |
| 281 | などのたまふ。濡れたる御衣どもは、皆この人に脱ぎかけたまひて、取りに遣はしつる御直衣にたてまつりかへつ。
| 281 | |
| 282 | | 282 | |
| 283 | [第八段 薫、宇治へ手紙を書く]
| 283 | |
| 284 | 老い人の物語、心にかかりて思し出でらる。思ひしよりは、こよなくまさりて、をかしかりつる御けはひども、面影に添ひて、「なほ、思ひ離れがたき世なりけり」と、心弱く思ひ知らる。
| 284 | |
| 285 | 御文たてまつりたまふ。懸想だちてもあらず、白き色紙の厚肥えたるに、筆ひきつくろひ選りて、墨つき見所ありて書きたまふ。
| 285 | |
| 286 | 「うちつけなるさまにやと、あいなくとどめはべりて、残り多かるも苦しきわざになむ。片端聞こえおきつるやうに、今よりは、御簾の前も、心やすく思し許すべくなむ。御山籠もり果てはべらむ日数も承りおきて、いぶせかりし霧の迷ひも、はるけはべらむ」
| 286 | |
| 287 | などぞ、いとすくよかに書きたまへる。左近将監なる人、御使にて、
| 287 | |
| 288 | 「かの老い人訪ねて、文も取らせよ」
| 288 | |
| 289 | とのたまふ。宿直人が寒げにてさまよひしなど、あはれに思しやりて、大きなる桧破籠やうのもの、あまたせさせたまふ。
| 289 | |
| 290 | またの日、かの御寺にもたてまつりたまふ。「山籠もりの僧ども、このころの嵐には、いと心細く苦しからむを、さておはしますほどの布施、賜ふべからむ」と思しやりて、絹、綿など多かりけり。
| 290 | |
| 291 | 御行ひ果てて、出でたまふ朝なりければ、行ひ人どもに、綿、絹、袈裟、衣など、すべて一領のほどづつ、ある限りの大徳たちに賜ふ。
| 291 | |
| 292 | 宿直人が、御脱ぎ捨ての、艶にいみじき狩の御衣ども、えならぬ白き綾の御衣の、なよなよといひ知らず匂へるを、移し着て、身をはた、え変へぬものなれば、似つかはしからぬ袖の香を、人ごとにとがめられ、めでらるるなむ、なかなか所狭かりける。
| 292 | |
| 293 | 心にまかせて、身をやすくも振る舞はれず、いとむくつけきまで、人のおどろく匂ひを、失ひてばやと思へど、所狭き人の御移り香にて、えもすすぎ捨てぬぞ、あまりなるや。
| 293 | |
| 294 | | 294 | |
| 295 | [第九段 薫、匂宮に宇治の姉妹を語る]
| 295 | |
| 296 | 君は、姫君の御返りこと、いとめやすく子めかしきを、をかしく見たまふ。宮にも、「かく御消息ありき」など、人びと聞こえさせ、御覧ぜさすれば、
| 296 | |
| 297 | 「何かは。懸想だちてもてないたまはむも、なかなかうたてあらむ。例の若人に似ぬ御心ばへなめるを、亡からむ後もなど、一言うちほのめかしてしかば、さやうにて、心ぞとめたらむ」
| 297 | |
| 298 | などのたまうけり。御みづからも、さまざまの御とぶらひの、山の岩屋にあまりしことなどのたまへるに、参うでむと思して、「三の宮の、かやうに奥まりたらむあたりの、見まさりせむこそ、をかしかるべけれと、あらましごとにだにのたまふものを、聞こえはげまして、御心騒がしたてまつらむ」と思して、のどやかなる夕暮に参りたまへり。
| 298 | |
| 299 | 例の、さまざまなる御物語、聞こえ交はしたまふついでに、宇治の宮の御こと語り出でて、見し暁のありさまなど、詳しく聞こえたまふに、宮、いと切にをかしと思いたり。
| 299 | |
| 300 | さればよと、御けしきを見て、いとど御心動きぬべく言ひ続けたまふ。
| 300 | |
| 301 | 「さて、そのありけむ返りことは、などか見せたまはざりし。まろならましかば」と恨みたまふ。
| 301 | |
