光る源氏の内大臣時代三十二歳の晩秋九月から冬までの物語
[主要登場人物]
第一章 朝顔姫君の物語 昔の恋の再燃
[第二段 朝顔姫君と対話]
あなたの御前を見やりたまへば、枯れ枯れなる前栽の心ばへもことに見渡されて、のどやかに眺めたまふらむ御ありさま、容貌も、いとゆかしくあはれにて、え念じたまはで、
「かくさぶらひたるついでを過ぐしはべらむは、心ざしなきやうなるを、あなたの御訪らひ聞こゆべかりけり」
とて、やがて簀子より渡りたまふ。
暗うなりたるほどなれど、鈍色の御簾に、黒き御几帳の透影あはれに、追風なまめかしく吹き通し、けはひあらまほし。簀子はかたはらいたければ、南の廂に入れたてまつる。
宣旨、対面して、御消息は聞こゆ。
「今さらに、若々しき心地する御簾の前かな。神さびにける年月の労数へられはべるに、今は内外も許させたまひてむとぞ頼みはべりける」
とて、飽かず思したり。
「ありし世は皆夢に見なして、今なむ、覚めてはかなきにやと、思ひたまへ定めがたくはべるに、労などは、静かにやと定めきこえさすべうはべらむ」
と、聞こえ出だしたまへり。「げにこそ定めがたき世なれ」と、はかなきことにつけても思し続けらる。
「人知れず神の許しを待ちし間に
ここらつれなき世を過ぐすかな
今は、何のいさめにか、かこたせたまはむとすらむ。なべて、世にわづらはしきことさへはべりしのち、さまざまに思ひたまへ集めしかな。いかで片端をだに」
と、あながちに聞こえたまふ、御用意なども、昔よりも今すこしなまめかしきけさへ添ひたまひにけり。さるは、いといたう過ぐしたまへど、御位のほどには合はざめり。
「なべて世のあはればかりを問ふからに
誓ひしことと神やいさめむ」
とあれば、
「あな、心憂。その世の罪は、みな科戸の風にたぐへてき」
とのたまふ愛敬も、こよなし。
「みそぎを、神は、いかがはべりけむ」
など、はかなきことを聞こゆるも、まめやかには、いとかたはらいたし。世づかぬ御ありさまは、年月に添へても、もの深くのみ引き入りたまひて、え聞こえたまはぬを、見たてまつり悩めり。
「好き好きしきやうになりぬるを」
など、浅はかならずうち嘆きて立ちたまふ。
「齢の積もりには、面なくこそなるわざなりけれ。世に知らぬやつれを、今ぞ、とだに聞こえさすべくやは、もてなしたまひける」
とて、出でたまふ名残、所狭きまで、例の聞こえあへり。
おほかたの、空もをかしきほどに、木の葉の音なひにつけても、過ぎにしもののあはれとり返しつつ、その折々、をかしくもあはれにも、深く見えたまひし御心ばへなども、思ひ出できこえさす。
[第三段 帰邸後に和歌を贈答しあう]
心やましくて立ち出でたまひぬるは、まして、寝覚がちに思し続けらる。とく御格子参らせたまひて、朝霧を眺めたまふ。枯れたる花どもの中に、朝顔のこれかれにはひまつはれて、あるかなきかに咲きて、匂ひもことに変はれるを、折らせたまひてたてまつれたまふ。
「けざやかなりし御もてなしに、人悪ろき心地しはべりて、うしろでもいとどいかが御覧じけむと、ねたく。されど、
見し折のつゆ忘られぬ朝顔の
花の盛りは過ぎやしぬらむ
年ごろの積もりも、あはれとばかりは、さりとも、思し知るらむやとなむ、かつは」
など聞こえたまへり。おとなびたる御文の心ばへに、「おぼつかなからむも、見知らぬやうにや」と思し、人びとも御硯とりまかなひて、聞こゆれば、
「秋果てて霧の籬にむすぼほれ
あるかなきかに移る朝顔」
