45 橋姫(明融臨模本)


HASIHIME


薫君の宰相中将時代
二十二歳秋から十月までの物語



Tale of Kaoru's Konoe-Chujo era, from in fall to October in winter at the age of 22

3
第三章 薫の物語 八の宮の娘たちを垣間見る


3  Tale of Kaoru  Kaoru peeps Hachi-no-miya's daughters

3.1
第一段 晩秋に薫、宇治へ赴く


3-1  Kaoru goes to Uji at late fall

3.1.1   秋の末つ方、四季にあててしたまふ御念仏を、 この川面は、網代の波も、このころはいとど耳かしかましく静かならぬを、とて、かの阿闍梨の住む寺の堂に移ろひたまひて、七日のほど行ひたまふ。姫君たちは、いと心細く、つれづれまさりて眺めたまひけるころ、中将の君、 久しく参らぬかなと、思ひ出できこえたまひけるままに、有明の月の、まだ夜深くさし出づるほどに出で立ちて、いと忍びて、御供に人などもなくて、やつれておはしけり。
 秋の末方に、四季毎に当ててなさるお念仏を、この川辺では、網代の波も、このころは一段と耳うるさく静かでないので、と言って、あの阿闍梨が住む寺の堂にお移りになって、七日程度勤行なさる。姫君たちは、たいそう心細く、何もすることのない日が増えて物思いに耽っていらっしゃるころ、中将の君が、久しく参らなかったなと、お思い出し申されるままに、有明の月が、まだ夜深く差し出たころに出立して、たいそうこっそりと、お供に人などもなく、質素にしておいでになった。
 秋の末であったが、四季に分けて宮があそばす念仏の催しも、この時節はかわに近い山荘では網代あじろに当たる波の音も騒がしくやかましいからとお言いになって、阿闍梨あじゃりの寺へおいでになり、念仏のため御堂みどうに七日間おこもりになることになった。姫君たちは平生よりもなお寂しく山荘で暮らさねばならなかった。ちょうどそのころ薫中将は、長く宇治へ伺わないことを思って、その晩の有明月ありあけづきの上り出した時刻から微行しのびで、従者たちをも簡単な人数にして八の宮をお訪ねしようとした。
  Aki no suwe-tu-kata, siki ni ate te si tamahu ohom-nenbutu wo, kono kahadura ha, aziro no nami mo, kono-koro ha itodo mimi kasikamasiku siduka nara nu wo, tote, kano Azari no sumu tera no dau ni uturohi tamahi te, nanu-ka no hodo okonahi tamahu. Hime-Gimi-tati ha, ito kokoro-bosoku, ture-dure masari te nagame tamahi keru koro, Tyuuzyau-no-Kimi, hisasiku mawira nu kana to, omohi-ide kikoye tamahi keru mama ni, ariake no tuki no, mada yo-bukaku sasi-iduru hodo ni ide-tati te, ito sinobi te, ohom-tomo ni hito nado mo naku te, yature te ohasi keri.
3.1.2  川のこなたなれば、舟などもわづらはで、御馬にてなりけり。入りもてゆくままに、霧りふたがりて、道も見えぬ繁木の中を分けたまふに、いと荒ましき風のきほひに、ほろほろと落ち乱るる木の葉の露の散りかかるも、いと冷やかに、 人やりならずいたく濡れたまひぬ。かかるありきなども、をさをさならひたまはぬ心地に、心細くをかしく思されけり。
 川のこちら側なので、舟なども煩わさず、御馬でいらっしゃったのであった。山に入って行くにつれて、霧で塞がって、道も見えない生い茂った木の中を分け入って行かれると、とても荒々しく吹き競う風に、ほろほろと散り乱れる木の葉の露が散りかかるのも、たいそう冷たくて、自分から求めてひどく濡れておしまいになった。このような外歩きなども、あまり御経験ないお気持ちには、心細く興味深く思われなさった。
 河の北の岸に山荘はあったから船などは要しないのである。薫は馬で来たのだった。宇治へ近くなるにしたがい霧が濃く道をふさいで行く手も見えない林の中を分けて行くと、荒々しい風が立ち、ほろほろと散りかかる木の葉の露がつめたかった。ひどく薫はれてしまった。こうした山里の夜のみちなどを歩くことをあまり経験せぬ人であったから、身にしむようにも思い、またおもしろいように思われた。
  Kaha no konata nare ba, hune nado mo waduraha de, ohom-muma nite nari keri. Iri mote yuku mama ni, kiri hutagari te, miti mo miye nu sigeki no naka wo wake tamahu ni, ito aramasiki kaze no kihohi ni, horo-horo to oti midaruru konoha no tuyu no tiri kakaru mo, ito hiyayaka ni, hito yari nara zu itaku nure tamahi nu. Kakaru ariki nado mo, wosa-wosa narahi tamaha nu kokoti ni, kokoro-bosoku wokasiku obosa re keri.
3.1.3  「 山おろしに耐へぬ木の葉の露よりも
 「山颪の風に堪えない木の葉の露よりも
  山おろしに堪へぬ木の葉の露よりも
    "Yama-orosi ni tahe nu konoha no tuyu yori mo
3.1.4   あやなくもろきわが涙かな
  妙にもろく流れるわたしの涙よ
  あやなくもろきわが涙かな
    ayanaku moroki waga namida kana
3.1.5  山賤のおどろくもうるさしとて、随身の音もせさせたまはず。柴の籬を分けて、そこはかとなき水の流れどもを踏みしだく駒の足音も、なほ、忍びてと用意したまへるに、隠れなき御匂ひぞ、風に従ひて、 主知らぬ香とおどろく寝覚めの家々ありける。
 山賤が目を覚ますのも厄介だと思って、随身の声もおさせにならない。柴の籬を分けて、どことなく流れる水の流れを踏みつける馬の足音も、やはり、人目につかないようにと気をつけていらっしゃったのに、隠すことのできない御匂いが、風に漂って、どなたの香かと目を覚ます家々があるのであった。
 村の者を驚かせないために随身に人払いの声も立てさせないのである。左右が柴垣しばがきになっている小路こみちを通り、浅い流れも踏み越えて行く馬の足音なども忍ばせているのであるが、薫の身についた芳香を風が吹き散らすために、覚えもない香を寝ざめの窓の内にいで驚く人々もあった。
  Yamagatu no odoroku mo urusasi tote, zuizin no oto mo se sase tamaha zu. Siba no magaki wo wake te, sokohaka to naki midu no nagare-domo wo humi sidaku koma no asioto mo, naho, sinobi te to youi si tamahe ru ni, kakure naki ohom-nihohi zo, kaze ni sitagahi te, nusi sira nu ka to odoroku nezame no ihe-ihe ari keru.
3.1.6  近くなるほどに、その琴とも聞き分かれぬ物の音ども、いとすごげに聞こゆ。「 常にかく遊びたまふと聞くを、ついでなくて、宮の御琴の音の名高きも、え聞かぬぞかし。よき折なるべし」と思ひつつ入りたまへば、琵琶の声の響きなりけり。「黄鐘調」に調べて、世の常の掻き合はせなれど、所からにや、耳馴れぬ心地して、掻き返す撥の音も、ものきよげにおもしろし。箏の琴、あはれになまめいたる声して、たえだえ聞こゆ。
 近くなるころに、何の琴とも聞き分けることができない楽器の音色が、たいそうもの寂しく聞こえる。「いつもこのように遊んでいらっしゃると聞いたが、その機会がなくて、親王の御琴の音色の評判高いのも、聞くことができないでいた。ちょうど良い機会だろう」と思いながらお入りになると、琵琶の音の響きであった。「黄鐘調」に調律して、普通の掻き合わせだが、場所柄か、耳馴れない気がして、掻き返す撥の音も、何となく清らかで美しい。箏の琴は、しみじみと優美な音がして、途切れ途切れに聞こえる。
 宮の山荘にもう間もない所まで来ると、何の楽器の音とも聞き分けられぬほどの音楽の声がかすかにすごく聞こえてきた。山荘の姉妹きょうだい女王にょおうはよく何かを合奏しているという話は聞いたが、機会もなくて、宮の有名な琴の御音も自分はまだお聞きすることができないのである、ちょうどよい時であると思って山荘の門をはいって行くと、その声は琵琶びわであった。所がらでそう思われるのか、平凡な楽音とは聞かれなかった。き返す音もきれいでおもしろかった。十三げんえんな音も絶え絶えに混じって聞こえる。
  Tikaku naru hodo ni, sono koto to mo kiki waka re nu mono no ne-domo, ito sugoge ni kikoyu. "Tune ni kaku asobi tamahu to kiku wo, tuide naku te, Miya no ohom-koto no ne no na-dakaki mo, e kika nu zo kasi. Yoki wori naru besi." to omohi tutu iri tamahe ba, biha no kowe no hibiki nari keri. Wausiki-deu ni sirabe te, yo no tune no kaki-ahase nare do, tokoro kara ni ya, mimi nare nu kokoti si te, kaki-kahesu bati no oto mo, mono kiyoge ni omosirosi. Syau-no-koto, ahare ni namamei taru kowe si te, taye-daye kikoyu.
注釈125秋の末つ方薫二十二歳の晩秋。3.1.1
注釈126この川面は以下「静かならぬを」まで、八宮の心中、間接話法的叙述。3.1.1
注釈127久しく参らぬかな薫の心中。3.1.1
注釈128人やりならず誰のせいでもなく、自分から求めて出掛けた夜道のために、というニュアンス。3.1.2
注釈129山おろしに耐へぬ木の葉の露よりもあやなくもろきわが涙かな薫の独詠歌。3.1.3
注釈130主知らぬ香『源氏釈』は「ぬし知らぬ香こそ匂へれ秋の野に誰が脱ぎ掛けし藤袴ぞも」(古今集秋上、二四一、素性法師)を指摘。3.1.5
注釈131常にかく遊びたまふと以下「折なるべし」まで、薫の心中。主語は八宮。3.1.6
出典9 主知らぬ香 主知らぬ香こそ匂へれ秋の野に誰が脱ぎかけし藤袴ぞも 古今集秋上-二四一 素性法師 3.1.5
3.2
第二段 宿直人、薫を招き入れる


