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 3朝顔(大島本)3 
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 7渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)7 
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朝顔

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 11光る源氏の内大臣時代三十二歳の晩秋九月から冬までの物語
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 13第一章 朝顔姫君の物語 昔の恋の再燃
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 14
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  • 九月、故桃園式部卿宮邸を訪問---斎院は、御服喪のために退下なさったのである
  • 15 
     16
  • 朝顔姫君と対話---あちらのお前の方にお目をやりなさると
  • 16 
     17
  • 帰邸後に和歌を贈答しあう---お気持ちの収まらないままお帰りになったので
  • 17 
     18
  • 源氏、執拗に朝顔姫君を恋う---東の対に独り離れていらっしゃって、宣旨を呼び寄せ呼び寄せしては
  • 18 
     1919 
     20第二章 朝顔姫君の物語 老いてなお旧りせぬ好色心
    20 
     21
    21 
     22
  • 朝顔姫君訪問の道中---夕方、神事なども停止となって物寂しいので
  • 22 
     23
  • 宮邸に到着して門を入る---宮邸では、北面にある人が多く出入りするご門は
  • 23 
     24
  • 宮邸で源典侍と出会う---宮の御方に、例によって、お話申し上げなさると
  • 24 
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  • 朝顔姫君と和歌を詠み交わす---西面では御格子を下ろしていたが、お嫌い申しているように思われるのも
  • 25 
     26
  • 朝顔姫君、源氏の求愛を拒む---何とも言いようがなくて、とても真剣に恨み言を申し上げ
  • 26 
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     28第三章 紫の君の物語 冬の雪の夜の孤影
    28 
     29
    29 
     30
  • 紫の君、嫉妬す---大臣は、やみくもにご執心というわけではないが
  • 30 
     31
  • 夜の庭の雪まろばし---雪がたいそう降り積もった上に
  • 31 
     32
  • 源氏、往古の女性を語る---「先年、中宮の御前に雪の山をお作りになったのは
  • 32 
     33
  • 藤壷、源氏の夢枕に立つ---月がいよいよ澄んで、静かで趣がある
  • 33 
     34
  • 源氏、藤壷を供養す---かえって心満たされず、悲しくお思いになって、早くお起きになって
  • 34 
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     36