似つかはしき御よそへにつけても、露けく」
とのみあるは、何のをかしきふしもなきを、いかなるにか、置きがたく御覧ずめり。青鈍の紙の、なよびかなる墨つきはしも、をかしく見ゆめり。人の御ほど、書きざまなどに繕はれつつ、その折は罪なきことも、つきづきしくまねびなすには、ほほゆがむこともあめればこそ、さかしらに書き紛らはしつつ、おぼつかなきことも多かりけり。
立ち返り、今さらに若々しき御文書きなども、似げなきこと、と思せども、なほかく昔よりもて離れぬ御けしきながら、口惜しくて過ぎぬるを思ひつつ、えやむまじく思さるれば、さらがへりて、まめやかに聞こえたまふ。
[第四段 源氏、執拗に朝顔姫君を恋う]
東の対に離れおはして、宣旨を迎へつつ語らひたまふ。さぶらふ人びとの、さしもあらぬ際のことをだに、なびきやすなるなどは、過ちもしつべく、めできこゆれど、宮は、そのかみだにこよなく思し離れたりしを、今は、まして、誰も思ひなかるべき御齢、おぼえにて、「はかなき木草につけたる御返りなどの、折過ぐさぬも、軽々しくや、とりなさるらむ」など、人の物言ひを憚りたまひつつ、うちとけたまふべき御けしきもなければ、古りがたく同じさまなる御心ばへを、世の人に変はり、めづらしくもねたくも思ひきこえたまふ。
世の中に漏り聞こえて、
「前斎院を、ねむごろに聞こえたまへばなむ、女五の宮などもよろしく思したなり。似げなからぬ御あはひならむ」
など言ひけるを、対の上は伝へ聞きたまひて、しばしは、
「さりとも、さやうならむこともあらば、隔てては思したらじ」
と思しけれど、うちつけに目とどめきこえたまふに、御けしきなども、例ならずあくがれたるも心憂く、
「まめまめしく思しなるらむことを、つれなく戯れに言ひなしたまひけむよと、同じ筋にはものしたまへど、おぼえことに、昔よりやむごとなく聞こえたまふを、御心など移りなば、はしたなくもあべいかな。年ごろの御もてなしなどは、立ち並ぶ方なく、さすがにならひて、人に押し消たれむこと」
など、人知れず思し嘆かる。
「かき絶え名残なきさまにはもてなしたまはずとも、いとものはかなきさまにて見馴れたまへる年ごろの睦び、あなづらはしき方にこそはあらめ」
など、さまざまに思ひ乱れたまふに、よろしきことこそ、うち怨じなど憎からず聞こえたまへ、まめやかにつらしと思せば、色にも出だしたまはず。
端近う眺めがちに、内裏住みしげくなり、役とは御文を書きたまへば、
「げに、人の言葉むなしかるまじきなめり。けしきをだにかすめたまへかし」
と、疎ましくのみ思ひきこえたまふ。
[第二段 宮邸に到着して門を入る]
宮には、北面の人しげき方なる御門は、入りたまはむも軽々しければ、西なるがことことしきを、人入れさせたまひて、宮の御方に御消息あれば、「今日しも渡りたまはじ」と思しけるを、驚きて開けさせたまふ。
御門守、寒げなるけはひ、うすすき出で来て、とみにもえ開けやらず。これより他の男はたなきなるべし。ごほごほと引きて、
「錠のいといたく銹びにければ、開かず」
と愁ふるを、あはれと聞こし召す。
「昨日今日と思すほどに、三年のあなたにもなりにける世かな。かかるを見つつ、かりそめの宿りをえ思ひ捨てず、木草の色にも心を移すよ」と、思し知らるる。口ずさびに、
「いつのまに蓬がもととむすぼほれ
雪降る里と荒れし垣根ぞ」
やや久しう、ひこしらひ開けて、入りたまふ。
[第三段 宮邸で源典侍と出会う]