3-2  A night duty man reads Kaoru into the cottage's garden

3.2.1   しばし聞かまほしきに、忍びたまへど、 御けはひしるく聞きつけて、宿直人めく男、なまかたくなしき、出で来たり。
 暫く聞いていたいので、隠れていらしたが、お気配をはっきりと聞きつけて、宿直人らしい男で、何か愚直そうなのが、出て来た。
 しばらくこのまま聞いていたく薫は思うのであったが、音はたてずにいても、薫のにおいに驚いて宿直とのいの侍風の武骨らしい男などが外へ出て来た。
  Sibasi kika mahosiki ni, sinobi tamahe do, ohom-kehahi siruku kiki-tuke te, Tonowi-bito meku wonoko, nama-katakunasiki, ide-ki tari.
3.2.2  「 しかしかなむ籠もりおはします。御消息をこそ聞こえさせめ」と申す。
 「いかじかの理由で籠もっていらっしゃいます。お手紙を差し上げましょう」と申す。
 こうこうで宮が寺へこもっておいでになるとその男は言って、「すぐお寺へおしらせ申し上げましょう」とも言うのだった。
  "Sika-sika nam komori ohasimasu. Ohom-seusoko wo koso kikoye sase me." to mausu.
3.2.3  「 何か。しか限りある御行ひのほどを、紛らはしきこえさせむにあいなし。かく濡れ濡れ参りて、いたづらに帰らむ愁へを、姫君の御方に聞こえて、あはれとのたまはせばなむ、慰むべき」
 「なに、その必要はない。そのように日数を限った御勤行のところを、お邪魔申し上げるのもいけない。このように濡れながらわざわざ参って、むなしく帰る嘆きを、姫君の御方に申し上げて、お気の毒にとおっしゃっていただけたら、慰められるでしょう」
 「その必要はない。日数をきめて行っておられる時に、おじゃまをするのはいけないからね。こんなにも途中でれて来て、またこのまま帰らねばならぬ私に御同情をしてくださるように姫君がたへお願いして、なんとか仰せがあれば、それだけで私は満足だよ」
  "Nanika. Sika kagiri aru ohom-okonahi no hodo wo, magirahasi kikoye sase m ni ahinasi. Kaku nure-nure mawiri te, itadura ni kahera m urehe wo, Hime-Gimi no Ohom-Kata ni kikoye te, ahare to notamahase ba nam, nagusamu beki."
3.2.4  とのたまへば、醜き顔うち笑みて、
 とおっしゃると、醜い顔がにこっとして、
 と薫が言うと、醜い顔にえみを見せて、
  to notamahe ba, minikuki kaho uti-wemi te,
3.2.5  「 申させはべらむ」とて立つを、
 「申し上げさせていただきましょう」と言って立つのを、
 「さように申し上げましょう」と言って、あちらへ行こうとするのを、
  "Mausa se habera m." tote tatu wo,
3.2.6  「 しばしや」と召し寄せて、
 「ちょっと待て」と召し寄せて、
 「ちょっと」と、もう一度薫はそばへ呼んで、
  "Sibasi ya!" to mesiyose te,
3.2.7  「 年ごろ、人伝てにのみ聞きて、ゆかしく思ふ 御琴の音どもを、うれしき折かな。しばし、すこしたち隠れて聞くべきものの隈ありや。 つきなくさし過ぎて参り寄らむほど、皆琴やめたまひては、いと本意なからむ」
 「長年、人伝てにばかり聞いて、聞きたく思っていたお琴の音を、嬉しい時だよ。暫くの間、少し隠れて聞くのに適当な物蔭はないか。不適切にも出過ぎて参上したりする間に、皆が琴をお止めになっては、まことに残念であろう」
 「長い間、人の話にだけ聞いていて、ぜひ伺わせていただきたいと願っていた姫君がたの御合奏が始まっているのだから、こんないい機会はない、しばらく物蔭ものかげに隠れてお聞きしていたいと思うが、そんな場所はあるだろうか。ずうずうしくこのままお座敷のそばへ行っては皆やめておしまいになるだろうから」
  "Tosi-goro, hitodute ni nomi kiki te, yukasiku omohu ohom-koto no ne-domo wo, uresiki wori kana! Sibasi, sukosi tati-kakure te kiku beki mono no kuma ari ya? Tuki-naku sasi-sugi te mawiri yora m hodo, mina koto yame tamahi te ha, ito ho'i nakara m."
3.2.8  とのたまふ。御けはひ、顔容貌の、さるなほなほしき心地にも、いとめでたくかたじけなくおぼゆれば、
 とおっしゃる。そのお振る舞い、容姿容貌が、そのようなつまらない男の考えでも、実に立派に恐れ多く見えたので、
 と言う薫の美しい風采ふうさいはこうした男をさえ感動させた。
  to notamahu. Ohom-kehahi, kaho katati no, saru naho-nahosiki kokoti ni mo, ito medetaku katazikenaku oboyure ba,
3.2.9  「 人聞かぬ時は、明け暮れかくなむ遊ばせど、下人にても、都の方より参り、立ちまじる人はべる時は、 音もせさせたまはず。おほかた、かくて女たちおはしますことをば 隠させたまひ、なべての人に知らせたてまつらじと、思しのたまはするなり」
 「誰も聞かない時には、明け暮れこのようにお弾きになりますが、下人であっても、都の方面から参って、加わっている人がある時は、お弾かせなさりません。だいたい、こうして女君たちがいらっしゃることをお隠しになり、世間の人にお知らせ申すまいと、お考えになりおっしゃっているのです」
 「だれも聞く人のおいでにならない時にはいつもこんなふうにしてお二方でいておいでになるのでございますが、下人げにんでも京のほうからまいった者のございます時は少しの音もおさせになりません。宮様は姫君がたのおいでになることをお隠しになる思召おぼしめしでそうさせておいでになるらしゅうございます」
  "Hito kika nu toki ha, ake-kure kaku nam asoba se do, simo-bito nite mo, miyako no kata yori mawiri, tati-maziru hito haberu toki ha, oto mo se sase tamaha zu. Ohokata, kakute womna-tati ohasimasu koto wo ba kakusa se tamahi, nabete no hito ni sirase tatematura zi to, obosi notamahasuru nari."
3.2.10  と申せば、うち笑ひて、
 と申し上げるので、ほほ笑みなさって、
 丁寧な恰好かっこうでこう言うと、薫は笑って、
  to mause ba, uti warahi te,
3.2.11  「 あぢきなき御もの隠しなり。しか忍びたまふなれど、 皆人、ありがたき世の例に、聞き出づべかめるを」とのたまひて、「 なほ、しるべせよ。われは、好き好きしき心など、なき人ぞ。かくておはしますらむ御ありさまの、あやしく、げに、なべてにおぼえたまはぬなり」
 「つまらないお隠しだてだ。そのようにお隠しになるというが、誰も皆、類まれな例として、聞き出すに違いないだろうに」とおっしゃって、「やはり、案内せよ。わたしは好色がましい心などは、持っていないのだ。こうしていらっしゃるご様子が、不思議で、なるほど、並々には思えないのだ」
 「それはむだなお骨折りと申すべきだ。そんなにお隠しになっても人は皆知っていて、りっぱな姫君の例にお引きするのだからね」と言ってから、「案内を頼む。私は好色漢では決してないから安心するがよい。そうしてお二人で音楽を楽しんでおいでになるところがただ拝見したくてならぬだけなのだよ」
  "Adikinaki ohom-mono kakusi nari. Sika sinobi tamahu nare do, mina hito, arigataki yo no tamesi ni, kiki-idu beka' meru wo." to notamahi te, "Naho, sirube se yo. Ware ha, suki-zukisiki kokoro nado, naki hito zo. Kakute ohasimasu ram ohom-arisama no, ayasiku, geni, nabete ni oboye tamaha nu nari."
3.2.12  とこまやかにのたまへば、
 と懇切におっしゃると、
 親しげに頼むと、
  to komayaka ni notamahe ba,
3.2.13  「 あな、かしこ心なきやうに、後の聞こえやはべらむ」
 「ああ、恐れ多い。物をわきまえぬ奴と、後から言われることがありましょう」
 「それはとてもたいへんなことでございます。あとになりまして私がどんなに悪く言われることかしれません」
  "Ana, kasiko. Kokoro-naki yau ni, noti no kikoye ya habera m?"
3.2.14   とて、あなたの御前は、竹の透垣しこめて、皆隔てことなるを、教へ寄せたてまつれり。御供の人は、西の廊に呼び据ゑて、この宿直人あひしらふ。
 と言って、あちらのお庭先は、竹の透垣を立てめぐらして、すべて別の塀になっているのを、教えてご案内申し上げた。お供の人は、西の廊に呼び止めて、この宿直人が相手をする。
 と言いながらも、その座敷とこちらの庭の間に透垣すいがきがしてあることを言って、そこの垣へ寄って見ることを教えた。薫の供に来た人たちは西のわたどのの一室へ皆通してこの侍が接待をするのだった。
  tote, anata no o-mahe ha, take no suigai si kome te, mina hedate koto naru wo, wosihe yose tatemature ri. Ohom-tomo no hito ha, nisi no rau ni yobi suwe te, kono Tonowi-bito ahi sirahu.
注釈132しばし聞かまほしきに接続助詞「に」原因理由の意。3.2.1
注釈133御けはひしるく聞きつけて薫の来訪の気配。3.2.1
注釈134しかしかなむ以下「聞こえさせめ」まで、宿直人の詞。3.2.2
注釈135何かしか限りある以下「慰むべき」まで、薫の詞。3.2.3
注釈136申させはべらむ宿直人の返事。「申さす」は「申す」より一段と遜った表現。「はべり」があるのでさらに丁重な返事の仕方。3.2.5
注釈137しばしや薫の呼び止めの詞。3.2.6
注釈138年ごろ人伝てに以下「いと本意なからむ」まで、薫の詞。3.2.7
注釈139御琴の音どもを姫君たちの琴の音色。接尾語「ども」複数を表す。3.2.7
注釈140つきなくさし過ぎて『集成』は「折も考えず出過ぎて」。『完訳』は「ぶしつけにもさしでがましく」と訳す。3.2.7
注釈141人聞かぬ時は以下「思しのたまはするなり」まで、宿直人の詞。3.2.9
注釈142音もせさせたまはず「せさせたまはず」二重敬語。主語は姫君たち。3.2.9
注釈143隠させたまひ主語は八宮。二重敬語。3.2.9
注釈144あぢきなき御もの隠しなり以下「聞き出づべかめるを」まで、薫の詞。3.2.11
注釈145皆人、ありがたき世の例に、聞き出づべかめるを『集成』は「世間では、世にも珍しい例として、お噂を聞き出して知っているらしいのに」。『完訳』は「世間ではみな世にもまれなお方の例として評判せずにはおくまいに」と訳す。3.2.11
注釈146なほしるべせよ以下「おぼえたまはぬなり」まで、薫の詞。3.2.11
注釈147あなかしこ以下「聞こえやはべらむ」まで、宿直人の詞。3.2.13
注釈148心なきやうに『集成』は「とんでもないことをしたと」。『完訳』は「物のわきまえのない者と」「情理をわきまえぬ者と」と訳す。3.2.13
校訂4 とて とて--とく(く/$て) 3.2.14
3.3
第三段 薫、姉妹を垣間見る


3-3  Kaoru peeps Hachi-no-miya's daughters

3.3.1   あなたに通ふべかめる透垣の戸を、すこし押し開けて見たまへば、月をかしきほどに霧りわたれるを眺めて、 簾を短く巻き上げて人びとゐたり。簀子に、いと寒げに、身細く萎えばめる童女一人、同じさまなる大人などゐたり。 内なる人一人、柱に少しゐ隠れて、琵琶を前に置きて、撥を手まさぐりにしつつゐたるに、雲隠れたりつる月の、にはかにいと明くさし出でたれば、
 あちらに通じているらしい透垣の戸を、少し押し開けて御覧になると、月が美しい具合に霧がかかっているのを眺めて、簾を短く巻き上げて、女房たちが座っている。簀子に、たいそう寒そうに、痩せてみすぼらしい着物の女童一人と、同じ姿をした大人などが座っていた。内側にいる人一人、柱に少し隠れて、琵琶を前に置いて、撥をもてあそびながら座っていたところ、雲に隠れていた月が、急にぱあっと明るく差し出たので、
 月が美しい程度に霧をきている空をながめるために、すだれを短く巻き上げて人々はいた。薄着で寒そうな姿をした童女が一人と、それと同じような恰好かっこうをした女房とが見える。座敷の中の一人は柱を少したてのようにしてすわっているが、琵琶を前へ置き、ばちを手でもてあそんでいた。この人は雲間から出てにわかに明るい月の光のさし込んで来た時に、
  Anata ni kayohu beka' meru suigai no to wo, sukosi osi-ake te mi tamahe ba, tuki wokasiki hodo ni kiri watare ru wo nagame te, sudare wo mizikaku maki-age te, hito-bito wi tari. Sunoko ni, ito samuge ni, mi hosoku naye-bame ru Warahabe hitori, onazi sama naru otona nado wi tari. Uti naru hito hitori, hasira ni sukosi wi kakure te, biha wo mahe ni oki te, bati wo te masaguri ni si tutu wi taru ni, kumo-gakure tari turu tuki no, nihaka ni ito akaku sasi-ide tare ba,
3.3.2  「 扇ならで、これしても、月は招きつべかりけり
 「扇でなくて、これでもっても、月は招き寄せられそうだわ」
 「扇でなくて、これでも月は招いてもいいのですね」
  "Ahugi nara de, kore si te mo, tuki ha maneki tu bekari keri."
3.3.3  とて、さしのぞきたる顔、いみじくらうたげに 匂ひやかなるべし
 と言って、外を覗いている顔、たいそうかわいらしくつやつやしているのであろう。
 と言って空をのぞいた顔は、非常に可憐かれんで美しいものらしかった。
  tote, sasi-nozoki taru kaho, imiziku rautage ni nihohiyaka naru besi.
3.3.4   添ひ臥したる人は、琴の上に傾きかかりて、
 添い臥している姫君は、琴の上に身をもたれかけて、
 横になっていたほうの人は、上半身を琴の上へ傾けて、
  Sohi-husi taru hito ha, koto no uhe ni katabuki kakari te,
3.3.5  「 入る日を返す撥こそありけれ、さま異にも思ひ及びたまふ御心かな」
 「入り日を戻す撥というのはありますが、変わったことを思いつきなさるお方ですこと」
 「入り日を呼ぶ撥はあっても、月をそれでお招きになろうなどとは、だれも思わないお考えですわね」
  "Iru hi wo kahesu bati koso ari kere, sama koto ni mo omohi oyobi tamahu mi-kokoro kana!"
3.3.6  とて、うち笑ひたるけはひ、今少し重りかによしづきたり。
 と言って、ちょっとほほ笑んでいる様子、もう少し落ち着いて優雅な感じがした。
 と言って笑った。この人のほうに貴女きじょらしい美は多いようであった。
  tote, uti-warahi taru kehahi, ima sukosi omorika ni yosi-duki tari.
3.3.7  「 及ばずとも、これも月に離るるものかは
 「そこまでできなくても、これも月に縁のないものではないわ」
 「でも、これだって月には縁があるのですもの」
  "Oyoba zu tomo, kore mo tuki ni hanaruru mono kaha!"
3.3.8  など、はかなきことを、うち解けのたまひ交はしたるけはひども、さらによそに思ひやりしには似ず、いとあはれになつかしうをかし。
 などと、とりとめもないことを、気を許して言い合っていらっしゃる二人の様子、まったく見ないで想像していたのとは違って、とても可憐で親しみが持て感じがよい。
 こんな冗談じょうだんを言い合っている二人の姫君は、薫がほかで想像していたのとは違って非常に感じのよい柔らかみの多い麗人であった。
  nado, hakanaki koto wo, uti-toke notamahi kahasi taru kehahi-domo, sarani yoso ni omohi-yari si ni ha ni zu, ito ahare ni natukasiu wokasi.
3.3.9  「 昔物語などに語り伝へて若き女房などの読むをも聞くに、かならずかやうのことを言ひたる、さしもあらざりけむ」と、憎く推し量らるるを、「 げに、あはれなるものの隈ありぬべき世なりけり」と、 心移りぬべし
 「昔物語などに語り伝えて、若い女房などが読むのを聞くにも、必ずこのようなことを言っていたが、そのようなことはないだろう」と、想像していたのに、「なるほど、人の心を打つような隠れたことがある世の中だったのだな」と、心が惹かれて行きそうである。
 女房などの愛読している昔の小説には必ずこうした佳人のことが出てくるのを、いつも不自然な作り事であると反感を持ったものであるが、事実として意外な所に意外なすぐれた女性の存在することを知ったと思うのであった。若い人は動揺せずにあられようはずもない。
  "Mukasi-monogatari nado ni katari tutahe te, wakaki nyoubau nado no yomu wo mo kiku ni, kanarazu kayau no koto wo ihi taru, sasimo ara zari kem." to, nikuku osihakara ruru wo, "Geni, ahare naru mono no kuma ari nu beki yo nari keri." to, kokoro uturi nu besi.
3.3.10  霧の深ければ、さやかに見ゆべくもあらず。 また、月さし出でなむと思すほどに、奥の方より、「人おはす」と 告げきこゆる人やあらむ、簾下ろして皆入りぬ。おどろき顔にはあらず、なごやかにもてなして、やをら隠れぬるけはひども、 衣の音もせず、いとなよよかに心苦しくて、いみじうあてにみやびかなるを、あはれと思ひたまふ。
 霧が深いので、はっきりと見ることもできない。再び、月が出て欲しいとお思いになっていた時に、奥の方から、「お客様です」と申し上げた人がいたのであろうか、簾を下ろして皆入ってしまった。驚いたふうでもなく、ものやわらかに振る舞って、静かに隠れた方々の様子、衣擦れの音もせず、とても柔らかくなっておいたわしい感じで、ひどく上品で優雅なのを、しみじみとお思いなさる。
 霧が深いために女王たちの顔を細かに見ることができないのを、もう一度また雲間を破って月が出てくれればいいと薫の願っているうちに、座敷の奥のほうから来客のあることを報じた者があったのか、御簾みすをおろして、縁側に出ていた人たちも中へはいってしまった。あわてたふうなどは見せずに、静かに奥へ皆が引っこんだ気配けはいには聞こえてこようはずの衣擦きぬずれの音も、新しい絹のがないのか添わないで寂しいが優雅で薫の心に深い印象を残した。
  Kiri no hukakere ba, sayaka ni miyu beku mo ara zu. Mata, tuki sasi-ide na m to obosu hodo ni, oku no kata yori, "Hito ohasu." to tuge kikoyuru hito ya ara m, sudare orosi te mina iri nu. Odoroki-gaho ni ha ara zu, nagoyaka ni motenasi te, yawora kakure nuru kehahi-domo, kinu no oto mo se zu, ito nayoyoka ni kokoro-gurusiku te, imiziu ate ni miyabika naru wo, ahare to omohi tamahu.
3.3.11   やをら出でて、京に、御車率て参るべく、人走らせつありつる侍に
 静かに出て、京に、お車を引いて参るよう、人を走らせた。先ほどの男に、
 薫は隙見すきみした場所を静かにはなれて、京へ車を呼ばせる使いを立てたりした。宮家の先刻の侍に、
  Yawora ide te, kyau ni, mi-kuruma wi te mawiru beku, hito hasirase tu. Arituru Saburahi ni,
3.3.12  「 折悪しく参りはべりにけれど、 なかなかうれしく、思ふことすこし慰めてなむ。かくさぶらふよし聞こえよ。いたう濡れにたるかことも聞こえさせむかし」
 「具合悪い時に参ってしまいましたが、かえって嬉しく、思いが少し慰められました。このように参った旨を申し上げよ。ひどく露に濡れた愚痴も申し上げたい」
 「宮様のお留守にあやにく伺ったのですが、あなたの好意で私は屈託を少し忘れることもできましたよ。私の伺ったことをお奥へ申し上げてください。山路やまみちの夜霧にれながら伺った奇特さを認めていただくつもりです」
  "Wori asiku mawiri haberi ni kere do, naka-naka uresiku, omohu koto sukosi nagusame te nam. Kaku saburahu yosi kikoye yo. Itau nure ni taru kakoto mo kikoye sase m kasi."
3.3.13  とのたまへば、 参りて聞こゆ
 とおっしゃると、参上して申し上げる。
 と薫が言うと、侍はすぐに奥へ行った。
  to notamahe ba, mawiri te kikoyu.
注釈149あなたに通ふべかめる透垣の戸を推量の助動詞「べかめる」は薫の推量。以下、薫の視点を通して叙述している。3.3.1
注釈150簾を短く巻き上げて『集成』は「高く」。『新大系』は「高く巻きあげる意か」。『完訳』は「簾を低く巻き上げて」と注す。3.3.1
注釈151人びとゐたり女房。3.3.1
注釈152内なる人一人以下、中君の描写。3.3.1
注釈153扇ならでこれしても月は招きつべかりけり中君の詞。扇で月を招くという故事について、『異本紫明抄』は「月重山に隠れぬれば、扇をあげて之を喩ふ」(和漢朗詠集、仏事)を指摘。3.3.2
注釈154匂ひやかなるべし推量の助動詞「べし」薫の推量。薫の視点を通して叙述する。3.3.3
注釈155添ひ臥したる人は大君。3.3.4
注釈156入る日を返す撥こそありけれ以下「御心かな」まで、大君の詞。『集成』は「夕日を呼び返す撥のことは聞いていますが、(月とは)変った思いつきをなさるのね」と訳す。『源氏釈』は「還城楽陵王を危ぶめむとするに、日の暮るれば、撥して日を手掻きたまふに、引き返されたる也」と注す。舞楽「陵王」の所作を踏まえた発言。3.3.5
注釈157及ばずともこれも月に離るるものかは「これ」は撥をさす。琵琶の撥を収める所を隠月というので無関係ではない、と言ったもの。3.3.7
注釈158昔物語などに語り伝へて以下「さしもあらざりけむ」まで、薫の心中を間接話法的に叙述。『宇津保物語』「俊蔭」巻、『落窪物語』などに零落した姫君が琴を弾く話が出てくる。3.3.9
注釈159げにあはれなるものの隈ありぬべき世なりけり薫の心中。3.3.9
注釈160心移りぬべし推量の助動詞「べし」は語り手の推量。『湖月抄』は「草子地に云也」と指摘。『集成』は「「心移りぬべし」は、薫の心中の思いをそのま地の文にしたもの」。『完訳』は「語り手の評言。薫に姫君への執心が起って不思議はないとする」と注す。3.3.9
注釈161また月さし出でなむ薫の心中。3.3.10
注釈162告げきこゆる人やあらむ薫の疑問。薫を通して語る叙述。3.3.10
注釈163衣の音もせず『集成』は「衣擦れの音もせず。着古して糊気が落ちた衣裳」と注す。3.3.10
注釈164やをら出でて京に御車率て参るべく人走らせつ主語は薫。帰りための牛車を迎えにやった。行きは微行のため馬で来た。3.3.11
注釈165ありつる侍に宿直人をいう。3.3.11
注釈166折悪しく以下「聞こえさせむかし」まで、薫の詞。3.3.12
注釈167なかなかうれしく思ふことすこし慰めてなむ父宮不在のためにかえって姫君たちの琴の音色を聴くことができてうれしい、の意。3.3.12
注釈168参りて聞こゆ宿直人が大君のもとに行って。3.3.13
出典10 扇ならで、これしても、月は招き 月隠重山兮 *[*=敬+手]扇喩之 風息大虚兮 動樹教之 和漢朗詠集下-五八七 3.3.2
校訂5 若き 若き--わかきわかき(わかき<前出>/$) 3.3.9
3.4
第四段 薫、大君と御簾を隔てて対面