    36 
     37 

    第一章 朝顔姫君の物語 昔の恋の再燃

    37 
     38 [第一段 九月、故桃園式部卿宮邸を訪問]
    38 
     39 斎院は、御服喪のために退下なさったのである。大臣、例によって、いったん思い初めたこと、諦めないご性癖で、お見舞いなどたいそう頻繁に差し上げなさる。宮は、かつて困ったことをお思い出しになると、お返事も気を許して差し上げなさらない。たいそう残念だとお思い続けていらっしゃる。
    39 
     40 九月になって、桃園宮にお移りになったのを聞いて、女五の宮がそこにいらっしゃるので、その方のお見舞にかこつけて参上なさる。故院が、この内親王方を特別に大切にお思い申し上げていらっしゃったので、今でも親しくそれからそれへと交際なさっていらっしゃるようである。同じ寝殿の西と東とにお住みになっていらっしゃるのであった。早くも荒廃してしまった心地がして、しみじみともの寂しげな感じである。
    40 
     41 宮が、ご対面なさって、お話を申し上げなさる。たいそうお年を召したご様子、とかく咳をしがちでいらっしゃる。姉上におあたりになるが、故大殿の宮は、申し分なく若々しいご様子なのに、それにひきかえ、お声もつやがなく、ごつごつとした感じでいらっしゃるのは、そうした人柄なのである。
    41 
     42 「院の上、お崩れあそばして後、いろいろと心細く思われまして、年をとるにつれて、ひどく涙がちに過ごしてきましたが、この宮までがこのように先立たれましたので、ますます生きているのか死んでいるのか分からないような状態で、この世に生き永らえておりましたところ、このようにお見舞いに立ち寄りくださったので、物思いも忘れられそうな気がします」
    42 
     43 とお申し上げになる。
    43 
     44 「恐れ多くもお年を召されたものだ」と思うが、かしこまって、
    44 
     45 「院がお崩れあそばしてから後は、さまざまなことにつけて、在世当時のようではございませんで、身におぼえのない罪に当たりまして、見知らない世界に流浪しましたが、偶然にも、朝廷からお召しくださいましてからは、また忙しく暇もない状態で、ここ数年は、参上して昔のお話だけでも申し上げたり承ったりできなかったのを、ずっと気にかけ続けてまいりました」
    45 
     46 などと申し上げなさると、
    46 
     47 「とてもとても驚くほどの、どれをとってみても定めない世の中を、同じような状態で過ごしてまいりました寿命の長いことの恨めしく思われることが多くございますが、こうして、政界にご復帰なさったお喜びを、あの時代を拝見したままで死んでしまったら、どんなにか残念であったであろうかと思われました」
    47 
     48 と、声をお震わせになって、
    48 
     49 「まことに美しくご成人なさいましたね。子どもでいらっしゃったころに、初めてお目にかかった時、真実にこんなにも美しい人がお生まれになったと驚かずにはいられませんでしたが、時々お目にかかるたびに、不吉なまでに思われました。今上の帝が、とてもよく似ていらっしゃると、人々が申しますが、いくら何でも見劣りあそばすだろうと、推察いたします」
    49 
     50 と、くどくどと申し上げなさるので、
    50 
     51 「ことさらに面と向かって人は褒めないものを」と、おかしくお思いになる。
    51 
     52 「田舎者になって、ひどく元気をなくしておりました年月の後は、すっかり衰えてしまいましたものを。今上の御容貌は、昔の世にも並ぶ方がいないのではいかと、世に類いないお方と拝見しております。変なご推察です」
    52 
     53 と申し上げなさる。
    53 
     54 「時々お目にかかれたら、長い寿命がますます延びそうでございます。今日は老いも忘れ、憂き世の嘆きもみな消えてしまった感じがします」
    54 
     55 と言っては、またお泣きになる。
    55 
     56 「三の宮が羨ましく、しかるべきご縁ができて、親しくお目にかかることがおできになれるのを、羨ましく思います。こちらのお亡くなりになった方も、そのように言って後悔なさる折々がありました」
    56 
     57 とおっしゃるので、少し耳がおとまりになる。
    57 
     58 「そういうふうにも、親しくお付き合いさせていただけたならば、今も嬉しいことでございましたでしょうに。すっかり見限りなさいまして」
    58 
     59 と、恨めしそうに様子ぶって申し上げなさる。
    59 
     60