| 302 | 「さかし。いとさまざま御覧ずべかめる端をだに、見せさせたまはぬ。かのわたりは、かくいとも埋れたる身に、ひき籠めてやむべきけはひにもはべらねば、かならず御覧ぜさせばや、と思ひたまふれど、いかでか尋ね寄らせたまふべき。かやすきほどこそ、好かまほしくは、いとよく好きぬべき世にはべりけれ。うち隠ろへつつ多かめるかな。
| 302 | |
| 303 | さるかたに見所ありぬべき女の、もの思はしき、うち忍びたる住み処ども、山里めいたる隈などに、おのづからはべべかめり。この聞こえさするわたりは、いと世づかぬ聖ざまにて、こちごちしうぞあらむ、年ごろ、思ひあなづりはべりて、耳をだにこそ、とどめはべらざりけれ。
| 303 | |
| 304 | ほのかなりし月影の見劣りせずは、まほならむはや。けはひありさま、はた、さばかりならむをぞ、あらまほしきほどとは、おぼえはべるべき」
| 304 | |
| 305 | など聞こえたまふ。
| 305 | |
| 306 | 果て果ては、まめだちていとねたく、「おぼろけの人に心移るまじき人の、かく深く思へるを、おろかならじ」と、ゆかしう思すこと、限りなくなりたまひぬ。
| 306 | |
| 307 | 「なほ、またまた、よくけしき見たまへ」
| 307 | |
| 308 | と、人を勧めたまひて、限りある御身のほどのよだけさを、厭はしきまで、心もとなしと思したれば、をかしくて、
| 308 | |
| 309 | 「いでや、よしなくぞはべる。しばし、世の中に心とどめじと思うたまふるやうある身にて、なほざりごともつつましうはべるを、心ながらかなはぬ心つきそめなば、おほきに思ひに違ふべきことなむ、はべるべき」
| 309 | |
| 310 | と聞こえたまへば、
| 310 | |
| 311 | 「いで、あな、ことことし。例の、おどろおどろしき聖言葉、見果ててしがな」
| 311 | |
| 312 | とて笑ひたまふ。心のうちには、かの古人のほのめかしし筋などの、いとどうちおどろかれて、ものあはれなるに、をかしと見ることも、めやすしと聞くあたりも、何ばかり心にもとまらざりけり。
| 312 | |
| 313 | | 313 | |
| 314 | 第四章 薫の物語 薫、出生の秘密を知る | 314 | |
| 315 | [第一段 十月初旬、薫宇治へ赴く]
| 315 | |
| 316 | 十月になりて、五、六日のほどに、宇治へ参うでたまふ。
| 316 | |
| 317 | 「網代をこそ、このころは御覧ぜめ」と、聞こゆる人びとあれど、
| 317 | |
| 318 | 「何か、その蜉蝣に争ふ心にて、網代にも寄らむ」
| 318 | |
| 319 | と、そぎ捨てたまひて、例の、いと忍びやかにて出で立ちたまふ。軽らかに網代車にて、かとりの直衣指貫縫はせて、ことさらび着たまへり。
| 319 | |
| 320 | 宮、待ち喜びたまひて、所につけたる御饗応など、をかしうしなしたまふ。暮れぬれば、大殿油近くて、さきざき見さしたまへる文どもの深きなど、阿闍梨も請じおろして、義など言はせたまふ。
| 320 | |
| 321 | うちもまどろまず、川風のいと荒らましきに、木の葉の散りかふ音、水の響きなど、あはれも過ぎて、もの恐ろしく心細き所のさまなり。
| 321 | |
| 322 | 明け方近くなりぬらむと思ふほどに、ありししののめ思ひ出でられて、琴の音のあはれなることのついで作り出でて、
| 322 | |
| 323 | 「さきのたびの、霧に惑はされはべりし曙に、いとめづらしき物の音、一声承りし残りなむ、なかなかにいといぶかしう、飽かず思うたまへらるる」など聞こえたまふ。
| 323 | |
| 324 | 「色をも香をも思ひ捨ててし後、昔聞きしことも皆忘れてなむ」
| 324 | |
| 325 | とのたまへど、人召して、琴取り寄せて、
| 325 | |
| 326 | 「いとつきなくなりにたりや。しるべする物の音につけてなむ、思ひ出でらるべかりける」