3-4  Kaoru talks with the elder sister over misu

3.4.1   かく見えやしぬらむとは思しも寄らでうちとけたりつることどもを、聞きやしたまひつらむと、いといみじく恥づかし。あやしく、香うばしく匂ふ風の吹きつるを、思ひかけぬほどなれば、「 驚かざりける心おそさよ」と、心も惑ひて、恥ぢおはさうず。
 このように見られただろうかとはお考えにもならず、気を許して話していたことを、お聞きになったろうかと、実にたいそう恥ずかしい。不思議と、香ばしく匂う風が吹いていたのを、思いかけない時なので、「気がつかなかった迂闊さよ」と、気も動転して、恥ずかしがっていらっしゃる。
 薫が隙見をしたことなどは知らずに、いて遊んでいた琵琶や琴の音をあるいは聞かれたかもしれぬということで姫君たちは恥ずかしく思った。よい香の混じった風の吹き通ったことも確かな事実であったが、思いがけぬ時刻であったために、薫中将の来訪とは気のつかなかったのは、何たる神経の鈍いことであったろうと二女王は羞恥しゅうちに堪えられなく思うのであった。
  Kaku miye ya si nu ram to ha obosi mo yora de, utitoke tari turu koto-domo wo, kiki ya si tamahi tu ram to, ito imiziku hadukasi. Ayasiku, kaubasiku nihohu kaze no huki turu wo, omohi-kake nu hodo nare ba, "Odoroka zari keru kokoro ososa yo!" to, kokoro mo madohi te, hadi ohasauzu.
3.4.2   御消息など伝ふる人も、 いとうひうひしき人なめるを、「 折からにこそ、よろづのことも」と思いて、まだ霧の紛れなれば、ありつる御簾の前に歩み出でて、ついゐたまふ。
 ご挨拶などを伝える人も、とても物馴れていない人のようなので、「時と場合によって、何事も臨機応変に」とお思いになって、まだ霧でよく見えない時なので、先ほどの御簾の前に歩み出て、お座りになる。
 取り次ぎ役の侍の気のきかぬことがもどかしくなって、薫は無遠慮にあたるかもしれぬが、山荘住まいの現在の女王がたはとがめもされまいと思い、まだ霧の深い時間であったから、さっきのぞいたほうの座敷の縁へ歩いて行き、御簾みすの前へすわったのであった。
  Ohom-seusoko nado tutahuru hito mo, ito uhi-uhisiki hito na' meru wo, "Wori-kara ni koso, yorodu no koto mo." to oboi te, mada kiri no magire nare ba, arituru mi-su no mahe ni ayumi ide te, tui wi tamahu.
3.4.3  山里びたる若人どもは、さしいらへむ言の葉もおぼえで、御茵さし出づるさまも、たどたどしげなり。
 山里めいた若い女房たちは、お答えする言葉も分からず、お敷物を差し出す恰好も、たどたどしそうである。
 田舎いなか風のんだ若い女房などは客と応答する言葉もわからず、敷き物を出すことすら不馴ふなれであった。
  Yama-zato-bi taru wakaudo-domo ha, sasi-irahe m kotonoha mo oboye de, ohom-sitone sasi-iduru sama mo, tado-tadosige nari.
3.4.4  「 この御簾の前にははしたなくはべりけり。うちつけに浅き心ばかりにては、かくも尋ね参るまじき山のかけ路に思うたまふるを、さま異にこそ。かく 露けき度を重ねては、さりとも、御覧じ知るらむとなむ、頼もしうはべる」
 「この御簾の前では、きまり悪うございますよ。一時の軽い気持ちぐらいでは、こんなにも尋ねて参れないような難しい険しい山路と存じておりましたが、これは変わったお扱いで。このように露に濡れ濡れ何度も参ったら、いくらなんでも、ご存知でいらっしゃろうと、頼もしく存じております」
 「このお座敷の御簾の前にしか座が頂戴ちょうだいできないのでしょうか。あさはかな心だけでは決してたずねてまいれるものでないと、何里の夜路よみちをまいって自身でも認めうるのですから、御待遇を改めていただきたいものですね。たびたびこうしてこちらへ上がっております誠意だけはわかっていただいているものと頼もしくは思っております」
  "Kono mi-su no mahe ni ha, hasitanaku haberi keri. Uti-tuke ni asaki kokoro bakari nite ha, kaku mo tadune mawiru maziki yama no kake-miti ni omou tamahuru wo, sama koto ni koso. Kaku tuyukeki tabi wo kasane te ha, saritomo, go-ran-zi siru ram to nam, tanomosiu haberu."
3.4.5  と、いとまめやかにのたまふ。
 と、とてもまじめにおっしゃる。
 まじめに薫はこう言った。
  to, ito mameyaka ni notamahu.
3.4.6  若き人びとの、なだらかにもの聞こゆべきもなく、消え返りかかやかしげなるも、 かたはらいたければ女ばらの奥深きを起こし出づるほど、久しくなりて、わざとめいたるも苦しうて、
 若い女房たちが、すらすらと何か申し上げることもできず、正体もないほど恥ずかしがっているのも、見ていられないので、年配の女房で奥に寝ている者を起こし出している間、ひまどって、わざとらしいのも気の毒になって、
 若い女房にはこの応対にあたりうる者もなく、皆きまり悪く上気している者ばかりであったから、部屋へやへ下がって寝ているある一人を、起こしにやっている間の不体裁が苦しくて、大姫君は、
  Wakaki hito-bito no, nadaraka ni mono kikoyu beki mo naku, kiye-kaheri kakayakasige naru mo, kataharaitakere ba, womna-bara no oku hukaki wo okosi iduru hodo, hisasiku nari te, wazatomei taru mo kurusiu te,
3.4.7  「 何ごとも思ひ知らぬありさまにて、知り顔にも、いかばかりかは、聞こゆべく」
 「何事も存じませんわたくしどもで、知ったふうに、どうして、お答え申し上げられましょうか」
 「何もわからぬ者ばかりがいるのですから、わかった顔をいたしましてお返辞を申し上げることなどはできないのでございます」
  "Nani-goto mo omohi-sira nu arisama nite, siri-gaho ni mo, ikabakari kaha, kikoyu beku."
3.4.8  と、いとよしあり、あてなる声して、ひき入りながらほのかにのたまふ。
 と、たいそう優雅で、上品な声をして、引っ込みながらかすかにおっしゃる。
 と、品のよい、消えるような声で言った。
  to, ito yosi ari, ate naru kowe si te, hiki-iri nagara honoka ni notamahu.
3.4.9  「 かつ知りながら、憂きを知らず顔なるも、世のさがと思うたまへ知るを、 一所しも、あまりおぼめかせたまふらむこそ、口惜しかるべけれ。 ありがたう、よろづを思ひ澄ましたる御住まひなどにたぐひきこえさせたまふ御心のうちは、何ごとも涼しく推し量られはべれば、なほ、かく 忍びあまりはべる深さ浅さのほども、分かせたまはむこそ、かひははべらめ。
 「実は分かっておいでなのに、辛さを知らないふりをするのも、世の習いと存じておりますが、ほかならぬあなたが、あまりにそらぞらしいおっしゃりようをなさるのは、残念に存じます。めったになく、何事につけ悟り澄ましていらっしゃるご生活などに、ご一緒申されておいでのご心中は、万事涼しく推量されますから、やはり、このように秘めきれない気持ちの深さ浅さも、お分かりいただけることは、効がございましょう。
 「人生のさがわかりながら私の知らず顔をしていますのも、世の中のならわしに従っているだけなのです。宮様はすでに私の気持ちをお知りになっておられますのに、あなた様だけが俗世界の一人としか私をお認めくださらないのは残念です。世間を超越された宮様のこの御生活の中においでになりますあなた様がたのお心の境地は澄みきったものでしょうから、こうした男の志の深さ浅さも御明察くだすったらうれしいことだろうと私は思います。
  "Katu siri nagara, uki wo sira-zu-gaho naru mo, yo no saga to omou tamahe siru wo, hito-tokoro simo, amari obomeka se tamahu ram koso, kutiwosikaru bekere. Arigatau, yorodu wo omohi sumasi taru ohom-sumahi nado ni, taguhi kikoye sase tamahu mi-kokoro no uti ha, nani-goto mo suzusiku osihakara re habere ba, naho, kaku sinobi amari haberu hukasa asasa no hodo mo, waka se tamaha m koso, kahi ha habera me.
3.4.10  世の常の好き好きしき筋には、思しめし放つべくや。 さやうの方は、わざと勧むる人はべりとも、 なびくべうもあらぬ心強さになむ
 世の常の好色がましいこととは、違ってお考えいただけませんか。そのようなことは、ことさら勧める人がありましても、言う通りにはならない決心の強さです。
 世間並みの一時的な感情で御交際を求める男と同じように私を御覧になるのではありませんか。私がどんな誘惑にも打ち勝って来ている男であることは、すでに今までにお耳へはいっていることかとも思われます。
  Yo no tune no suki-zukisiki sudi ni ha, obosimesi hanatu beku ya! Sayau no kata ha, wazato susumuru hito haberi to mo, nabiku beu mo ara nu kokoro-duyosa ni nam.
3.4.11  おのづから聞こしめし合はするやうもはべりなむ。つれづれとのみ過ぐしはべる世の物語も、 聞こえさせ所に頼みきこえさせ、またかく、 世離れて、眺めさせたまふらむ御心の紛らはしにはさしも、驚かせたまふばかり聞こえ馴れはべらば、いかに思ふさまにはべらむ」
 自然とお聞き及びになることもございましょう。所在なくばかり過ごしております世間話も、聞いていただくお相手として頼み申し上げ、またこのように、世間から離れて、物思いあそばしていられるお心の気紛らわしには、そちらからそうと、話しかけてくださるほどに親しくさせていただけましたら、どんなにか嬉しいことでございましょう」
 独身生活を続けております私が求める友情をお許しくだすって、私もまた寂しいあなた様のお心を慰める友になりえて親密なおつきあいができましたらどんなにうれしいかと思われます」
  Onodukara kikosimesi ahasuru yau mo haberi na m. Ture-dure to nomi sugusi haberu yo no monogatari mo, kikoye sase dokoro ni tanomi kikoye sase, mata kaku, yo hanare te, nagame sase tamahu ram mi-kokoro no magirahasi ni ha, sasimo, odoroka se tamahu bakari kikoye nare habera ba, ikani omohu sama ni habera m."
3.4.12  など、多くのたまへば、つつましく、いらへにくくて、起こしつる老い人の出で来たるにぞ、譲りたまふ。
 などと、たくさんおっしゃると、遠慮されて、答えにくくて、起こした老人が出て来たので、お任せになる。
 などと薫の多く言うのに対して、大姫君は返辞がしにくくなって困っているところへ、起こしにやった老女が来たために、応答をそれに譲った。
  nado, ohoku notamahe ba, tutumasiku, irahe nikuku te, okosi turu Oyi-bito no ide-ki taru ni zo, yuduri tamahu.
注釈169かく見えやしぬらむとは思しも寄らで「かく」は薫に姿形をすっかり見られてしまったことをさす。3.4.1
注釈170うちとけたりつることどもを聞きやしたまひつらむ大君の心中。3.4.1
注釈171驚かざりける心おそさよ大君の心中。3.4.1
注釈172いとうひうひしき人なめるを連語「なめる」の推量の助動詞と断定の助動詞の主体は薫。薫の視点を通して叙述。3.4.2
注釈173折からにこそよろづのことも薫の心中。3.4.2
注釈174この御簾の前には以下「頼もしうはべる」まで、薫の詞。3.4.4
注釈175はしたなくはべりけり過去の助動詞「けり」詠嘆の意。3.4.4
注釈176露けき度を重ねては『集成』は「こうして、露に濡れ濡れ何度も参りましたなら。「度」に「旅」を響かす」と注す。3.4.4
注釈177かたはらいたければ主体は姫君。3.4.6
注釈178女ばらの奥深きを『完訳』は「奥のほうに寝ている年輩の女房を」と注す。3.4.6
注釈179何ごとも以下「聞こゆべく」まで、大君の詞。3.4.7
注釈180かつ知りながら以下「思ふさまにはべらむ」まで、薫の詞。「かつ」は大君の「何ごとも思ひ知らぬ」云々というのを受けていう。3.4.9
注釈181一所しも『集成』は「ほかならぬあなたが」と訳す。3.4.9
注釈182ありがたうよろづを思ひ澄ましたる御住まひなどに『完訳』は「以下、八の宮の道心に関連づけて大君の聰明さを称揚」と注す。3.4.9
注釈183たぐひきこえさせたまふ御心のうちは八宮と一緒に生活する大君の心についていう。3.4.9
注釈184忍びあまりはべる深さ浅さのほども薫の心をいう。3.4.9
注釈185さやうの方は「世の常の好き好きしき筋」をさす。3.4.10
注釈186なびくべうもあらぬ心強さになむ薫の決心の固いことをいう。3.4.10
注釈187聞こえさせ所に頼みきこえさせ主語は薫。大君を薫の話を聞いてくれる人として。『集成』は「聞いて頂けるお方と、頼りにさせて頂き。話の分る方として尊敬するという。最高の賛辞」と注す。3.4.11
注釈188世離れて眺めさせたまふらむ御心の紛らはしには主語は大君。3.4.11
注釈189さしも、驚かせたまふばかり聞こえ馴れはべらば『集成』は「そちらからお声をかけて頂くほど親しくさせて頂けましたら」。『完訳』は「そちらからお便りをくださるくらい親しくさせていただけるのでしたなら」と訳す。3.4.11
校訂6 御消息 御消息--御せうそと(と/$こ) 3.4.2
3.5
第五段 老女房の弁が応対