    60 
     61 [第二段 朝顔姫君と対話]
    61 
     62 あちらのお前の方にお目をやりなさると、うら枯れた前栽の風情も格別に見渡されて、のんびりと物思いに耽っていらっしゃるらしいご様子、ご器量も、たいそうお目にかかりたくしみじみと思われて、我慢することがおできになれず、
    62 
     63 「このようにお伺いした機会を逃しては、無愛想になりますから、あちらへのお見舞いも申し上げなくてはなりませんでした」
    63 
     64 と言って、そのまま簀子からお渡りになる。
    64 
     65 暗くなってきた時分であるが、鈍色の御簾に、黒い御几帳の透き影がしみじみと見え、追い風が優美に吹き通して、風情は申し分ない。簀子では不都合なので、南の廂の間にお入れ申し上げる。
    65 
     66 宣旨が、対面して、ご挨拶はお伝え申し上げる。
    66 
     67 「今さら、若者扱いの感じがします御簾の前ですね。神さびるほど古い年月の年功も数えられますので、今は御簾の内への出入りもお許しいただけるものと期待しておりましたが」
    67 
     68 と言って、物足りなくお思いでいらっしゃる。
    68 
     69 「今までのことはみな夢と思い、今、夢から覚めてはかない気がするのかと、はっきりと分別しかねておりますが、年功などは、静かに考えさせていただきましょう」
    69 
     70 とお答え申し上げさせなさった。「なるほど無常な世である」と、ちょっとしたことにつけても自然とお思い続けられる。
    70 
     71 「誰にも知られず神の許しを待っていた間に
    71 
     72  長年つらい世を過ごしてきたことよ
    72 
     73 今は、どのような戒めにか、かこつけなさろうとするのでしょう。総じて、世の中に厄介なことまでがございました後、いろいろとつらい思いをするところがございました。せめてその一部なりとも」
    73 
     74 と、たって申し上げなさる、そのお心づかいなども、昔よりもう一段と優美さまでが増していらっしゃった。その一方で、とてもたいそうお年も召していらっしゃるが、ご身分には相応しくないようである。
    74 
     75 「一通りのお見舞いの挨拶をするだけでも
    75 
     76  誓ったことに背くと神が戒めるでしょう」
    76 
     77 とあるので、
    77 
     78 「ああ、情けない。あの当時の罪は、みな科戸の風にまかせて吹き払ってしまったのに」
    78 
     79 とおっしゃる魅力も、この上ない。
    79 
     80 「その罪を払う禊を、神は、どのようにお聞き届けたのでございましょうか」
    80 
     81 などと、ちょっとしたことを申し上げるのも、まじめな話、とても気が気でない。結婚しようとなさらないご態度は、年月とともに強く、ますます引っ込み思案になりなさって、お返事もなさらないのを、困ったことと拝するようである。
    81 
     82 「好色めいたふうになってしまって」
    82 
     83 などと、深く嘆息してお立ちになる。
    83 
     84 「年をとると、臆面もなくなるものですね。世に類ないやつれた姿を、この今は、と御覧くださいとだけでも申し上げられるほどにも、扱って下さったでしょうか」
    84 
     85 と言って、お出になった後は、うるさいまでに、例によってお噂申し上げていた。
    85 
     86 ただでさえも、空は風情があるころなので、木の葉の散る音につけても、過ぎ去った過去のしみじみとした情感が甦ってきて、その当時の、嬉しかったり悲しかったりにつけ、深くお見えになったお気持ちのほどを、お思い出し申し上げなさる。
    86 
     87

    87 
     88 [第三段 帰邸後に和歌を贈答しあう]
    88 
     89 お気持ちの収まらないままお帰りになったので、以前にもまして、夜も眠れずにお思い続けになる。早く御格子を上げさせなさって、朝霧を眺めなさる。枯れたいくつもの花の中に、朝顔があちこちにはいまつわって、あるかなきかに花をつけて、色艶も格別に変わっているのを、折らせなさってお贈りになる。
    89 
     90 「きっぱりとしたおあしらいに、体裁の悪い感じがいたしまして、後ろ姿もますますどのように御覧になったかと、悔しくて。けれども、
    90 
     91  昔拝見したあなたがどうしても忘れられません
    91 
     92  その朝顔の花は盛りを過ぎてしまったのでしょうか
    92 
     93 長年思い続けてきた苦労も、気の毒だとぐらいには、いくな何でも、ご理解いただけるだろうかと、一方では期待しつつ」
    93 
     94 などと申し上げなさった。穏やかなお手紙の風情なので、「返事をせずに気をもませるのも、心ないことか」とお思いになって、女房たちも御硯を調えて、お勧め申し上げるので、
    94 
     95 「秋は終わって霧の立ち込める垣根にしぼんで
    95 
     96  今にも枯れそうな朝顔の花のようなわたしです
    96 
     97 似つかわしいお喩えにつけても、涙がこぼれて」
    97 
     98 とばかりあるのは、何のおもしろいこともないが、どういうわけか、手放しがたく御覧になっていらっしゃるようである。青鈍色の紙に、柔らかな墨跡は、たいそう趣深く見えるようだ。ご身分、筆跡などによってとりつくろわれて、その時は何の難もないことも、いざもっともらしく伝えるとなると、事実を誤り伝えることがあるようなので、ここは勝手にとりつくろって書くようなので、変なところも多くなってしまった。
    98 
     99 昔に帰って、今さら若々しい恋文書きなども似つかわしくないこと、とお思いになるが、やはりこのように昔から離れぬでもないご様子でありながら、不本意なままに過ぎてしまったことを思いながら、とてもお諦めになることができず、若返って、真剣になって文を差し上げなさる。
    99 
     100