| 326 | |
| 327 | とて、琵琶召して、客人にそそのかしたまふ。取りて調べたまふ。
| 327 | |
| 328 | 「さらに、ほのかに聞きはべりし同じものとも思うたまへられざりけり。御琴の響きからにやとこそ、思うたまへしか」
| 328 | |
| 329 | とて、心解けても掻きたてたまはず。
| 329 | |
| 330 | 「いで、あな、さがなや。しか御耳とまるばかりの手などは、何処よりかここまでは伝はり来む。あるまじき御ことなり」
| 330 | |
| 331 | とて、琴掻きならしたまへる、いとあはれに心すごし。かたへは、峰の松風のもてはやすなるべし。いとたどたどしげにおぼめきたまひて、心ばへあり。手一つばかりにてやめたまひつ。
| 331 | |
| 332 | | 332 | |
| 333 | [第二段 薫、八の宮の娘たちの後見を承引]
| 333 | |
| 334 | 「このわたりに、おぼえなくて、折々ほのめく箏の琴の音こそ、心得たるにや、と聞く折はべれど、心とどめてなどもあらで、久しうなりにけりや。心にまかせて、おのおの掻きならすべかめるは、川波ばかりや、打ち合はすらむ。論なう、物の用にすばかりの拍子なども、とまらじとなむ、おぼえはべる」とて、「掻き鳴らしたまへ」
| 334 | |
| 335 | と、あなたに聞こえたまへど、「思ひ寄らざりし独り言を、聞きたまひけむだにあるものを、いとかたはならむ」とひき入りつつ、皆聞きたまはず。たびたびそそのかしたまへど、とかく聞こえすさびて、やみたまひぬめれば、いと口惜しうおぼゆ。
| 335 | |
| 336 | そのついでにも、かくあやしう、世づかぬ思ひやりにて過ぐすありさまどもの、思ひのほかなることなど、恥づかしう思いたり。
| 336 | |
| 337 | 「人にだにいかで知らせじと、はぐくみ過ぐせど、今日明日とも知らぬ身の残り少なさに、さすがに、行く末遠き人は、落ちあふれてさすらへむこと、これのみこそ、げに、世を離れむ際のほだしなりけれ」
| 337 | |
| 338 | と、うち語らひたまへば、心苦しう見たてまつりたまふ。
| 338 | |
| 339 | 「わざとの御後見だち、はかばかしき筋にははべらずとも、うとうとしからず思しめされむとなむ思うたまふる。しばしもながらへはべらむ命のほどは、一言も、かくうち出で聞こえさせてむさまを、違へはべるまじくなむ」
| 339 | |
| 340 | など申したまへば、「いとうれしきこと」と、思しのたまふ。
| 340 | |
| 341 | | 341 | |
| 342 | [第三段 薫、弁の君の昔語りの続きを聞く]
| 342 | |
| 343 | さて、暁方の、宮の御行ひしたまふほどに、かの老い人召し出でて、会ひたまへり。
| 343 | |
| 344 | 姫君の御後見にてさぶらはせたまふ、弁の君とぞいひける。年も六十にすこし足らぬほどなれど、みやびかにゆゑあるけはひして、ものなど聞こゆ。
| 344 | |
| 345 | 故権大納言の君の、世とともにものを思ひつつ、病づき、はかなくなりたまひにしありさまを、聞こえ出でて、泣くこと限りなし。
| 345 | |
| 346 | 「げに、よその人の上と聞かむだに、あはれなるべき古事どもを、まして、年ごろおぼつかなく、ゆかしう、いかなりけむことの初めにかと、仏にも、このことをさだかに知らせたまへと、念じつる験にや、かく夢のやうにあはれなる昔語りを、おぼえぬついでに聞きつけつらむ」と思すに、涙とどめがたかりけり。
| 346 | |
| 347 | 「さても、かく、その世の心知りたる人も残りたまへりけるを。めづらかにも恥づかしうもおぼゆることの筋に、なほ、かく言ひ伝ふるたぐひや、またもあらむ。年ごろ、かけても聞き及ばざりける」とのたまへば、
| 347 | |