3-5  Old woman, Ben deals with Kaoru

3.5.1   たとしへなくさし過ぐして
 たとえようもなく出しゃばって、
 その女は出すぎた物言いをするのであった。
  Tatosihenaku sasi-sugusi te,
3.5.2  「 あな、かたじけなや。かたはらいたき御座のさまにもはべるかな。 御簾の内にこそ。若き人びとは、物のほど知らぬ やうにはべるこそ
 「まあ、恐れ多いこと。失礼なご座所でございますこと。御簾の中にどうぞ。若い女房たちは、物の道理を知らないようでございます」
 「まあもったいない、失礼なお席でございますこと。なぜ御簾みすの中へお席を設けませんでしたでしょう。若い人たちというものは人様の見分けができませんでねえ」
  "Ana, katazikena ya! Kataharaitaki o-masi no sama ni mo haberu kana! Mi-su no uti ni koso. Wakaki hito-bito ha, mono no hodo sira nu yau ni haberu koso."
3.5.3  など、 したたかに言ふ声のさだすぎたるも、かたはらいたく君たちは思す。
 などと、ずけずけと言う声が年寄じみているのも、きまり悪く姫君たちはお思いになる。
 などと老人らしい声で言っていることにも女王たちはきまり悪さを覚えていた。
  nado, sitataka ni ihu kowe no sada sugi taru mo, katahara-itaku Kimi-tati ha obosu.
3.5.4  「 いともあやしく世の中に住まひたまふ人の数にもあらぬ御ありさまにて、さもありぬべき人びとだに、訪らひ数まへきこえたまふも、見え聞こえずのみ なりまさりはべるめるにありがたき御心ざしのほどは数にもはべらぬ心にも、あさましきまで思ひたまへはべるを、 若き御心地にも思し知りながら、聞こえさせたまひにくきにやはべらむ
 「まことに妙に、世の中に暮らしていらっしゃる方のお仲間入りもなさらないご様子で、当然訪問してよい方々でさえ、人並み扱いにご訪問申される方々も、お見かけ申さないようにばかりなって行くようですので、もったいないお志のほどを、人数にも入らないわたしでも、意外なとまでお思い申し上げさせていただいておりますが、若い姫君たちもご存知でありながら、お申し上げなさりにくいのでございましょうか」
 「この世においでになる人の数にもおあたりになりませんようなお暮らしをあそばして、当然おいでにならなければならない方でさえも段々遠々しくばかりなっておしまいになりますのに、あなた様の御好意のかたじけなさは、私ども風情ふぜいのつまらぬ者さえも驚きの目をみはるばかりでございます。でございますから、お若い女王様がたも常に感激はしておいでになりながらも、そのとおりにお話しあそばすことはおできにならないのでございましょう」
  "Ito mo ayasiku, yononaka ni sumahi tamahu hito no kazu ni mo ara nu mi-arisama ni te, samo ari nu beki hito-bito dani, toburahi kazumahe kikoye tamahu mo, miye kikoye zu nomi nari masari habe' meru ni, arigataki mi-kokorozasi no hodo ha, kazu ni mo habera nu kokoro ni mo, asamasiki made omohi tamahe haberu wo, wakaki mi-kokoti ni mo obosi-siri nagara, kikoye sase tamahi nikuki ni ya habera m?"
3.5.5  と、いと つつみなくもの馴れたるも、なま憎きものから、けはひいたう人めきて、 よしある声なれば、
 と、まことに遠慮なく馴れ馴れしいのも、小憎らしい一方で、感じはたいそうひとかどの人物らしく、教養のある声なので、
  控えめにせず物なれたふうに言い続けることに反感は起こりながらも、この人の田舎いなか風でなく上流の女房生活をしたらしい品のよいこわづかいに薫は感心して、
  to, ito tutumi naku mono nare taru mo, nama nikuki monokara, kehahi itau hito meki te, yosi aru kowe nare ba,
3.5.6  「 いとたづきも知らぬ心地しつるに、うれしき 御けはひにこそ。何ごとも、げに、思ひ知りたまひける頼み、こよなかりけり」
 「まこと取りつく島もない気がしていたが、嬉しいおっしゃりようです。何事も、なるほど、ご存知であった頼もしさは、この上ないことです」
 「取りつきようもない皆さんばかりでしたのに、あなたが出て来てくださいまして、私の誠心誠意をくんでいてくださる方を得ましたことは、私の大きい幸福です」
  "Ito taduki mo sira nu kokoti si turu ni, uresiki ohom-kehahi ni koso. Nani-goto mo, geni, omohi-siri tamahi keru tanomi, koyonakari keri."
3.5.7  とて、寄り居たまへるを、 几帳の側より見れば、曙、やうやう物の色分かるるに、 げに、やつしたまへると見ゆる狩衣姿の、いと濡れしめりたるほど、「 うたて、この世の外の匂ひにや」と、あやしきまで薫り満ちたり。
 とおっしゃって、寄り掛かって座っていらっしゃるのを、几帳の側から見ると、曙の、だんだん物の色が見えてくる中で、なるほど、質素にしていらっしゃると見える狩衣姿が、たいそう露に濡れて湿っているのが、「何と、この世以外の匂いか」と、不思議なまで薫り満ちていた。
 こう御簾に身を寄せて言っている薫を、几帳きちょうの間からのぞいて見ると、あけぼのの光でようやく物の色がわかる時間であったから、簡単な服装をわざわざして来たらしい狩衣かりぎぬ姿の、夜露にれたのもわかったし、またこの世界のものでないような芳香もそこには漂っていることにも気づかれた。
  tote, yori-wi tamahe ru wo, kityau no soba yori mire ba, akebono, yau-yau mono no iro wakaruru ni, geni, yatusi tamahe ru to miyuru kariginu-sugata no, ito nure simeri taru hodo, "Utate, konoyo no hoka no nihohi ya!" to, ayasiki made kawori miti tari.
注釈190たとしへなくさし過ぐして弁の態度。明融臨模本には「老詞」という傍記がある。ここから弁の詞とする読みもあった。3.5.1
注釈191あなかたじけなや以下「知らぬやうにはべるこそ」まで、弁の詞。3.5.2
注釈192御簾の内にこそ係助詞「こそ」の下に「入れさせたまふべけれ」などの語句が省略。3.5.2
注釈193やうにはべるこそ係助詞「こそ」の下に「かたはらいたけれ」などの語句が省略。3.5.2
注釈194いともあやしく以下「にくきにやはべらむ」まで、弁の詞。『完訳』は「以下、不遇の八の宮をいう」と注す。3.5.4
注釈195世の中に住まひたまふ人の数にもあらぬ御ありさまにて『集成』は「八の宮の宇治での生活をいう」と注す。3.5.4
注釈196なりまさりはべるめるに推量の助動詞「めり」主観的推量は、話者である弁の主観的推量を表す。3.5.4
注釈197ありがたき御心ざしのほどは薫の訪問に対する感謝の気持ち。3.5.4
注釈198数にもはべらぬ心にも弁自身をいう。3.5.4
注釈199若き御心地にも思し知りながら聞こえさせたまひにくきにやはべらむ姫君についていう。3.5.4
注釈200つつみなくもの馴れたるもなま憎きものから『集成』は「老女の、人の応対に馴れた態度を、いやだと思う」。『完訳』は「無遠慮に男に応じなれているのも。以下、薫の、弁への感想」と注す。3.5.5
注釈201よしある声『集成』は「優雅な」。『完訳』は「声にも嗜みがうかがえるので」と注す。3.5.5
注釈202いとたづきも知らぬ心地以下「こよなかりけり」まで、薫の詞。明融臨模本に付箋「をちこちのたつきもしらぬ山中におほつかなくもよふことり哉」(古今集春上、二九、読人しらず)とある。『孟津抄』が指摘する。3.5.6
注釈203御けはひにこそ係助詞「こそ」の下に「あれ」などの語句が省略。3.5.6
注釈204几帳の側より見れば主語は弁。3.5.7
注釈205げにやつしたまへる女房たちの薫を見た感想。3.5.7
注釈206うたてこの世の外の匂ひにや女房たちの薫の発散する香の感想。『集成』は「極楽浄土の芳香はかくやと思う気持」と注す。3.5.7
校訂7 したたかに したたかに--した(た/+た)かゝ(ゝ/$)に 3.5.3
3.6
第六段 老女房の弁の昔語り