    100 
     101 [第四段 源氏、執拗に朝顔姫君を恋う]
    101 
     102 東の対に独り離れていらっしゃって、宣旨を呼び寄せ呼び寄せしてはご相談なさる。宮に伺候する女房たちで、それほどでない身分の男にさえ、すぐになびいてしまいそうな者は、間違いも起こしかねないほど、お褒め申し上げるが、宮は、その昔でさえきっぱりとお考えにもならなかったのに、今となっては、昔以上に、どちらも色恋に相応しくないお年、ご身分であるので、「ちょっとした木や草につけてのお返事などの、折々の興趣を見過さずにいるのも、軽率だと、受け取られようか」などと、人の噂を憚り憚りなさっては、心をうちとけなさるご様子もないので、昔のままで同じようなお気持ちを、世間の女性とは違って、珍しくまた妬ましくもお思い申し上げなさる。
    102 
     103 世間に噂が漏れ聞こえて、
    103 
     104 「前斎院を、熱心にお便りを差し上げなさるので、女五の宮なども結構にお思いのようです。似つかわしくなくもないお間柄でしょう」
    104 
     105 などと言っていたのを、対の上は伝え聞きなさって、暫くの間は、
    105 
     106 「いくら何でも、もしそういうことがあったとしたら、お隠しになることはあるまい」
    106 
     107 とお思いになっていらっしゃったが、さっそく気をつけて御覧になると、お振る舞いなども、いつもと違って魂が抜け出たようなのも情けなくて、
    107 
     108 「真剣になって思いつめていらっしゃるらしいことを、素知らぬ顔で冗談のように言いくるめなさったのだわと、同じ皇族の血筋でいらっしゃるが、声望も格別で、昔から重々しい方として聞こえていらっしゃった方なので、お心などが移ってしまったら、みっともないことになるわ。長年のご寵愛などは、わたしに立ち並ぶ者もなく、ずっと今まできたのに、今さら他人に負かされようとは」
    108 
     109 などと、人知れず嘆かずにはいらっしゃれない。
    109 
     110 「すっかりお見限りになることはないとしても、幼少のころから親しんでこられた長年の情愛は、軽々しいお扱いになるのだろう」
    110 
     111 など、あれこれと思い乱れなさるが、それほどでもないことなら、嫉妬などもご愛嬌に申し上げなさるが、心底つらいとお思いなので、顔色にもお出しにならない。
    111 
     112 端近くに物思いに耽りがちで、宮中にお泊まりになることが多くなり、仕事と言えば、お手紙をお書きになることで、
    112 
     113 「なるほど、世間の噂は嘘ではないようだ。せめて、ほんの一言おっしゃってくださればよいのに」
    113 
     114 と、いやなお方だとばかりお思い申し上げていらっしゃる。
    114 
     115