| 348 | 「小侍従と弁と放ちて、また知る人はべらじ。一言にても、また異人にうちまねびはべらず。かくものはかなく、数ならぬ身のほどにはべれど、夜昼かの御影に、つきたてまつりてはべりしかば、おのづからもののけしきをも見たてまつりそめしに、御心よりあまりて思しける時々、ただ二人の中になむ、たまさかの御消息の通ひもはべりし。かたはらいたければ、詳しく聞こえさせず。
| 348 | |
| 349 | 今はのとぢめになりたまひて、いささかのたまひ置くことのはべりしを、かかる身には、置き所なく、いぶせく思うたまへわたりつつ、いかにしてかは聞こしめし伝ふべきと、はかばかしからぬ念誦のついでにも、思うたまへつるを、仏は世におはしましけり、となむ思うたまへ知りぬる。
| 349 | |
| 350 | 御覧ぜさすべきものもはべり。今は、何かは、焼きも捨てはべりなむ。かく朝夕の消えを知らぬ身の、うち捨てはべりなば、落ち散るやうもこそと、いとうしろめたく思うたまふれど、この宮わたりにも、時々、ほのめかせたまふを、待ち出でたてまつりてしは、すこし頼もしく、かかる折もやと、念じはべりつる力出でまうで来てなむ。さらに、これは、この世のことにもはべらじ」
| 350 | |
| 351 | と、泣く泣く、こまかに、生まれたまひけるほどのことも、よくおぼえつつ聞こゆ。
| 351 | |
| 352 | | 352 | |
| 353 | [第四段 薫、父柏木の最期を聞く]
| 353 | |
| 354 | 「空しうなりたまひし騷ぎに、母にはべりし人は、やがて病づきて、ほども経ず隠れはべりにしかば、いとど思うたまへしづみ、藤衣たち重ね、悲しきことを思うたまへしほどに、年ごろ、よからぬ人の心をつけたりけるが、人をはかりごちて、西の海の果てまで取りもてまかりにしかば、京のことさへ跡絶えて、その人もかしこにて亡せはべりにし後、十年あまりにてなむ、あらぬ世の心地して、まかり上りたりしを、この宮は、父方につけて、童より参り通ふゆゑはべりしかば、今はかう世に交じらふべきさまにもはべらぬを、冷泉院の女御殿の御方などこそは、昔、聞き馴れたてまつりしわたりにて、参り寄るべくはべりしかど、はしたなくおぼえはべりて、えさし出ではべらで、深山隠れの朽木になりにてはべるなり。
| 354 | |
| 355 | 小侍従は、いつか亡せはべりにけむ。そのかみの、若盛りと見はべりし人は、数少なくなりはべりにける末の世に、多くの人に後るる命を、悲しく思ひたまへてこそ、さすがにめぐらひはべれ」
| 355 | |
| 356 | など聞こゆるほどに、例の、明け果てぬ。
| 356 | |
| 357 | 「よし、さらば、この昔物語は尽きすべくなむあらぬ。また、人聞かぬ心やすき所にて聞こえむ。侍従といひし人は、ほのかにおぼゆるは、五つ、六つばかりなりしほどにや、にはかに胸を病みて亡せにきとなむ聞く。かかる対面なくは、罪重き身にて過ぎぬべかりけること」などのたまふ。
| 357 | |
| 358 | | 358 | |
| 359 | [第五段 薫、形見の手紙を得る]
| 359 | |
| 360 | ささやかにおし巻き合はせたる反故どもの、黴臭きを袋に縫ひ入れたる、取り出でてたてまつる。
| 360 | |
| 361 | 「御前にて失はせたまへ。『われ、なほ生くべくもあらずなりにたり』とのたまはせて、この御文を取り集めて、賜はせたりしかば、小侍従に、またあひ見はべらむついでに、さだかに伝へ参らせむ、と思うたまへしを、やがて別れはべりにしも、私事には、飽かず悲しうなむ、思うたまふる」
| 361 | |
| 362 | と聞こゆ。つれなくて、これは隠いたまひつ。
| 362 | |
| 363 | 「かやうの古人は、問はず語りにや、あやしきことの例に言ひ出づらむ」と苦しく思せど、「かへすがへすも、散らさぬよしを誓ひつる、さもや」と、また思ひ乱れたまふ。
| 363 | |