3-6  Ben talks about old times to Kaoru

3.6.1  この老い人はうち泣きぬ。
 この老人は泣き出した。
 この老女はどうしたのか泣きだした。
  Kono Oyi-bito ha uti-naki nu.
3.6.2  「 さし過ぎたる罪もやと、思うたまへ忍ぶれど、 あはれなる昔の御物語のいかならむついでにうち出で聞こえさせ、片端をも、ほのめかし知ろしめさせむと、年ごろ念誦のついでにも、うち交ぜ思うたまへわたるしるしにや、うれしき折にはべるを、まだきにおぼほれはべる涙にくれて、えこそ聞こえさせずはべりけれ」
 「出過ぎた者とのお咎めもあるやと、存じて控えておりますが、しみじみとした昔のお話の、どのような機会にお話申し上げ、その一部分を、ちらっとお耳に入れたいと、長年念誦の折にも、祈り続けてまいった効があってでしょうか、嬉しい機会でございますが、まだのうちから涙が込み上げて来て、申し上げることができませんわ」
 「あまり出すぎたことをしてお気持ちを悪くしましてはと存じまして、私は自分をおさえておりましたが、悲しい昔の話をどうかして機会を作りまして、少しでもお話しさせていただき、あなた様の御承知あそばさなかったことを、お知らせもしたいということを私は長い間仏様の念誦ねんずをいたしますにも混ぜて願っておりましたその効験で、こうしたおりが得られたのでしょうが、お話よりも先に涙におぼれてしまいまして、申し上げることができません」
  "Sasi-sugi taru tumi mo ya to, omou tamahe sinobure do, ahare naru mukasi no ohom-monogatari no, ika nara m tuide ni uti-ide kikoye sase, kata-hasi wo mo, honomekasi sirosimesa se m to, tosi-goro nenzyu no tuide ni mo, uti-maze omou tamahe wataru sirusi ni ya, uresiki wori ni haberu wo, madaki ni obohore haberu namida ni kure te, e koso kikoye sase zu haberi kere."
3.6.3  と、うちわななくけしき、まことにいみじくもの悲しと思へり。
 と、震えている様子、ほんとうにひどく悲しいと思っていた。
 身体からだふるわせて言う老女の様子に真剣味が見えて、
  to, uti-wananaku kesiki, makoto ni imiziku mono kanasi to omohe ri.
3.6.4   おほかた、さだ過ぎたる人は、涙もろなるものとは見聞きたまへど、いとかうしも思へるも、あやしうなりたまひて、
 だいたい、年老いた人は、涙もろいものとは見聞きなさっていたが、とてもこんなにまで思っているのも、不思議にお思いになって、
 老人はだれもよく泣くものであると知っているかおるであったが、こんなにまで悲しがるのが不思議に思われて、
  Ohokata, sada sugi taru hito ha, namida-moro naru mono to ha mi kiki tamahe do, ito kau simo omohe ru mo, ayasiu nari tamahi te,
3.6.5  「 ここに、かく参るをば、たび重なりぬるを、 かくあはれ知りたまへる人もなくてこそ、露けき道のほどに、独りのみそほちつれ。うれしきついでなめるを、言な残いたまひそかし」とのたまへば、
 「ここに、このように参ることは、度重なったが、このように物のあわれをご存知の方がいなくて、露っぽい道中で、一人だけ濡れました。嬉しい機会のようですので、すっかりおっしゃってください」とおっしゃると、
 「この御山荘へ伺うことになりましてからずいぶん年月はたちますが、こちらのほうにも一人もおなじみがなくて寂しくばかり思われていたのです。昔のことを知っておいでになるというあなたにおいすることができて、私はにわかに心強くなったのですから、この機会に何でもお話しください」と言った。
  "Koko ni, kaku mawiru wo ba, tabi-kasanari nuru wo, kaku ahare siri tamahe ru hito mo naku te koso, tuyu-keki miti no hodo ni, hitori nomi sohoti ture. Uresiki tuide na' meru wo, koto na nokoi tamahi so kasi." to notamahe ba,
3.6.6  「 かかるついでしも、はべらじかし。また、はべりとも、夜の間のほど知らぬ命の、頼むべきにもはべらぬを。さらば、ただ、 かかる古者、世にはべりけりとばかり、 知ろしめされはべらなむ
 「このような機会は、ございますまい。また、ございましても、明日をも知らない寿命を、当てにできません。それでは、ただ、このような老人が、世の中におったとだけ、ご存知いただきたい。
 「ほんとうにこんなよいおりはございません。またあるといたしましても、私は老人でございますから、それまでにどうなるかもしれたものではありませんので、ただこうした老女がいると申すことを覚えておいていただくためにお話しいたします。
  "Kakaru tuide simo, habera zi kasi. Mata, haberi tomo, yo no ma no hodo sira nu inoti no, tanomu beki ni mo habera nu wo. Saraba, tada, kakaru huru-mono, yo ni haberi keri to bakari, sirosimesa re habera nam.
3.6.7   三条の宮にはべりし小侍従、はかなくなりはべりにけると、ほの聞きはべりし。そのかみ、睦ましう思うたまへし同じほどの人、多く亡せはべりにける世の末に、 はるかなる世界より伝はりまうで来て、この五、六年のほどなむ、 これにかくさぶらひはべる。
 三条の宮におりました小侍従、亡くなってしまったと、ちらっと聞きました。その昔、親しく存じておりました同じ年配の者は、多く亡くなりました晩年に、遠い田舎から縁故を頼って上京して来て、この五、六年のほど、ここにこのようにしてお仕えております。
 三条の宮にお仕えしておりました小侍従がくなりましたことはほのかに聞いて承知しておりました。昔親しくいたしました同じ年ごろの人がたいてい亡くなりましたあとで、この五、六年こちらの宮家へ私は御奉公いたしております。
  Samdeu-no-miya ni haberi si Ko-Zizyuu, hakanaku nari haberi ni keru to, hono-giki haberi si. Sono-kami, mutumasiu omou tamahe si onazi hodo no hito, ohoku use haberi ni keru yo no suwe ni, haruka naru sekai yori tutahari maude ki te, kono itu-tose, mu-tose no hodo nam, kore ni kaku saburahi haberu.
3.6.8   知ろしめさじかし。このころ、 藤大納言と申すなる御兄の、 右衛門の督にて隠れたまひにしは、物のついでなどにや、かの御上とて、聞こしめし伝ふることもはべらむ。
 ご存知ではないでしょう、最近、藤大納言と申すお方の御兄君で、右衛門督でお亡くなりになった方は、何かの機会にか、あのお方の事として、お伝え聞きなさっていることはございましょう。
 ご存じではございますまい、ただいまとう大納言と申し上げます方のお兄様で、衛門督えもんのかみでおかくれになりました方のことを何かの話の中ででもお聞きになったことがございますでしょうか。
  Sirosimesa zi kasi. Kono-koro, Tou-Dainagon to mausu naru ohom-konokami no, Wemon-no-Kami nite kakure tamahi ni si ha, mono no tuide nado ni ya, kano ohom-uhe tote, kikosimesi tutahuru koto mo habera m.
3.6.9  過ぎたまひて、いくばくも隔たらぬ心地のみしはべる。その折の悲しさも、まだ袖の乾く折はべらず思うたまへらるるを、かくおとなしくならせたまひにける御齢のほども、 夢のやうになむ
 お亡くなりになって、まだいかほども経っていないような気ばかりがします。その時の悲しさも、まだ袖が乾く時の間もなく存じられますが、このように大きくおなりあそばしたお年のほども、夢のような思われます。
 私どもにとりましては、お亡れになりましたのがまだ昨日きのうのようにばかり思われまして、その時の悲しみが忘れられないのでございますが、数えてみますと、あなた様がこんな大人おとなにまでなっておいでになるだけの年月がたっているのでございますから、夢のようですよ。
  Sugi tamahi te, ikubaku mo hedatara nu kokoti nomi si haberu. Sono wori no kanasisa mo, mada sode no kahaku wori habera zu omou tamahe raruru wo, kaku otonasiku nara se tamahi ni keru ohom-yohahi no hodo mo, yume no yau ni nam.
3.6.10  かの権大納言の御乳母にはべりしは、 弁が母になむはべりし。朝夕に仕うまつり馴れはべりしに、 人数にもはべらぬ身なれど人に知らせず、御心よりはた余りけることを、折々うちかすめのたまひしを、今は限りになりたまひにし御病の末つ方に、召し寄せて、いささかのたまひ置くことなむはべりしを、聞こしめすべきゆゑなむ、一事はべれど、かばかり聞こえ出ではべるに、残りをと思しめす御心はべらば、のどかになむ、聞こしめし果てはべるべき。若き人びとも、かたはらいたく、さし過ぎたりと、つきじろひはべるも、ことわりになむ」
 あの故権大納言の御乳母でございました人は、弁の母でございました。朝夕に身近にお仕えいたしましたところ、物の数にも入らない身ですが、誰にも知らせず、お心にあまったことを、時々ちらっとお漏らしになりましたが、いよいよお最期とおなりになったご病気の末頃に、呼び寄せて、わずかにご遺言なさったことがございましたが、ぜひお耳に入れなければならない子細が、一つございますけれども、これだけ申し上げましたので、さらに続きをとお思いになるお考えがございましたら、改めてごゆっくり、すっかりお話し申し上げましょう。若い女房たちも、みっともなく、出過ぎた者と、非難するのも、もっともなことですから」
 私はつまらない女でございましたが、人に知らせてならぬことで、しかもお心でお思いになりますことを私には時々お話ししてくだすったのでございました。御病気がお悪くて、もう頼みのない時になりまして、私をお呼びになって、少し御遺言をあそばしたことがあるのでございます。それはあなた様に御関係のあるお話なのでございましたから、これだけお話を申し上げましたあとを、まだお聞きになりたく思召すのでございましたら、また別な時間をお作りくださいまし。若い女房たちは私が出てまいって、あまりに話し込んでおりますことで、出すぎた真似まねをするように、反感を持ちまして何か言っておりますのももっともなことでございますから」
  Kano Gon-no-Dainagon no ohom-menoto ni haberi si ha, Ben ga haha ni nam haberi si. Asayuhu ni tukau-maturi nare haberi si ni, hitokazu ni mo habera nu mi nare do, hito ni sirase zu, mi-kokoro yori hata amari keru koto wo, wori-wori uti-kasume notamahi si wo, ima ha kagiri ni nari tamahi si ohom-yamahi no suwe-tu-kata ni, mesiyose te, isasaka notamahi oku koto nam haberi si wo, kikosimesu beki yuwe nam, hito-koto habere do, kabakari kikoye ide haberu ni, nokori wo to obosimesu mi-kokoro habera ba, nodoka ni nam, kikosimesi hate haberu beki. Wakaki hito-bito mo, katahara-itaku, sasi-sugi tari to, tukizirohi haberu mo, kotowari ni nam."
3.6.11  とて、さすがにうち出でずなりぬ。
 と言って、さすがに最後まで言わずに終わった。
 さすがにこれだけにとめて老女はあとを言おうとしなかった。
  tote, sasuga ni uti-ide zu nari nu.
3.6.12  あやしく、夢語り、巫女やうのものの、問はず語りすらむやうに、めづらかに思さるれど、 あはれにおぼつかなく思しわたることの筋を聞こゆれば、いと奥ゆかしけれど、 げに、人目もしげし、さしぐみに古物語にかかづらひて、夜を明かし果てむも、 こちごちしかるべければ、
 不思議な、夢語り、巫女などのような者が、問わず語りをしているように、珍しい話と思わずにはいらっしゃれないが、しみじみと本当のことが知りたいと思い続けて来た方面のことを申し上げたので、ひどく先が知りたいが、なるほど、人目も多いし、不意に昔話にかかわって、夜を明かしてしまうのも、無作法であるから、
 怪しい夢のような話である。巫女みこなどが問わず語りをするようなものであると、薫は信を置きがたく思いながらも、始終心のすみから消すことのできない疑いに関したことであったから、なお話の核心に触れたくは思ったが、今もこの人が言ったように、女房たちが見ている所であって、老女と二人向き合って昔話に夜を明してしまうことも優雅なことではないと気がついて、
  Ayasiku, yume-gatari, kamnagi yau no mono no, toha-zu-gatari su ram yau ni, meduraka ni obosa rure do, ahare ni obotukanaku obosi wataru koto no sudi wo kikoyure ba, ito yukasikere do, geni, hitome mo sigesi, sasigumi ni huru-monogatari ni kakadurahi te, yoru wo akasi-hate m mo, koti-gotisikaru bekere ba,
3.6.13  「 そこはかと思ひ分くことは、なきものから、いにしへのことと聞きはべるも、ものあはれになむ。さらば、かならずこの残り聞かせたまへ。霧晴れゆかば、 はしたなかるべきやつれを、面なく御覧じとがめられぬべきさまなれば、 思うたまふる心のほどよりは、口惜しうなむ
 「はっきりと思い当たるふしは、ないものの、昔のことと聞きますのも、心をうちます。それでは、きっとこの続きをお聞かせください。霧が晴れていったら、見苦しいやつした姿を、無礼のお咎めを受けるに違いない姿なので、思っておりますように行かず、残念でなりません」
 「私には何の心あたりもないことですが、昔のお話であると思うと身にしみます。ですからぜひ今の話のあとをそのうちお聞かせください。霧が晴れて現わになっては恥ずかしい姿になっていて、私の心よりも劣った形を姫君がたのお目にかけることになるのは苦痛ですから失礼します」
  "Sokohaka to omohi waku koto ha, naki monokara, inisihe no koto to kiki haberu mo, mono ahare ni nam. Saraba, kanarazu kono nokori kika se tamahe. Kiri hare yuka ba, hasitanakaru beki yature wo, omonaku go-ran-zi togame rare nu beki sama nare ba, omou tamahuru kokoro no hodo yori ha, kutiwosiu nam."
3.6.14  とて、立ちたまふに、 かのおはします寺の鐘の声、かすかに聞こえて、霧いと深くたちわたれり。
 とおっしゃって、お立ちになると、あのいらっしゃる寺の鐘の音が、かすかに聞こえて、霧がたいそう深く立ち込めていた。
 と薫が言って、立った時に宮の行っておいでになる寺の鐘がかすかに聞こえてきた。霧はますます濃くなっていて、宮のおいでになる場所と山荘の隔たりが物哀れに感ぜられた。
  tote, tati tamahu ni, kano ohasimasu tera no kane no kowe, kasuka ni kikoye te, kiri ito hukaku tati watare ri.
注釈207さし過ぎたる罪もやと以下「聞こえさせずはべりけれ」まで、弁の詞。3.6.2
注釈208あはれなる昔の御物語の薫の過去に関する話。敬語「御」がついているので想像される。格助詞「の」所有格を表す。「かたはしをも」に係る。3.6.2
注釈209いかならむついでにうち出で聞こえさせ挿入句。3.6.2
注釈210おほかたさだ過ぎたる人は薫の視点を通しての叙述。3.6.4
注釈211ここにかく参るをば以下「言な残いたまひそかし」まで薫の詞。弁にすべて話すよう言う。3.6.5
注釈212かくあはれ知りたまへる人もなくて『集成』は「八の宮とは、経文を通じての学問的な問答がおもである」。『完訳』は「弁の「あはれなる御物語を受け、さらに前の「げに思ひしりたまひける頼み」もひびく」と注す。3.6.5
注釈213かかるついでしも以下「ことわりになむ」まで、弁の詞。3.6.6
注釈214かかる古者弁自身をいう。3.6.6
注釈215知ろしめされはべらなむ主語はあなた薫。終助詞「なむ」他に対するあつらえの願望の意。3.6.6
注釈216三条の宮にはべりし小侍従は柏木と女三宮との密通を手引した女三宮の乳母子(「若菜下」巻)。3.6.7
注釈217はるかなる世界より伝はりまうで来て遠い地方の国から縁故を頼って都に上ってきた、意。3.6.7
注釈218これにここに、の意。3.6.7
注釈219知ろしめさじかし以下の内容に係る句。3.6.8
注釈220藤大納言と申すなる紅梅大納言。「なる」伝聞推定の助動詞。3.6.8
注釈221右衛門の督にて隠れたまひにし柏木をいう。3.6.8
注釈222夢のやうになむ係助詞「なむ」の下に「思ふ」などの語句が省略。3.6.9
注釈223弁が母になむはべりし身分が下の者は上の人に向かって自分の名をいう。3.6.10
注釈224人数にもはべらぬ身なれど自分自身をいう。柏木の乳母子として仕えたことをいう。3.6.10
注釈225人に知らせず御心よりはた余りけることを主語は柏木。敬語「御」がついている。3.6.10
注釈226あはれにおぼつかなく思しわたることの筋『完訳』は「薫は前から出生の秘事を感知(匂宮)。真相を知った趣」と注す。3.6.12
注釈227げに人目もしげし「げに」は弁の「若き人びとも」云々を受けた薫の同意する気持ち。『集成』は「以下、薫の心中」と注す。3.6.12
注釈228そこはかと思ひ分くことはなきものから以下「口惜しうなむ」まで、薫の詞。『完訳』は「はっきり思い当るふしもないが。委細を知りたい気持から言う」と注す。3.6.13
注釈229はしたなかるべきやつれを身をやつした狩衣姿。3.6.13
注釈230思うたまふる心のほどよりは口惜しうなむ『集成』は「この私の心の内からいたしますれば、残念に存じます。心にまかせるあら、もっといたいのだが、という挨拶」と注す。3.6.13
注釈231かのおはします寺八宮がいらっしゃる寺。3.6.14
校訂8 こちごちしかる こちごちしかる--(/+こ)ちこ(こ/$)/\しかる 3.6.12
3.7
第七段 薫、大君と和歌を詠み交して帰京