宮の御方に、例の、御物語聞こえたまふに、古事どものそこはかとなきうちはじめ、聞こえ尽くしたまへど、御耳もおどろかず、ねぶたきに、宮も欠伸うちしたまひて、
「宵まどひをしはべれば、ものもえ聞こえやらず」
とのたまふほどもなく、鼾とか、聞き知らぬ音すれば、よろこびながら立ち出でたまはむとするに、またいと古めかしきしはぶきうちして、参りたる人あり。
「かしこけれど、聞こし召したらむと頼みきこえさするを、世にある者とも数まへさせたまはぬになむ。院の上は、祖母殿と笑はせたまひし」
など、名のり出づるにぞ、思し出づる。
源典侍といひし人は、尼になりて、この宮の御弟子にてなむ行なふと聞きしかど、今まであらむとも尋ね知りたまはざりつるを、あさましうなりぬ。
「その世のことは、みな昔語りになりゆくを、はるかに思ひ出づるも、心細きに、うれしき御声かな。親なしに臥せる旅人と、育みたまへかし」
とて、寄りゐたまへる御けはひに、いとど昔思ひ出でつつ、古りがたくなまめかしきさまにもてなして、いたうすげみにたる口つき、思ひやらるる声づかひの、さすがに舌つきにて、うちされむとはなほ思へり。
「言ひこしほどに」など聞こえかかる、まばゆさよ。「今しも来たる老いのやうに」など、ほほ笑まれたまふものから、ひきかへ、これもあはれなり。
「この盛りに挑みたまひし女御、更衣、あるはひたすら亡くなりたまひ、あるはかひなくて、はかなき世にさすらへたまふもあべかめり。入道の宮などの御齢よ。あさましとのみ思さるる世に、年のほど身の残り少なげさに、心ばへなども、ものはかなく見えし人の、生きとまりて、のどやかに行なひをもうちして過ぐしけるは、なほすべて定めなき世なり」
と思すに、ものあはれなる御けしきを、心ときめきに思ひて、若やぐ。
「年経れどこの契りこそ忘られね
親の親とか言ひし一言」
と聞こゆれば、疎ましくて、
「身を変へて後も待ち見よこの世にて
親を忘るるためしありやと
頼もしき契りぞや。今のどかにぞ、聞こえさすべき」
とて、立ちたまひぬ。
[第四段 朝顔姫君と和歌を詠み交わす]
西面には御格子参りたれど、厭ひきこえ顔ならむもいかがとて、一間、二間は下ろさず。月さし出でて、薄らかに積もれる雪の光りあひて、なかなかいとおもしろき夜のさまなり。
「ありつる老いらくの心げさうも、良からぬものの世のたとひとか聞きし」と思し出でられて、をかしくなむ。今宵は、いとまめやかに聞こえたまひて、
「一言、憎しなども、人伝てならでのたまはせむを、思ひ絶ゆるふしにもせむ」
と、おり立ちて責めきこえたまへど、
「昔、われも人も若やかに、罪許されたりし世にだに、故宮などの心寄せ思したりしを、なほあるまじく恥づかしと思ひきこえてやみにしを、世の末に、さだすぎ、つきなきほどにて、一声もいとまばゆからむ」
と思して、さらに動きなき御心なれば、「あさましう、つらし」と思ひきこえたまふ。
さすがに、はしたなくさし放ちてなどはあらぬ人伝ての御返りなどぞ、心やましきや。夜もいたう更けゆくに、風のけはひ、はげしくて、まことにいともの心細くおぼゆれば、さまよきほど、おし拭ひたまひて、
「つれなさを昔に懲りぬ心こそ
人のつらきに添へてつらけれ
心づからの」
とのたまひすさぶるを、
「げに」
「かたはらいたし」
と、人びと、例の、聞こゆ。
「あらためて何かは見えむ人のうへに
かかりと聞きし心変はりを
昔に変はることは、ならはず」