| 364 | 御粥、強飯など参りたまふ。「昨日は、暇日なりしを、今日は、内裏の御物忌も明きぬらむ。院の女一の宮、悩みたまふ御とぶらひに、かならず参るべければ、かたがた暇なくはべるを、またこのころ過ぐして、山の紅葉散らぬさきに参るべき」よし、聞こえたまふ。
| 364 | |
| 365 | 「かく、しばしば立ち寄らせたまふ光に、山の蔭も、すこしもの明らむる心地してなむ」
| 365 | |
| 366 | など、よろこび聞こえたまふ。
| 366 | |
| 367 | | 367 | |
| 368 | [第六段 薫、父柏木の遺文を読む]
| 368 | |
| 369 | 帰りたまひて、まづこの袋を見たまへば、唐の浮線綾を縫ひて、「上」といふ文字を上に書きたり。細き組して、口の方を結ひたるに、かの御名の封つきたり。開くるも恐ろしうおぼえたまふ。
| 369 | |
| 370 | 色々の紙にて、たまさかに通ひける御文の返りこと、五つ、六つぞある。さては、かの御手にて、病は重く限りになりにたるに、またほのかにも聞こえむこと難くなりぬるを、ゆかしう思ふことは添ひにたり、御容貌も変りておはしますらむが、さまざま悲しきことを、陸奥紙五、六枚に、つぶつぶと、あやしき鳥の跡のやうに書きて、
| 370 | |
| 371 | 「目の前にこの世を背く君よりも
| 371 | |
| 372 | よそに別るる魂ぞ悲しき」
| 372 | |
| 373 | また、端に、
| 373 | |
| 374 | 「めづらしく聞きはべる二葉のほども、うしろめたう思うたまふる方はなけれど、
| 374 | |
| 375 | 命あらばそれとも見まし人知れぬ
| 375 | |
| 376 | 岩根にとめし松の生ひ末」
| 376 | |
| 377 | 書きさしたるやうに、いと乱りがはしうて、「小侍従の君に」と上には書きつけたり。
| 377 | |
| 378 | 紙魚といふ虫の棲み処になりて、古めきたる黴臭さながら、跡は消えず、ただ今書きたらむにも違はぬ言の葉どもの、こまごまとさだかなるを見たまふに、「げに、落ち散りたらましよ」と、うしろめたう、いとほしきことどもなり。
| 378 | |
| 379 | 「かかること、世にまたあらむや」と、心一つにいどどもの思はしさ添ひて、内裏へ参らむと思しつるも、出で立たれず。宮の御前に参りたまへれば、いと何心もなく、若やかなるさましたまひて、経読みたまふを、恥ぢらひて、もて隠したまへり。「何かは、知りにけりとも、知られたてまつらむ」など、心に籠めて、よろづに思ひゐたまへり。
| 379 | |
| 380 | | 380 | |
| 381 | 【出典】
| 381 | |
| 382 | 出典1 世の憂き目見えぬ山路へ入らむには思ふ人こそほだしなりけれ(古今集雑下-九五五 物部吉名)(戻)
| 382 | |
| 383 | 出典2 君ならで誰にか見せむ梅の花色をも香をも知る人ぞ知る(古今集春上-三八 紀友則)(戻)
| 383 | |
| 384 | 出典3 いづこにか世をば厭はむ心こそ野にも山にも惑ふべらなれ(古今集雑下-九四七 素性法師)(戻)
| 384 | |
| 385 | 出典4 月読みの光に来ませ足引きの山重なりて遠からなくに(古今六帖五-二八四一)(戻)
| 385 | |
| 386 | 出典5 雁の来る峰の朝霧晴れずのみ思ひ尽きせぬ世の中の憂さ(古今集雑下-九三五 読人しらず)(戻)
| 386 | |
| 387 | 出典6 わが庵は都の巽しかぞ住む世を宇治山と人は言ふなり(古今集雑下-九八三 喜撰法師)(戻)
| 387 | |
| 388 | 出典7 おほかたのわが身一つの憂きからになべての世をも恨みつるかな(拾遺集恋五-九五三 紀貫之)(戻)
| 388 | |
| 389 | 出典8 優婆塞が行ふ山の椎が本あなそばそばし床にしあらねば(宇津保物語-嵯峨院二一二)(戻)
| 389 | |