3-7  Kaoru comes back to Kyoto after exchanging waka with the elder sister

3.7.1   峰の八重雲、思ひやる隔て多く 、あはれなるに、なほ、この姫君たちの御心のうちども心苦しう、「 何ごとを思し残すらむ。かく、いと奥まりたまへるも、ことわりぞかし」などおぼゆ。
 峰の幾重にも重なった雲の、思いやるにも隔てが多く、心痛むが、やはり、この姫君たちのご心中もおいたわしく、「物思いのありたけを尽くしていられよう。あのように、とても引っ込みがちでいらっしゃるのも、もっともなことだ」などと思われる。
 薫は姫君たちの心持ちを思いやって同情の念がしきりに動くのだった。二人とも引っ込みがちに内気なふうになるのも道理であるなどと思われた。
  Mine no yahe-kumo, omohi-yaru hedate ohoku, ahare naru ni, naho, kono Hime-Gimi-tati no mi-kokoro no uti-domo kokoro-gurusiu, "Nani-goto wo obosi nokosu ram. Kaku, ito okumari tamahe ru mo, kotowari zo kasi." nado oboyu.
3.7.2  「 あさぼらけ家路も見えず尋ね来し
 「夜も明けて行きますが帰る家路も見えません
  「朝ぼらけ家路も見えず尋ねこし
    "Asaborake ihedi mo miye zu tazune ko si
3.7.3   槙の尾山は霧こめてけり
  尋ねて来た槙の尾山は霧が立ち込めていますので
  まきの尾山は霧こめてけり
    maki no wo-yama ha kiri kome te keri
3.7.4   心細くもはべるかな
 心細いことですね」
 心細いことです」
  kokoro-bosoku mo haberu kana!"
3.7.5  と、立ち返りやすらひたまへるさまを、 都の人の目馴れたるだに、なほ、いとことに思ひきこえたるを、まいて、いかがはめづらしう見きこえざらむ御返り聞こえ伝へにくげに思ひたれば、例の、いとつつましげにて、
 と、引き返して立ち去りがたくしていらっしゃる様子を、都の人で見慣れた人でさえ、やはり、たいそう格別にお思い申し上げているのに、まして、どんなにか珍しく思わないことあろうか。お返事を申し上げにくそうに思っているので、いつものように、たいそう慎ましそうにして、
 と言って、またもとの席に帰って、川霧をながめている薫は、優雅な姿として都人の中にも定評のある人なのであるから、まして山荘の人たちの目はどれほど驚かされたかもしれない。だれも皆恥じて取り次ぐことのできないふうであるのを見て、大姫君がまたつつましいふうで自身で言った。
  to, tati-kaheri yasurahi tamahe ru sama wo, miyako no hito no me nare taru dani, naho, ito koto ni omohi kikoye taru wo, maite, ikaga ha medurasiu mi kikoye zara m. Ohom-kaheri kikoye tutahe nikuge ni omohi tare ba, rei no, ito tutumasige ni te,
3.7.6  「 雲のゐる峰のかけ路を秋霧の
 「雲のかかっている山路を秋霧が
  雲のゐる峰のかけぢを秋霧の
    "Kumo no wiru mine no kakedi wo aki-giri no
3.7.7   いとど隔つるころにもあるかな
  ますます隔てているこの頃です
  いとど隔つるころにもあるかな
    itodo hedaturu koro ni mo aru kana
3.7.8  すこしうち嘆いたまへるけしき、浅からずあはれなり。
 少し嘆いていらっしゃる様子、並々ならず胸を打つ。
 そのあとで歎息たんそくするらしい息づかいの聞こえるのも非常に哀れであった。
  Sukosi uti-nagei tamahe ru kesiki, asakara zu ahare nari.
3.7.9  何ばかりをかしきふしは見えぬあたりなれど、 げに、心苦しきこと多かるにも、明うなりゆけば、さすがにひた面なる心地して、
 何ほども風情の見えない辺りだが、なるほど、おいたわしいことが多くある中にも、明るくなって行くと、いくら何でも直接顔を合わせる感じがして、
 若い男の感情を刺激するような美しいものなどは何もない山荘ではあるが、こうした心苦しさから辞し去ることが躊躇ちゅうちょされる薫であった。しかも明るくなっていくことは恐ろしくて、
  Nani bakari wokasiki husi ha miye nu atari nare do, geni, kokoro-gurusiki koto ohokaru ni mo, akau nari-yuke ba, sasuga ni hita-omote naru kokoti si te,
3.7.10  「 なかなかなるほどに、承りさしつること多かる残りは、今すこし面馴れてこそは、恨みきこえさすべかめれ。さるは、かく世の人めいて、もてなしたまふべくは、思はずに、もの思し分かざりけりと、恨めしうなむ」
 「なまじお言葉を聞いたために、途中までしか聞けなかった思いの多くの残りは、もう少しお親しみになってから、恨み言も申し上げさせていただきましょう。一方では、このように世間の人並みに、お扱いなさることは、意外にもお分かりにならない方だと、恨めしくて」
 「お近づきしてかえってまた飽き足りません感を与えられましたが、もう少しおなじみになりましてからお恨みも申し上げることにしましょう。お恨みというのは形式どおりなお取り扱いを受けましたことで、誠意がわかっていただけなかったことです」
  "Naka-naka naru hodo ni, uketamahari sasi turu koto ohokaru nokori ha, ima sukosi omo-nare te koso ha, urami kikoye sasu beka' mere. Saruha, kaku yo no hito mei te, motenasi tamahu beku ha, omoha zu ni, mono obosi waka zari keri to, uramesiu nam."
3.7.11  とて、宿直人がしつらひたる西面におはして、眺めたまふ。
 と言って、宿直人が準備した西面にいらっしゃって、眺めなさる。
 こんな言葉を残したままあちらへ行った。そして宿直とのいの侍が用意してあった西向きの座敷のほうで休息した。
  tote, Tonowi-bito ga siturahi taru nisi-omote ni ohasi te, nagame tamahu.
3.7.12  「 網代は、人騒がしげなり。されど、氷魚も寄らぬにやあらむ。すさまじげなるけしきなり」
 「網代では、人が騒いでいるようだ。けれど、氷魚も寄って来ないのだろうか。景気の悪そうな様子だ」
 「網代あじろに人がたくさん寄っているようだが、しかも氷魚ひおは寄らないようじゃないか、だれの顔も寂しそうだ」
  "Aziro ha, hito sawagasige nari. Saredo, hiwo mo yora nu ni ya ara m. Susamazige naru kesiki nari."
3.7.13  と、御供の人びと見知りて言ふ。
 と、お供の人々は見知っていて言う。
 などと、たびたび供に来てこの辺のことがよくわかるようになっている薫の供の者は庭先で言っている。
  to, ohom-tomo no hito-bito mi siri te ihu.
3.7.14  「 あやしき舟どもに、柴刈り積み、おのおの何となき世の営みどもに、 行き交ふさまどものはかなき水の上に浮かびたる、誰も思へば同じことなる、世の常なさなり。 われは浮かばず、玉の台に静けき身と、思ふべき世かは」と 思ひ続けらる
 「粗末な幾隻もの舟に、柴を刈り積んで、それぞれ何ということもない生活に、上り下りしている様子に、はかない水の上に浮かんでいるが、誰も皆考えてみれば同じことである、無常の世だ。自分は水に浮かぶような様でなく、玉の台に落ち着いている身だと、思える世だろうか」と思い続けられずにはいられない。
 貧弱な船に刈ったしばを積んで川のあちらこちらを行く者もあった。だれも世を渡る仕事の楽でなさが水の上にさえ見えて哀れである。自分だけは不安なく玉のうてなに永住することのできるようにきめてしまうことは不可能な人生であるなどと薫は考えるのであった。
  "Ayasiki hune-domo ni, siba kari tumi, ono-ono nani to naki yo no itonami-domo ni, yuki-kahu sama-domo no, hakanaki midu no uhe ni ukabi taru, tare mo omohe ba, onazi koto naru, yo no tune nasa nari. Ware ha ukaba zu, tama no utena ni sidukeki mi to, omohu beki yo ka ha." to omohi tuduke raru.
3.7.15  硯召して、あなたに聞こえたまふ。
 硯を召して、あちらに申し上げなさる。
 薫はすずりを借りて奥へ消息を書いた。
  Suzuri mesi te, anata ni kikoye tamahu.
3.7.16  「 橋姫の心を汲みて高瀬さす
 「姫君たちのお寂しい心をお察しして
  橋姫の心をみて高瀬さす
    "Hasi-Hime no kokoro wo kumi te takase sasu
3.7.17   棹のしづくに袖ぞ濡れぬる
  浅瀬を漕ぐ舟の棹の、涙で袖が濡れました
  さをしづくそでれぬる
    sawo no siduku ni sode zo nure nuru
3.7.18   眺めたまふらむかし
 物思いに沈んでいらっしゃることでしょう」
 寂しいながめばかりをしておいでになるのでしょう。
  Nagame tamahu ram kasi."
3.7.19  とて、宿直人に持たせたまへり。いと寒げに、いららぎたる顔して持て参る。御返り、紙の香など、おぼろけならむ恥づかしげなるを、疾きをこそかかる折には、とて、
 と言って、宿直人にお持たせになった。たいそう寒そうに、鳥肌の立つ顔して持って上る。お返事は、紙の香などが、いいかげんな物では恥ずかしいが、早いのだけをこのような場合は取柄としよう、と思って、
 そしてこれを侍に持たせてやった。その男は寒そうに鳥肌とりはだになった顔で、女王の居間のほうへ客の手紙を届けに来た。返事を書く紙は香のきこめたものでなければと思いながら、それよりもまず早くせねばと、
  tote, Tonowi-bito ni mota se tamahe ri. Ito samuge ni, iraragi taru kaho si te mote mawiru. Ohom-kaheri, kami no ka nado, oboroke nara m hadukasige naru wo, toki wo koso kakaru wori ni ha, tote,
3.7.20  「 さしかへる宇治の河長朝夕の
 「棹さして何度も行き来する宇治川の渡し守は朝夕の雫に
  さしかへる宇治の川長かはをさ朝夕の
    "Sasi-kaheru Udi no kaha-wosa asayuhu no
3.7.21   しづくや袖を朽たし果つらむ
  濡れてすっかり袖を朽ちさせていることでしょう
  雫や袖をくたしはつらん
    siduku ya sode wo kutasi-hatu ram
3.7.22   身さへ浮きて
 身まで浮かんで」
 身も浮かぶほどの涙でございます。
  mi sahe uki te."
3.7.23  と、いとをかしげに書きたまへり。「まほにめやすくも ものしたまひけり」と、心とまりぬれど、
 と、実に美しくお書きになっていらっしゃた。「申し分なく感じの良い方だ」と、心が惹かれたが、
 大姫君は美しい字でこう書いた。こんなことも皆ととのった人であると薫は思い、心が多く残るのであったが、
  to, ito wokasige ni kaki tamahe ri. "Maho ni meyasuku mo monosi tamahi keri." to, kokoro tomari nure do,
3.7.24  「 御車率て参りぬ
 「お車を牽いて参りました」
 「お車が京からまいりました」
  "Mi-kuruma wi te mawiri nu."
3.7.25  と、人びと騒がしきこゆれば、宿直人ばかりを召し寄せて、
 と、供人が騒がしく申し上げるので、宿直人だけを召し寄せて、
 と言って、供の者が促し立てるので、薫は侍を呼んで、
  to, hito-bito sawagasi kikoyure ba, Tonowi-bito bakari wo mesiyose te,
3.7.26  「 帰りわたらせたまはむほどに、かならず参るべし
 「お帰りあそばしたころに、きっと参りましょう」
 「宮様がお帰りになりますころにまた必ずまいります」
  "Kaheri watara se tamaha m hodo ni, kanarazu mawiru besi."
3.7.27  などのたまふ。濡れたる御衣どもは、皆この人に脱ぎかけたまひて、取りに遣はしつる御直衣にたてまつりかへつ。
 などとおっしゃる。濡れたお召し物は、皆この人に脱ぎ与えなさって、取りにやったお直衣にお召し替えになった。
 などと言っていた。濡れた衣服は皆この侍に与えてしまった。そして取り寄せた直衣のうしに薫は着がえたのであった。
  nado notamahu. nure taru ohom-zo-domo ha, mina kono hito ni nugi-kake tamahi te, tori ni tukahasi turu ohom-nahosi ni tatematuri kahe tu.
注釈232峰の八重雲思ひやる隔て多く『花鳥余情』は「白雲のやへに重なるをちにても思はむ人に心へだつな」(古今集離別、三八〇、貫之)「思ひやる心ばかりはさはらじをなにへだつらむ峯の白雲」(後撰集離別・羈旅、一三〇七、橘直幹)を指摘。3.7.1
注釈233何ごとを思し残すらむ以下「ことわりぞかし」まで、薫の心中。『集成』は「さぞ物思いの限りを尽くしていられよう」と訳す。3.7.1
注釈234あさぼらけ家路も見えず尋ね来し槙の尾山は霧こめてけり薫から大君への贈歌。帰る気持ちがしない、という挨拶の歌。「槙の尾山」は宇治川右岸にある山、歌枕。3.7.2
注釈235心細くもはべるかな歌に添えた詞。心情を訴える。3.7.4
注釈236都の人の目馴れたるだになほいとことに思ひきこえたるをまいていかがはめづらしう見きこえざらむ『湖月抄』は「草子地に薫のさまをいへり」と注す。3.7.5
注釈237御返り聞こえ伝へにくげに思ひたれば主語は女房。3.7.5
注釈238雲のゐる峰のかけ路を秋霧のいとど隔つるころにもあるかな大君の返歌。「家路」を「かけ路」と変え、「霧」の語句はそのまま、「隔つ」を父宮と薫の間の意として返す。『集成』は「「峰の八重雲思ひやる隔て多くあはれなるに」とあった薫の思いと、期せずして同じ心を詠む」と注す。3.7.6
注釈239げに心苦しきこと多かるにも「なほこの姫君たちの御心うちども心苦しう」を受けた薫の納得した気持ち。3.7.9
注釈240なかなかなるほどに以下「恨めしうなん」まで、薫の詞。3.7.10
注釈241網代は以下「けしきなり」まで、供人の詞。3.7.12
注釈242あやしき舟どもに『集成』は「以下、薫の眼前の景、その思い」と注す。3.7.14
注釈243行き交ふさまどもの格助詞「の」は文脈上「を」と同じはたらきをし、「思ひ続けらる」にかかる。3.7.14
注釈244はかなき水の上に以下「思ふべき世かは」まで、薫の心中。3.7.14
注釈245われは浮かばず、玉の台に静けき身と、思ふべき世かは『完訳』は「このあたり「玉の台も同じことなり」(夕顔)とする源氏の無常観にも類似」と注す。3.7.14
注釈246思ひ続けらる「らる」自発の助動詞。3.7.14
注釈247橋姫の心を汲みて高瀬さす棹のしづくに袖ぞ濡れぬる薫から大君への贈歌。『河海抄』は「さむしろに衣かたしきこよひもや我を待つらむ宇治の橋姫」(古今集恋四、六八九、読人しらず)を指摘。3.7.16
注釈248眺めたまふらむかし歌に添えた詞。3.7.18
注釈249さしかへる宇治の河長朝夕のしづくや袖を朽たし果つらむ大君の返歌。「雫」「袖」の語句はそのまま用い、「橋姫」は「宇治」、「さす棹」は「さしかへる」と変え、「袖は濡れぬる」を舟長の棹の雫で「袖を朽たしはつらむ」と切り返した。3.7.20
注釈250身さへ浮きて歌に添えた詞。『源氏釈』は「さす棹の雫に濡るる袖ゆゑに身さへ浮きても思ほゆるかな」(出典未詳)を指摘。『集成』は「浅みこそ袖はひつらめ涙川身さへ流ると聞かば頼まむ」(古今集恋三、六一八、業平朝臣)を指摘。3.7.22
注釈251御車率て参りぬ供人の声。3.7.24
注釈252帰りわたらせたまはむほどにかならず参るべし薫の宿直人への詞。「帰る」の主語は八宮。3.7.26
出典11 峰の八重雲、思ひやる隔て 思ひやる心ばかりは障らじを何隔つらむ峰の白雲 後撰集離別-一三〇六 橘直幹 3.7.1
出典12 橋姫の心 さむしろに衣片敷き今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫 古今集恋四-六八九 読人しらず 3.7.16
出典13 身さへ浮きて さす棹の雫に濡るる袖ゆゑに身さへ浮きても思ほゆるかな 源氏釈所引-出典未詳 3.7.22
校訂9 ものし ものし--(/+も)のし 3.7.23
3.8
第八段 薫、宇治へ手紙を書く