    115 
     116 

    第二章 朝顔姫君の物語 老いてなお旧りせぬ好色心

    116 
     117 [第一段 朝顔姫君訪問の道中]
    117 
     118 夕方、神事なども停止となって物寂しいので、することもない思いに耐えかねて、五の宮にいつものお伺いをなさる。雪がちょっとちらついて風情ある黄昏時に、優しい感じに着馴れたお召し物に、ますます香をたきしめなさって、念入りにおめかしして一日をお過ごしになったので、ますますなびきやすい人はどんなにかと見えた。それでも、お出かけのご挨拶はご挨拶として、申し上げなさる。
    118 
     119 「女五の宮がご病気でいらっしゃるというのを、お見舞い申し上げようと思いまして」
    119 
     120 と言って、軽く膝をおつきになるが、振り向きもなさらず、若君をあやして、さりげなくいらっしゃる横顔が、ただならぬ様子なので、
    120 
     121 「不思議と、ご機嫌の悪くなったこのごろですね。罪もありませんね。塩焼き衣のように、あまりなれなれしくなって、珍しくなくお思いかと思って、家を空けていましたが、またどのようにお考えになってか」
    121 
     122 などと申し上げなさると、
    122 
     123 「馴じんで行くのは、おっしゃるとおり、いやなことが多いものですね」
    123 
     124 とだけ言って、顔をそむけて臥せっていらっしゃるのは、そのまま見捨ててお出かけになるのも、気も進まないが、宮にお手紙を差し上げてしまっていたので、お出かけになった。
    124 
     125 「このようなこともある夫婦仲だったのに、安心しきって過ごしてきたことだわ」
    125 
     126 とお思い続けて、臥せっていらっしゃる。鈍色めいたお召し物であるが、色合いが重なって、かえって好ましく見えて、雪の光にたいそう優美なお姿を御覧になって、
    126 
     127 「ほんとうに心がますます離れて行ってしまわれたならば」
    127 
     128 と、堪えきれないお気持ちになる。
    128 
     129 御前駆なども内々の人ばかりで、
    129 
     130 「宮中以外の外出は、億劫になってしまったよ。桃園宮が心細い様子でいらっしゃっるのも、式部卿宮に長年お任せ申し上げていたが、これからは頼むなどとおっしゃるのも、もっともなことで、お気の毒なので」
    130 
     131 などと、人々にもしいておっしゃるが、
    131 
     132 「さあどんなものでしょう。ご好心が変わらないのは、惜しい玉の瑕のようです」
    132 
     133 「よからぬ事がきっと起こるでしょう」
    133 
     134 などと、呟き合っていた。
    134 
     135

    135 
     136 [第二段 宮邸に到着して門を入る]
    136 
     137 宮邸では、北面にある人が多く出入りするご門は、お入りになるのも軽率なようなので、西にあるのが重々しい正門なので、供人を入れさせなさって、宮の御方にご案内を乞うと、「今日はまさかお越しになるまい」とお思いでいたので、驚いて門を開けさせなさる。
    137 
     138 御門番が、寒そうな様子で、あわてて出てきて、すぐには開けられない。この人以外の男性はいないのであろう。ごろごろと引いて、
    138 
     139 「錠がひどく錆びついてしまっているので、開かない」
    139 
     140 と困っているのを、しみじみとお聞きになる。
    140 
     141 「昨日今日のこととお思いになっていたうちに、はや三年も昔になってしまった世の中だ。このような世を見ながら、仮の宿を捨てることもできず、木や草の花にも心をときめかせるとは」と、つくづくと感じられる。口ずさみに、
    141 
     142 「いつの間にこの邸は蓬がおい茂り
    142 
     143  雪に埋もれたふる里となってしまったのだろう」
    143 
     144 やや暫くして、無理やり引っ張り開けて、お入りになる。
    144 
     145