| 390 | 出典9 主知らぬ香こそ匂へれ秋の野に誰が脱ぎかけし藤袴ぞも(古今集秋上-二四一 素性法師)(戻)
| 390 | |
| 391 | 出典10 月隠重山兮 *[*=敬+手]扇喩之 風息大虚兮 動樹教之(和漢朗詠集下-五八七)(戻)
| 391 | |
| 392 | 出典11 思ひやる心ばかりは障らじを何隔つらむ峰の白雲(後撰集離別-一三〇六 橘直幹)(戻)
| 392 | |
| 393 | 出典12 さむしろに衣片敷き今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫(古今集恋四-六八九 読人しらず)(戻)
| 393 | |
| 394 | 出典13 さす棹の雫に濡るる袖ゆゑに身さへ浮きても思ほゆるかな(源氏釈所引-出典未詳)(戻)
| 394 | |
| 395 | 出典14 梅の花立ち寄るばかりありしより人のとがむる香にぞしみぬる(古今集春上-三五 読人しらず)(戻)
| 395 | |
| 396 | 出典15 琴の音に峰の松風かよふらしいづれの緒より調べそめけむ(拾遺集雑上-四五一 斎宮女御)(戻)
| 396 | |
| 397 | 出典16 形こそ深山隠れの朽ち木なれ心は花になさばなりなむ(古今集雑上-八七五 兼芸法師)(戻)
| 397 | |
| 398 | 出典17 声をだに聞かで別るる魂よりもなき床に寝む君ぞ悲しき(古今集哀傷-八五八 読人しらず)(戻)
| 398 | |
| 399 | | 399 | |
| 400 | 【校訂】
| 400 | |
| 401 | 備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△
| 401 | |
| 402 | 校訂1 いとうつくしう--(/+いとうつくしう)(戻)
| 402 | |
| 403 | 校訂2 生ひ先見えて--おいさき見えておいさき見えて(おいさき見えて<後出>/$)(戻)
| 403 | |
| 404 | 校訂3 思ほし--お(お/+も)ほし(戻)
| 404 | |
| 405 | 校訂4 とて--とく(く/$て)(戻)
| 405 | |
| 406 | 校訂5 若き--わかきわかき(わかき<前出>/$)(戻)
| 406 | |
| 407 | 校訂6 御消息--御せうそと(と/$こ)(戻)
| 407 | |
| 408 | 校訂7 したたかに--した(た/+た)かゝ(ゝ/$)に(戻)
| 408 | |
| 409 | 校訂8 こちごちしかる--(/+こ)ちこ(こ/$)/\しかる(戻)
| 409 | |
| 410 | 校訂9 ものし--(/+も)のし(戻)
| 410 | |
| 411 | 校訂10 この聞こえ--このきみも(みも/$こえ)(戻)
| 411 | |
| 412 | 校訂11 果て果ては--はや(はや/$)はて/\は(戻)
| 412 | |
| 413 | 校訂12 のみこそ--のみなん(なん/$)こそ(戻)
| 413 | |
| 414 | 校訂13 たるに--たるを(を/$に)(戻)
| 414 | |
| 415 | 校訂14 つき--つきつき(つき<後出>/$)(戻)
| 415 | |
| 416 | 校訂15 知りにけり--しりにき(き/$けり)(戻)
| 416 | |
| 417 | | 417 | |
| 418 | 源氏物語の世界ヘ
| 418 | |
| 419 | ローマ字版
| 419 | |
| 420 | 現代語訳
| 420 | |
| 421 | 注釈
| 421 | |
| 422 | 明融臨模本
| 422 | |
| 423 | 大島本
| 423 | |
| 424 | 自筆本奥入
| 424 | |
| 425 | | 425 | |
| 426 |
| 426 | |
| 427 | | 427 | |
| 428 | | 428 | |