など聞こえたまへり。
[第五段 朝顔姫君、源氏の求愛を拒む]
いふかひなくて、いとまめやかに怨じきこえて出でたまふも、いと若々しき心地したまへば、
「いとかく、世の例になりぬべきありさま、漏らしたまふなよ。ゆめゆめ。いさら川などもなれなれしや」
とて、せちにうちささめき語らひたまへど、何ごとにかあらむ。人びとも、
「あな、かたじけな。あながちに情けおくれても、もてなしきこえたまふらむ」
「軽らかにおし立ちてなどは見えたまはぬ御けしきを。心苦しう」
と言ふ。
げに、人のほどの、をかしきにも、あはれにも、思し知らぬにはあらねど、
「もの思ひ知るさまに見えたてまつるとて、おしなべての世の人のめできこゆらむ列にや思ひなされむ。かつは、軽々しき心のほども見知りたまひぬべく、恥づかしげなめる御ありさまを」と思せば、「なつかしからむ情けも、いとあいなし。よその御返りなどは、うち絶えで、おぼつかなかるまじきほどに聞こえたまひ、人伝ての御いらへ、はしたなからで過ぐしてむ。年ごろ、沈みつる罪失ふばかり御行なひを」とは思し立てど、「にはかにかかる御ことをしも、もて離れ顔にあらむも、なかなか今めかしきやうに見え聞こえて、人のとりなさじやは」と、世の人の口さがなさを思し知りにしかば、かつ、さぶらふ人にもうちとけたまはず、いたう御心づかひしたまひつつ、やうやう御行なひをのみしたまふ。
御兄弟の君達あまたものしたまへど、ひとつ御腹ならねば、いとうとうとしく、宮のうちいとかすかになり行くままに、さばかりめでたき人の、ねむごろに御心を尽くしきこえたまへば、皆人、心を寄せきこゆるも、ひとつ心と見ゆ。
[第二段 夜の庭の雪まろばし]
雪のいたう降り積もりたる上に、今も散りつつ、松と竹とのけぢめをかしう見ゆる夕暮に、人の御容貌も光まさりて見ゆ。
「時々につけても、人の心を移すめる花紅葉の盛りよりも、冬の夜の澄める月に、雪の光りあひたる空こそ、あやしう、色なきものの、身にしみて、この世のほかのことまで思ひ流され、おもしろさもあはれさも、残らぬ折なれ。すさまじき例に言ひ置きけむ人の心浅さよ」
とて、御簾巻き上げさせたまふ。
月は隈なくさし出でて、ひとつ色に見え渡されたるに、しをれたる前栽の蔭心苦しう、遣水もいといたうむせびて、池の氷もえもいはずすごきに、童女下ろして、雪まろばしせさせたまふ。
をかしげなる姿、頭つきども、月に映えて、大きやかに馴れたるが、さまざまの衵乱れ着、帯しどけなき宿直姿、なまめいたるに、こやなうあまれる髪の末、白きにはましてもてはやしたる、いとけざやかなり。
小さきは、童げてよろこび走るに、扇なども落して、うちとけ顔をかしげなり。
いと多うまろばさむと、ふくつけがれど、えも押し動かさでわぶめり。かたへは、東のつまなどに出でゐて、心もとなげに笑ふ。
[第三段 源氏、往古の女性を語る]
「一年、中宮の御前に雪の山作られたりし、世ぬ古りたることなれど、なほめづらしくもはかなきことをしなしたまへりしかな。何の折々につけても、口惜しう飽かずもあるかな。
いとけどほくもてなしたまひて、くはしき御ありさまを見ならしたてまつりしことはなかりしかど、御交じらひのほどに、うしろやすきものには思したりきかし。
うち頼みきこえて、とあることかかる折につけて、何ごとも聞こえかよひしに、もて出でてらうらうじきことも見えたまはざりしかど、いふかひあり、思ふさまに、はかなきことわざをもしなしたまひしはや。世にまた、さばかりのたぐひありなむや。