    145 
     146 [第三段 宮邸で源典侍と出会う]
    146 
     147 宮の御方に、例によって、お話申し上げなさると、昔の事をとりとめもなく話し出しはじめて、はてもなくお続きになるが、ご関心もなく、眠いが、宮もあくびをなさって、
    147 
     148 「宵のうちから眠くなっていましたので、終いまでお話もできません」
    148 
     149 とおっしゃる間もなく、鼾とかいう、聞き知らない音がするので、これさいわいとお立ちになろうとすると、またたいそう年寄くさい咳払いをして、近寄ってまいる者がいる。
    149 
     150 「恐れながら、ご存じでいらっしゃろうと心頼みにしておりましたのに、生きている者の一人としてお認めくださらないので。院の上は、祖母殿と仰せになってお笑いあそばしました」
    150 
     151 などと、名乗り出したので、お思い出しになった。
    151 
     152 源典侍と言った人は、尼になって、この宮のお弟子として勤行していると聞いていたが、今まで生きていようとはお確かめ知りにならなかったので、あきれる思いをなさった。
    152 
     153 「その当時のことは、みな昔話になってゆきますが、遠い昔を思い出すと、心細くなりますが、なつかしく嬉しいお声ですね。親がいなくて臥せっている旅人と思って、お世話してください」
    153 
     154 と言って、物に寄りかかっていらっしゃるご様子に、ますます昔のことを思い出して、相変わらずなまめかしいしなをつくって、たいそうすぼんだ口の恰好、想像される声だが、それでもやはり、甘ったるい言い方で戯れかかろうと今も思っている。
    154 
     155 「言い続けてきたうちに」などとお申し上げかけてくるのは、こちらの顔の赤くなる思いがする。「今急に老人になったような物言いだ」など、と苦笑されるが、また一方で、これも哀れである。
    155 
     156 「その女盛りのころに、寵愛を競い合いなさった女御、更衣、ある方はお亡くなりになり、またある方は見るかげもなく、はかないこの世に落ちぶれていらっしゃる方もあるようだ。入道の宮などの御寿命の短さよ。あきれるばかりの世の中の無常に、年からいっても余命残り少なそうで、心構えなども、頼りなさそうに見えた人が、生き残って、静かに勤行をして過ごしていたのは、やはりすべて定めない世のありさまなのだ」
    156 
     157 とお思いになると、何となくしみじみとしたご様子を、心のときめくことかと誤解して、はしゃぐ。
    157 
     158 「何年たってもあなたとのご縁が忘れられません
    158 
     159  親の親とかおっしゃった一言がございますもの」
    159 
     160 と申し上げると、気味が悪くて、
    160 
     161 「来世に生まれ変わった後まで待って見てください
    161 
     162  この世で子が親を忘れる例があるかどうかと
    162 
     163 頼もしいご縁ですね。いずれゆっくりと、お話し申し上げましょう」
    163 
     164 とおっしゃって、お立ちになった。
    164 
     165

    165 
     166 [第四段 朝顔姫君と和歌を詠み交わす]
    166 
     167 西面では御格子を下ろしていたが、お嫌い申しているように思われるのもどうかと、一間、二間は下ろしてない。月が顔を出して、うっすらと積もった雪の光に映えて、かえって趣のある夜の様子である。
    167 
     168 「さきほどの老いらくの懸想ぶりも、似つかわしくないものの例とか聞いた」とお思い出されなさって、おかしくなった。今宵は、たいそう真剣にお話なさって、
    168 
     169 「せめて一言、憎いなどとでも、人伝てではなく直におっしゃっていただければ、思いあきらめるきっかけにもしましょう」
    169 
     170 と、身を入れて強くお訴えになるが、
    170 
     171 「昔、自分も相手も若くて、過ちが許されたころでさえ、亡き父宮などが好感を持っていらっしゃったのを、やはりとんでもなく気がひけることだとお思い申して終わったのに、晩年になり、盛りも過ぎ、似つかわしくない今頃になって、その一言をお聞かせするのも気恥ずかしいことだろう」
    171 
     172 とお思いになって、まったく動じようとしないお気持ちなので、「あきれるほどに、つらい」とお思い申し上げなさる。
    172 
     173 そうかといって、不体裁に突き放してというのではない取次ぎのお返事などが、かえってじれることである。夜もたいそう更けてゆくにつれ、風の具合が、激しくなって、ほんとうにもの心細く思われるので、体裁よいところで、お拭いになって、
    173 
     174 「昔のつれない仕打ちに懲りもしないわたしの心までが
    174 
     175  あなたがつらく思う心に加わってつらく思われるのです
    175 
     176 自然とどうしようもございません」
    176 
     177 と口に上るままにおっしゃると、
    177 
     178 「ほんとうに」
    178 
     179 「見ていて気が気でありませんわ」
    179 
     180 と、女房たちは、例によって、申し上げる。
    180 
     181 「今さらどうして気持ちを変えたりしましょう
    181 
     182  他人ではそのようなことがあると聞きました心変わりを
    182 
     183 昔と変わることは、今もできません」
    183 
     184 などとお答え申し上げなさった。
    184 
     185