3-8  Kaoru wrights a letter to Uji

3.8.1  老い人の物語、心にかかりて思し出でらる。思ひしよりは、こよなくまさりて、をかしかりつる御けはひども、面影に添ひて、「 なほ、思ひ離れがたき世なりけり」と、心弱く思ひ知らる。
 老人の話が、気にかかって思い出される。思っていたよりは、この上なく優れていて、立派だったご様子が、面影にちらついて、「やはり、思い離れがたいこの世だ」と、心弱く思い知らされる。
 薫は帰ってからも宇治の老女のした話が気にかかった。また姫君たちの想像した以上におおような、柔らかい感じのする美しい人であった面影が目に残って、捨て去ることは容易でない人生であることが心弱く思われもした。
  Oyi-bito no monogatari, kokoro ni kakari te obosi-ide raru. Omohi si yori ha, koyonaku masari te, wokasikari turu ohom-kehahi-domo, omokage ni sohi te, "Naho, omohi hanare gataki yo nari keri." to, kokoro-yowaku omohi-sira ru.
3.8.2  御文たてまつりたまふ。懸想だちてもあらず、白き色紙の厚肥えたるに、筆ひきつくろひ選りて、墨つき見所ありて書きたまふ。
 お手紙を差し上げなさる。懸想文めいてではなく、白い色紙で厚ぼったい紙に、筆は念入りに選んで、墨つきも見事にお書きになる。
 薫は消息を宇治の姫君へ書くことにした。それは恋の手紙というふうでもなかった。白い厚い色紙に、筆をえらんで美しく書いた。
  Ohom-humi tatematuri tamahu. Kesau-dati te mo ara zu, siroki sikisi no atu-goye taru ni, hude hiki-tukurohi eri te, sumi-tuki mi-dokoro ari te kaki tamahu.
3.8.3  「 うちつけなるさまにやと、あいなくとどめはべりて、残り多かるも苦しきわざになむ。片端聞こえおきつるやうに、今よりは、御簾の前も、心やすく思し許すべくなむ。 御山籠もり果てはべらむ日数も承りおきて、 いぶせかりし霧の迷ひも、はるけはべらむ
 「ぶしつけなようではないかと、むやみに差し控えまして、話し残したことが多いのも辛いことです。一部お話し申し上げておいたように、今からは、御簾の前も、気安くお許しくださいますように。お山籠もりが済みます日を伺っておきまして、霧に閉ざされた迷いも、晴れることでしょう」
 突然に伺った者が多く語り過ぎると思召おぼしめさないかと心がひけまして、何分の一もお話ができませんで帰りましたのは苦しいことでした。ちょっと申し上げましたように、今後はお居間の御簾の前へ御安心くだすって私の座をお与えください。お山ごもりがいつで終わりますかを承りたく思います。そのころ上がりまして、宮様にお目にかかれませんでした心を慰めたく存じております。
  "Utituke naru sama ni ya to, ainaku todome haberi te, nokori ohokaru mo kurusiki waza ni nam. Kata-hasi kikoye oki turu yau ni, ima yori ha, mi-su no mahe mo, kokoro-yasuku obosi yurusu beku nam. Mi-yama-gomori hate habera m hi-kazu mo uketamahari oki te, ibusekari si kiri no mayohi mo, haruke habera m."
3.8.4  などぞ、いとすくよかに書きたまへる。左近将監なる人、御使にて、
 などと、たいそう生真面目にお書きになっている。左近将監である人を、お使いとして、
 などとまじめに言ってあるのを、使いに出す左近将監さこんのじょうである人に渡して、
  nado zo, ito sukuyoka ni kaki tamahe ru. Sakon-no-zyou naru hito, ohom-tukahi nite,
3.8.5  「 かの老い人訪ねて、文も取らせよ
 「あの老人を訪ねて、手紙を渡すように」
 あの老女にって届けるように
  "Kano Oyi-bito tadune te, humi mo torase yo."
3.8.6  とのたまふ。宿直人が寒げにてさまよひしなど、あはれに思しやりて、大きなる桧破籠やうのもの、 あまたせさせたまふ
 とおっしゃる。宿直人が寒そうにしてうろうろしていたのなど、気の毒にお思いやりになって、大きな桧破子のようなものを、たくさん届けさせなさる。
 と薫は命じた。宿直の侍が寒そうな姿であちこちと用に歩きまわったのを哀れに思い出して、大きな重詰めの料理などを幾つも作らせて贈るのであった。
  to notamahu. Tonowi-bito ga samuge nite samayohi si nado, ahare ni obosi-yari te, ohoki naru hiwarigo yau no mono, amata se sase tamahu.
3.8.7  またの日、かの 御寺にもたてまつりたまふ。「山籠もりの僧ども、このころの嵐には、いと心細く苦しからむを、さておはしますほどの布施、賜ふべからむ」と思しやりて、絹、綿など多かりけり。
 翌日、あちらのお寺にも差し上げなさる。「山籠もりの僧たち、近頃の嵐には、とても心細く辛いだろうに、そうして籠もっていらっしゃる間のお布施を、なさらねばならないだろう」とご想像になって、絹、綿など多かった。
 そのまた宮のおこもりになった寺のほうへも薫は贈り物を差し上げた。山ごもりの僧たちも寒さに向かう時節であるから心細かろうと思いやって、宮からその人々へ布施としてお出しになるようにと絹とか、綿とかも多く贈った。
  Mata no hi, kano mi-tera ni mo tatematuri tamahu. "Yama-gomori no sou-domo, kono-koro no arasi ni ha, ito kokoro-bosoku kurusikara m wo, sate ohasimasu hodo no huse, tamahu bekara m." to obosi-yari te, kinu, wata nado ohokari keri.
3.8.8  御行ひ果てて、出でたまふ朝なりければ、行ひ人どもに、綿、絹、袈裟、衣など、すべて一領のほどづつ、ある限りの大徳たちに賜ふ。
 ご勤行が終わって、下山なさる朝だったので、修行者たちに、綿、絹、袈裟、法衣など、総じて一領ずつ、いるすべての大徳たちにお与えになる。
 おこもりを済ませて寺からお帰りになろうとされる日であったから、ごいっしょにこもった法師たちへ、綿、絹、袈裟けさ、衣服などをだれにも一つずつは分かたれるようにして、全体へ宮からお下賜になった。
  Ohom-okonahi hate te, ide tamahu asita nari kere ba, okonahi-bito-domo ni, wata, kinu, kesa, koromo nado, subete hito-kudari no hodo dutu, aru kagiri no Daitoko-tati ni tamahu.
3.8.9  宿直人が、 御脱ぎ捨ての、艶にいみじき狩の御衣ども、えならぬ白き綾の御衣の、なよなよといひ知らず匂へるを、移し着て、身をはた、え変へぬものなれば、 似つかはしからぬ袖の香を人ごとにとがめられ、めでらるるなむ、なかなか所狭かりける。
 宿直人は、お脱ぎ捨てになった、優艷で立派な狩のお召物の、何ともいえない白い綾織物の、柔らかでいいようもなく匂っているのを、そのまま身に着けて、身は変えることのできないものなので、似つかわしくない袖の香を、会う人ごとに怪しまれたり、褒められたりするのが、かえって身の置きどころがないのであった。
 宿直とのいの侍は薫の脱いで行ったえん狩衣かりぎぬ、高級品の白綾しらあやの衣服などの、なよなよとして美しい香のするのを着たが、自身だけは作り変えることができないのであるから似合わしくない香が放散するのを、だれからも怪しまれるので迷惑をしていた。
  Tonowi-bito ga, ohom-nugi sute no, em ni imiziki kari no ohom-zo-domo, e nara nu siroki aya no ohom-zo no, nayo-nayo to ihi sira zu nihohe ru wo, utusi ki te, mi wo hata, e kahe nu mono nare ba, nitukahasikara nu sode no ka wo, hito goto ni togame rare, mede raruru nam, naka-naka tokoro-sekari keru.
3.8.10  心にまかせて、身をやすくも振る舞はれず、 いとむくつけきまで、人のおどろく匂ひを、失ひてばやと思へど、 所狭き人の御移り香にて、えもすすぎ捨てぬぞ、あまりなるや。
 思いのままに、身を気軽に振る舞うこともきず、とても気持ち悪いまでに、人が驚く匂いを、無くしたいものだと思うが、大層な方の御移り香なので、洗い捨てることもできないのが、困ったものであるよ。
 着物のために不行儀もできず、人の驚異とする高いにおいをなくしたいと思ったが、すすぐことのできないのに苦しんでいるのも滑稽こっけいであった。
  Kokoro ni makase te, mi wo yasuku mo hurumaha re zu, ito mukutukeki made, hito no odoroku nihohi wo, usinahi te baya to omohe do, tokoro-seki hito no ohom-uturi-ga nite, e mo susugi sute nu zo, amari naru ya!
注釈253なほ思ひ離れがたき世なりけり薫の心中。自省の気持ち。『集成』は「薫の気持に即した書き方」と注す。3.8.1
注釈254うちつけなるさまにやと以下「はるけはべらむ」まで、薫から大君への手紙。3.8.3
注釈255御山籠もり果てはべらむ日数も八宮の山籠もりをいう。3.8.3
注釈256いぶせかりし霧の迷ひもはるけはべらむ『完訳』は「薫が霧に濡れてむなしく帰ったが、彼に応じない大君の薄情さ。二人の「霧」の贈答歌の憂愁の思いも重なる」と注す。3.8.3
注釈257かの老い人訪ねて文も取らせよ薫の詞。3.8.5
注釈258あまたせさせたまふ『集成』は「たくさん用意させなさる」。『完訳』は「たくさん用意させてお持たせになる」と訳す。3.8.6
注釈259御寺にもたてまつりたまふ係助詞「も」同類を表すが、「御使」をさす。当然に捧げ物(お布施)も持参した。3.8.7
注釈260御脱ぎ捨ての艶にいみじき狩の御衣ども薫が宿直人に与えた衣服をさす。3.8.9
注釈261似つかはしからぬ袖の香を『休聞抄』は「梅の花立ち寄るばかりありしより人のとがむる香にぞしみける」(古今集春上、三五、読人しらず)を指摘。3.8.9
注釈262いとむくつけきまで以下「失ひてばや」まで、宿直人の心中、間接的叙述。3.8.10
注釈263所狭き人の御移り香にて以下「あまりなるや」まで、『孟津抄』は「草子地也」。『集成』は「諧謔を弄した草子地」と注す。3.8.10
出典14 人ごとにとがめられ 梅の花立ち寄るばかりありしより人のとがむる香にぞしみぬる 古今集春上-三五 読人しらず 3.8.9
3.9
第九段 薫、匂宮に宇治の姉妹を語る