やはらかにおびれたるものから、深うよしづきたるところの、並びなくものしたまひしを、君こそは、さいへど、紫のゆゑ、こよなからずものしたまふめれど、すこしわづらはしき気添ひて、かどかどしさのすすみたまへるや、苦しからむ。
前斎院の御心ばへは、またさまことにぞ見ゆる。さうざうしきに、何とはなくとも聞こえあはせ、われも心づかひせらるべきあたり、ただこの一所や、世に残りたまへらむ」
とのたまふ。
「尚侍こそは、らうらうじくゆゑゆゑしき方は、人にまさりたまへれ。浅はかなる筋など、もて離れたまへりける人の御心を、あやしくもありけることどもかな」
とのたまへば、
「さかし。なまめかしう容貌よき女の例には、なほ引き出でつべき人ぞかし。さも思ふに、いとほしく悔しきことの多かるかな。まいて、うちあだけ好きたる人の、年積もりゆくままに、いかに悔しきこと多からむ。人よりはことなき静けさ、と思ひしだに」
など、のたまひ出でて、尚侍の君の御ことにも、涙すこしは落したまひつ。
「この、数にもあらずおとしめたまふ山里の人こそは、身のほどにはややうち過ぎ、ものの心など得つべけれど、人よりことなべきものなれば、思ひ上がれるさまをも、見消ちてはべるかな。いふかひなき際の人はまだ見ず。人は、すぐれたるは、かたき世なりや。
東の院にながむる人の心ばへこそ、古りがたくらうたけれ。さはた、さらにえあらぬものを、さる方につけての心ばせ、人にとりつつ見そめしより、同じやうに世をつつましげに思ひて過ぎぬるよ。今はた、かたみに背くべくもあらず、深うあはれと思ひはべる」
など、昔今の御物語に夜更けゆく。
[第四段 藤壷、源氏の夢枕に立つ]
月いよいよ澄みて、静かにおもしろし。女君、
「氷閉ぢ石間の水は行きなやみ
空澄む月の影ぞ流るる」
外を見出だして、すこし傾きたまへるほど、似るものなくうつくしげなり。髪ざし、面様の、恋ひきこゆる人の面影にふとおぼえて、めでたければ、いささか分くる御心もとり重ねつべし。鴛鴦のうち鳴きたるに、
「かきつめて昔恋しき雪もよに
あはれを添ふる鴛鴦の浮寝か」
入りたまひても、宮の御ことを思ひつつ大殿籠もれるに、夢ともなくほのかに見たてまつるを、いみじく恨みたまへる御けしきにて、
「漏らさじとのたまひしかど、憂き名の隠れなかりければ、恥づかしう、苦しき目を見るにつけても、つらくなむ」
とのたまふ。御応へ聞こゆと思すに、襲はるる心地して、女君の、
「こは、など、かくは」
とのたまふに、おどろきて、いみじく口惜しく、胸のおきどころなく騒げば、抑へて、涙も流れ出でにけり。今も、いみじく濡らし添へたまふ。
女君、いかなることにかと思すに、うちもみじろかで臥したまへり。
「とけて寝ぬ寝覚さびしき冬の夜に
むすぼほれつる夢の短さ」
[第五段 源氏、藤壷を供養す]
なかなか飽かず、悲しと思すに、とく起きたまひて、さとはなくて、所々に御誦経などせさせたまふ。
「苦しき目見せたまふと、恨みたまへるも、さぞ思さるらむかし。行なひをしたまひ、よろづに罪軽げなりし御ありさまながら、この一つことにてぞ、この世の濁りをすすいたまはざらむ」
と、ものの心を深く思したどるに、いみじく悲しければ、
「何わざをして、知る人なき世界におはすらむを、訪らひきこえに参うでて、罪にも代はりきこえばや」
など、つくづくと思す。
「かの御ために、とり立てて何わざをもしたまふむは、人とがめきこえつべし。内裏にも、御心の鬼に思すところやあらむ」
と、思しつつむほどに、阿弥陀仏を心にかけて念じたてまつりたまふ。「同じ蓮に」とこそは、
「亡き人を慕ふ心にまかせても
影見ぬ三つの瀬にや惑はむ」
と思すぞ、憂かりけるとや。
【出典】
出典1 寿則多辱(荘子-天地)(戻)
出典2 恋せじと御禊は神もうけずかと人を忘るる罪深くして(源氏釈所引、出典未詳)
恋せじと御手洗河にせし御禊神はうけずもなりにけるかな(古今集恋一-五〇一 読人しらず)(戻)
出典3 君が門今ぞ過ぎ行く出でて見よ恋する人のなれる姿を(源氏釈所引、出典未詳)(戻)
出典4 須磨の浦の塩焼き衣馴れ行けば憂き頼みこそなりまさりけり(源氏釈所引、出典未詳)(戻)
出典5 馴れ行けば憂き世なればや須磨の海人の塩焼衣まどほなるらむ(新古今集恋三-一二一〇 徽子女王)(戻)
出典6 しなてるや片岡山に飯に飢ゑて臥せる旅人あはれ親なし(拾遺集哀傷-一三五〇 聖徳太子)(戻)
出典7 身を憂しと言ひ来しほどに今日はまた人の上とも嘆くべきかな(源氏釈所引、出典未詳)(戻)
出典8 親の親と思はましかば問ひてまし我が子の子には(拾遺集雑下-五四五 源重之母)(戻)
出典9 今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならで言ふよしもがな(後拾遺集恋三-七五〇 藤原道雅)(戻)
出典10 恋しきも心づからのわざなればおきどころなくもてわづらふ(中務集-二四九)(戻)
出典11 犬上の鳥籠の山なる名取川いさと答へよ我が名洩すな(古今集墨滅歌-一一〇八 読人しらず)(戻)
出典12 ありぬやと試みがてらあひ見ねば戯れにくきまでぞ恋しき(古今集俳諧歌-一〇二五 読人しらず)(戻)
出典13 春秋に思ひ乱れて分きかねつ時につけつつ移る心は(拾遺集雑下-五〇九 紀貫之)(戻)
出典14 遺愛寺鐘*枕聴 香鑪峯雪撥簾看(白氏文集巻十六、*=埼-土,+欠<右>)(戻)
【校訂】
備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△
校訂1 立ち返り--たちか(か/$か)へり(戻)
校訂2 やうにや」と--やうに(に/+や<朱>)と(戻)
校訂3 似つかはしき--につら(ら/$か)はしき(戻)
校訂4 書き紛らはし--かき(き/+まき)らはし(戻)
校訂5 宣旨--せむ(む/$)し(戻)
校訂6 前斎院を--前斎院(院/+を<朱>)(戻)
校訂7 御けしきの--御けしきの(の/+の$<朱>)(戻)
校訂8 たまひて--たま(ま/+ひ)て(戻)
校訂9 三年--みそ(そ/$<朱>)とせ(戻)
校訂10 出づる--いつ(つ/+る)(戻)
校訂11 ほほ笑まれ--をほ(をほ/$ほゝ)ゑまれ(戻)
校訂12 心ばへ--こ(こ/+こ)ろはへ(戻)
校訂13 光りあひて--ひかり△(△/#)あひ(ひ/+て)(戻)
校訂14 げに--け(け/+に)(戻)
校訂15 御あだけ--御仇(仇/$あたけ)(戻)
校訂16 とて--と(と/+て)(戻)
校訂17 心苦しう--心くる(る/+し<朱>)う(戻)
校訂18 なむや--*なむ(戻)
校訂19 うつくしげ--うつ(つ/+く<朱>)しけ(戻)
校訂20 すすい--すゝ(ゝ/$す<朱>)い(戻)
校訂21 代はりきこえ--かはりき(き/$)きこえ(戻)