3-9  Kaoru talks about Hachi-no-miya's daughers to Nio-no-miya

3.9.1  君は、姫君の御返りこと、いとめやすく子めかしきを、をかしく見たまふ。宮にも、「 かく御消息ありき」など、人びと聞こえさせ、御覧ぜさすれば、
 君は、姫君のお返事が、とてもよく整っていておおようなのを、風情があると御覧になる。父宮にも、「このようにお手紙がありました」などと、女房たちが申し上げ、御覧に入れると、
 薫は姫君の返事の感じよく若々しく書かれたのを見てうれしく思った。宇治では寺からお帰りになった宮へ、女房たちが薫から手紙の送られたことを申し上げてそれをお目にかけた。
  Kimi ha, Hime-Gimi no ohom-koto, ito meyasuku ko-mekasiki wo, wokasiku mi tamahu. Miya ni mo, "Kaku ohom-seusoko ari ki." nado, hito-bito kikoye sase, go-ran-ze sasure ba,
3.9.2  「 何かは。懸想だちてもてないたまはむも、なかなかうたてあらむ。例の若人に似ぬ御心ばへなめるを、 亡からむ後もなど、一言うちほのめかしてしかば、さやうにて、心ぞとめたらむ」
 「いや、なに。懸想めいてお扱いなさるのも、かえって嫌なことであろう。普通の若い人に似ないご性格のようだから、亡くなった後もなどと、一言ほのめかしておいたので、そのような気持ちで、心にかけているのだろう」
 「これは求婚者扱いに冷淡になどする性質の相手ではないよ。そんなふうを見せてはかえってこちらの恥になるよ。普通の若者とは違ったすぐれた人格者だから、自分がいなくなったらと、こんなことをただ一言でも言っておけば遺族のために必ず尽くしてくれる心だと私は見ている」
   "Nanikaha! Kesau-dati te motenai tamaha m mo, naka-naka utate ara m. Rei no wakaudo ni ni nu mi-kokorobahe na' meru wo, nakara m noti mo nado, hito-koto uti-honomekasi te sika ba, sayau ni te, kokoro zo tome tara m."
3.9.3  などのたまうけり。御みづからも、さまざまの御とぶらひの、山の岩屋にあまりしことなどのたまへるに、 参うでむと思して、「 三の宮の、かやうに奥まりたらむあたりの、見まさりせむこそ、をかしかるべけれと、あらましごとにだにのたまふものを、 聞こえはげまして御心騒がしたてまつらむ」と思して、のどやかなる 夕暮に参りたまへり
 などとおっしゃるのであった。ご自身も、さまざまなお見舞い品が、山寺にあふれたことなどをおっしゃっているころに、参ろうとお思いになって、「三の宮が、このように奥まった所に住む女が、会えば見まさりするのは、おもしろいことだろうと、せいぜい想像するだけでおっしゃっているのも、羨ましがらせて、お気持ちを揉ませ申そう」とお考えになって、のんびりした夕暮に参上なさった。
 などと宮はお言いになった。宮から山寺の客に過ぎた見舞いの品々の贈られた好意を感謝するというお手紙をいただいたので、また宇治へ御訪問をしようと思った薫は、匂宮におうみやがああしたような、人に忘られた所にいる佳人を発見するのはおもしろいことであろう、予期以上に接近して心のかれる恋がしてみたいと、そんな空想をしておいでになることを思い、宇治の女王にょおうたちの話を、やや誇張も加えてお告げすることによって、宮のお心を煽動してみようと思い、閑暇ひまな日の夕方に兵部卿ひょうぶきょうの宮をおたずねしに行った。
  nado notamau keri. Ohom-midukara mo, sama-zama no ohom-toburahi no, yama no ihaya ni amari si koto nado notamahe ru ni, maude m to obosi te, "Sam-no-Miya no, kayau ni okumari tara m atari no, mi-masari se m koso, wokasikaru bekere to, aramasi-goto ni dani notamahu mono wo, kikoye hagemasi te, mi-kokorosawagasi tatematura m." to obosi te, nodoyaka naru yuhugure ni mawiri tamahe ri.
3.9.4  例の、さまざまなる御物語、聞こえ交はしたまふついでに、宇治の宮の御こと語り出でて、 見し暁のありさまなど、詳しく聞こえたまふに、宮、いと切にをかしと思いたり。
 いつもものように、いろいろなお話をおとり交わしなさる折に、宇治の宮のことを話し出して、見た早朝の様子などを、詳しく申し上げなさると、宮は、切に興味深くお思いになった。
 例のとおりにいろいろな話をしたあとで、薫は宇治の宮のことを語り出した。霧の夜明けに隙見すきみしたことをくわしく説明するのには宮も興味を覚えておいでになった。
  Rei no, sama-zama naru ohom-monogatari, kikoye-kahasi tamahu tuide ni, Udi-no-Miya no ohom-koto katari-ide te, mi si akatuki no arisama nado, kuhasiku kikoye tamahu ni, Miya, ito seti ni wokasi to oboi tari.
3.9.5   さればよと、御けしきを見て、いとど御心動きぬべく言ひ続けたまふ。
 やはり予想通りであったと、お顔色を見て、ますますお心が動くように話し続けなさる。
 理想的な姫君だったと、薫はおおげさに技巧を用いて宇治の女王の美を語り続けるのであった。
  Sarebayo to, mi-kesiki wo mi te, itodo mi-kokoro ugoki nu beku ihi tuduke tamahu.
3.9.6  「 さて、そのありけむ返りことは、などか見せたまはざりし。 まろならましかば」と恨みたまふ。
 「ところで、その来たお返事は、どうしてお見せ下さらなかったのですか。わたしだったなら」とお恨みになる。
 「その女王のお返事を、なぜ私に見せてくれなかったのですか。私だったら親友には見せるがね」と宮はお恨みになった。
  "Sate, sono ari kem kaheri-koto ha, nadoka mise tamaha zari si. Maro nara masika ba." to urami tamahu.
3.9.7  「 さかし。いとさまざま 御覧ずべかめる端をだに、 見せさせたまはぬ。かのわたりは、 かくいとも埋れたる身に、ひき籠めてやむべきけはひにもはべらねば、かならず御覧ぜさせばや、と思ひたまふれど、 いかでか尋ね寄らせたまふべき。かやすきほどこそ、好かまほしくは、いとよく好きぬべき世にはべりけれ。うち隠ろへつつ多かめるかな。
 「そうです。実にいろいろと御覧になるような一部分さえ、お見せ下さらない。あのあたりは、このようにとても陰気くさい男が、独占していてよい人とも思えませんので、きっと御覧に入れたい、と存じますが、どうしてお訪ねなさることができましょう。気軽な身分の者こそ、浮気がしたければ、いくらでも相手のいる世の中でございます。人目につかない所では多いようですね。
 「そうですね。あなたはたくさんのお手もとへまいる手紙の片端すらお見せになりません。あちらの女王がたのことは私のような欠陥のある人間などの対象にしておくべきではありませんから、ぜひあなたのお目にかけたい方々だと思っているのですが、どんなふうにすれば御接近ができるでしょう。身分のない者は恋愛がしたければ自由に恋愛もできるのですから、皆それ相当におもしろい恋愛生活はしているようですがね。
  "Sakasi. Ito sama-zama go-ran-zu beka' meru hasi wo dani, mise sase tamaha nu. Kano watari ha, kaku ito mo mumore taru mi ni, hiki-kome te yamu beki kehahi ni mo habera ne ba, kanarazu go-ran-ze sase baya, to omohi tamahure do, ikadeka tadune yora se tamahu beki. Kayasuki hodo koso, suka mahosiku ha, ito yoku suki nu beki yo ni haberi kere. Uti-kakurohe tutu ohoka' meru kana!
3.9.8   さるかたに見所ありぬべき女の、もの思はしき、うち忍びたる住み処ども、山里めいたる隈などに、おのづからはべべかめり。 この聞こえさするわたりは、いと世づかぬ聖ざまにて、こちごちしうぞあらむ、年ごろ、思ひあなづりはべりて、耳をだにこそ、とどめはべらざりけれ。
 それ相応に魅力のある女で、物思いして、こっそり住んでいる家々が、山里めいた隠れ処などに、自然といるようでございます。この申し上げるあたりは、たいそう世間離れした聖ふうで、ごつごつしたようであろうと、長い間、軽蔑しておりまして、耳をさえ、止めませんでした。
 男の興味をくような女が物思いをしながら、世間の目から隠れて住んでいるようなことも郊外とか田舎いなかとかにはあるのですね。その話の女性たちも人間離れのした信心くさい、堅い感じのする人たちであろうと、私は長く軽蔑けいべつして考えていまして、少しも興味が持てなかったものです。
  Saru kata ni mi-dokoro ari nu beki womna no, mono-omohasiki, uti-sinobi taru sumika-domo, yamazato-mei taru kuma nado ni, onodukara habe' beka' meri. Kono kikoye sasuru watari ha, ito yoduka nu hiziri-zama nite, koti-gotisiu zo ara m, tosi-goro, omohi-anaduri haberi te, mimi wo dani koso, todome habera zari kere.
3.9.9   ほのかなりし月影の見劣りせずは、まほならむはや。けはひありさま、はた、さばかりならむをぞ、あらまほしきほどとは、おぼえはべるべき」
 ほのかな月光の下で見た通りの器量であったら、十分なものでしょうよ。感じや態度は、それはまた、あの程度なのを、理想的な女とは、思うべきでしょう」
 ほのかな月の光で見た目が誤っておりませんでしたら、確かに欠点のない美人です。様子といい、身のとりなしといい、それだけの人は美の極致としてよいことになるかと思います」
  Honoka nari si tuki-kage no mi-otori se zu ha, maho nara m haya! Kehahi arisama, hata, sabakari nara m wo zo, aramahosiki hodo to ha, oboye haberu beki."
3.9.10  など聞こえたまふ。
 などと申し上げなさる。
 と薫は言うのである。
  nado kikoye tamahu.
3.9.11   果て果ては、まめだちていとねたく、「 おぼろけの人に心移るまじき人の、かく深く思へるを、 おろかならじ」と、ゆかしう思すこと、限りなくなりたまひぬ。
 しまいには、本気になってとても憎らしく、「並大抵の女に心を移しそうにない人が、このように深く思っているのを、いい加減なことではないだろう」と、興味をお持ちになることは、この上なく高まった。
 しまいには宮は真心から、普通の人などに心のかれることのない人がこれほど熱心にたたえるのはすぐれた美貌びぼうの主に違いないとお信じになるようになり、非常な興味を宇治の女王たちにお持ちになることになった。
  Hate-hate ha, mame-dati te ito netaku, "Oboroke no hito ni kokoro uturu maziki hito no, kaku hukaku omohe ru wo, oroka nara zi." to, yukasiu obosu koto, kagirinaku nari tamahi nu.
3.9.12  「 なほ、またまた、よくけしき見たまへ
 「さらに、またまた、よく様子を探って下さい」
 「今後もよくさぐって来て私に知らせてください」
  "Naho, mata-mata, yoku kesiki mi tamahe."
3.9.13  と、人を勧めたまひて、 限りある御身のほどのよだけさを、厭はしきまで、心もとなしと思したれば、をかしくて、
 と、相手を勧めなさって、制約あるご身分の高さを、疎ましいまでに、いらだたしく思っていらっしゃるので、おもしろくなって、
 宮はこうお言いになって、御自身の自由の欠けた尊貴さをいとわしくお思いになるふうまでもお見せになるのを、薫はおかしく思った。
  to, hito wo susume tamahi te, kagiri aru ohom-mi no hodo no yodakesa wo, itohasiki made, kokoro-motonasi to obosi tare ba, wokasiku te,
3.9.14  「 いでや、よしなくぞはべる。しばし、世の中に心とどめじと思うたまふるやうある身にて、なほざりごともつつましうはべるを、 心ながらかなはぬ心つきそめなば、おほきに思ひに違ふべきことなむ、はべるべき」
 「いや、つまらないことでございます。暫くの間も、世の中に執着心を持つまい思っておりますこの身で、ほんの遊びの色恋沙汰も気が引けますが、我ながら抑えかねる気持ちが起こったら、大いに思惑違いのことも、起こりましょう」
 「しかし、そうした危険なことはしないほうがいいですね。この世へ執着を作るべきでないという信念を持っております私が、そうした中へはいって行って、自分ながら抑制できませんようなことになっては、すべての理想がこわれてしまうでしょうから」
  "Ideya, yosi naku zo haberu. Sibasi, yononaka ni kokoro todome zi to omou tamahuru yau aru mi nite, nahozari-goto mo tutumasiu haberu wo, kokoro nagara kanaha nu kokoro tuki some na ba, ohoki ni omohi ni tagahu beki koto nam, haberu beki."
3.9.15  と聞こえたまへば、
 と申し上げなさると、

  to kikoye tamahe ba,
3.9.16  「 いで、あな、ことことし。例の、おどろおどろしき聖言葉、見果ててしがな」
 「いや、まあ、大げさな。例によって、物々しい修行者みたいな言葉を、最後まで見てみたいものだ」
 「たいそうだね、例のとおりの坊様くさいことを言っている君のその態度がいつまで続くか見たいものだ」
  "Ide, ana, koto-kotosi. Rei no, odoro-odorosiki ohom-hiziri-kotoba, mi-hate te si gana!"
3.9.17  とて笑ひたまふ。 心のうちにはかの古人のほのめかしし筋などの、いとどうちおどろかれて、ものあはれなるに、 をかしと見ることも、めやすしと聞くあたりも何ばかり心にもとまらざりけり
 と言ってお笑いになる。心の中では、あの老人がちらっと言った話などが、ますます心を騒がせて、何となく物思いがちなのに、心をとめかすことも、美しいと聞く人のことも、どれほども心に止まらないのだった。
 宮はお笑いになった。薫の心は宇治の宮で老女がほのめかした話からまた古い疑問が擡頭たいとうしていて、人生が悲しく見えてならないこのごろであったから、美しい感じを受けたことにも、ほかから耳にはいってくるすぐれた女性のうわさなどにも自身は興味をそう持てないのであった。
  tote warahi tamahu. Kokoro no uti ni ha, kano Huru-bito no honomekasi si sudi nado no, itodo uti-odoroka re te, mono ahare naru ni, wokasi to miru koto mo, meyasusi to kiku atari mo, nani bakari kokoro ni mo tomara zari keri.
注釈264かく御消息ありき女房の詞。「宮」は八宮をさす。3.9.1
注釈265何かは以下「心ぞとめたらむ」まで、八宮の詞。3.9.2
注釈266亡からむ後もなど一言うちほのめかしてしかば「て」完了の助動詞。「しか」過去の助動詞、已然形。接続助詞「ば」、確定条件を表す。『完訳』は「薫はすでに八の宮から、宮死後の姫君たちを遺託されていた」と注す。3.9.2
注釈267参うでむと思して主語は薫。3.9.3
注釈268三の宮の以下「御心騒がしたてまつらむ」まで、薫の心中。匂宮をさす。格助詞「の」は主格、「のたまふものを」が述語。3.9.3
注釈269聞こえはげまして主語は薫。3.9.3
注釈270御心騒がしたてまつらむ匂宮の好色心を煽ろう、の意。3.9.3
注釈271夕暮に参りたまへり薫が匂宮邸に。3.9.3
注釈272見し暁のありさま垣間見した様子。「暁」はまだ夜の深い頃。3.9.4
注釈273さればよと御けしきを見て主語は薫、「御けしき」は匂宮の顔色。3.9.5
注釈274さてその以下「まろならましかば」まで、匂宮の詞。3.9.6
注釈275まろならましかば下に「見せまし」などの語句が省略。主語は「まろ」匂宮。自分なら薫に見せるだろうに、の意。3.9.6
注釈276さかし以下「おぼえはべるべき」まで、薫の詞。3.9.7
注釈277御覧ずべかめる主語は匂宮。3.9.7
注釈278見せさせたまはぬわたし薫に。『集成』は「このあたり、帚木の巻の雨夜の品定めの源氏と頭の中将の応酬を思わせる」と注す。3.9.7
注釈279かくいとも埋れたる身に薫自身を遜っていう。『集成』は「匂宮の気を弾く言い方」と注す。3.9.7
注釈280いかでか尋ね寄らせたまふべき反語表現。『完訳』は「実際には高貴な匂宮の宇治行きは困難だとして、逆に彼の関心をあおり続ける」と注す。3.9.7
注釈281さるかたにそれ相応に。3.9.8
注釈282ほのかなりし月影の見劣りせずはまほならむはや格助詞「の」連体修飾。ほのかな月明かりで見たとおりの、の意。連語「はや」強い感動を表す。3.9.9
注釈283おぼろけの人に心移るまじき人の薫のことをいう。3.9.11
注釈284おろかならじ匂宮の心中。3.9.11
注釈285なほまたまたよくけしき見たまへ匂宮の詞。3.9.12
注釈286限りある御身のほどのよだけさを高貴な身分上の制限。3.9.13
注釈287いでや以下「はべるべき」まで、薫の詞。3.9.14
注釈288心ながらかなはぬ心つきそめなばおほきに思ひに違ふべきことなむ『集成』は「女に心をとめて、遁世も叶わぬことになれば大変と逃げる」と注す。3.9.14
注釈289いであなことことし以下「見果ててしがな」まで、匂宮の詞。3.9.16
注釈290心のうちには薫の心中をさす。3.9.17
注釈291かの古人の弁をさす。3.9.17
注釈292をかしと見ることもめやすしと聞くあたりも宇治の八宮姉妹のこと。3.9.17
注釈293何ばかり心にもとまらざりけり『完訳』は「前には姫君への関心が示された、ここでは出生の秘事への関心がより強い」と注す。3.9.17
校訂10 この聞こえ この聞こえ--このきみも(みも/$こえ) 3.9.8
校訂11 果て果ては 果て果ては--はや(はや/$)はて/\は 3.9.11
Last updated 3/10/2000
渋谷栄一校訂(C)(ver.1-2-2)
Last updated 3/10/2002
渋谷栄一注釈(ver.1-1-2)
Last updated 3/10/2002
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
鈴木厚司(青空文庫)

2004年3月21日

渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経

2005年9月12日

Last updated 10/19/2002
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