    185 
     186 [第五段 朝顔姫君、源氏の求愛を拒む]
    186 
     187 何とも言いようがなくて、とても真剣に恨み言を申し上げなさってお帰りになるのも、たいそう若々しい感じがなさるので、
    187 
     188 「ひどくこう、世の中のもの笑いになってしまいそうな様子、お漏らしなさるなよ。きっときっと。いさら川などと言うのも馴れ馴れしいですね」
    188 
     189 と言って、しきりにひそひそ話しかけていらっしゃるが、何のお話であろうか。女房たちも、
    189 
     190 「何とも、もったいない。どうしてむやみにつれないお仕打ちをなさるのでしょう」
    190 
     191 「軽々しく無体なこととはお見えにならない態度なのに。お気の毒な」
    191 
     192 と言う。
    192 
     193 なるほど、君のお人柄の、素晴らしいのも、慕わしいのも、お分かりにならないのではないが、
    193 
     194 「ものの情理をわきまえた人のように見ていただいたとしても、世間一般の人がお褒め申すのとひとしなみに思われるだろう。また一方では、至らぬ心のほどもきっとお見通しになるに違いなく、気のひけるほど立派なお方だから」とお思いになると、「親しそうな気持ちをお見せしても、何にもならない。さし障りのないお返事などは、引き続き、御無沙汰にならないくらいに差し上げなさって、人を介してのお返事、失礼のないようにしていこう。長年、仏事に無縁であった罪が消えるように仏道の勤行をしよう」とは決意はなさるが、「急にこのようなご関係を、断ち切ったようにするのも、かえって思わせぶりに見えもし聞こえもして、人が噂しはしまいか」と、世間の人の口さがないのをご存知なので、一方では、伺候する女房たちにも気をお許しにならず、たいそうご用心なさりながら、だんだんとご勤行一途になって行かれる。
    194 
     195 ご兄弟の君達は多数いらっしゃるが、同腹ではないので、まったく疎遠で、宮邸の中がたいそうさびれて行くにつれて、あのような立派な方が、熱心にご求愛なさるので、一同そろって、お味方申すのも、誰の思いも同じと見える。
    195 
     196

    196 
     197 

    第三章 紫の君の物語 冬の雪の夜の孤影

    197 
     198 [第一段 紫の君、嫉妬す]
    198 
     199 大臣は、やみくもにご執心というわけではないが、つれない態度が腹立たしいので、負けて終わるのも悔しく、なるほどそれは、確かにご自身の人品や、世の評判は格別で、申し分なく、物事の道理を深くわきまえ、世間の人々の、それぞれの生き方の違いも広くお知りになって、昔よりも経験を多く積んでいらっしゃるので、今さらのお浮気事も、一方では世間の非難をお分りになりながら、
    199 
     200 「このまま空しく引き下がっては、ますます物笑いとなるであろう。どうしたらよいものか」
    200 
     201 と、お心が騒いで、二条院にお帰りにならない夜がお続きになるのを、女君は、冗談でなく恋しいとばかりお思いになる。我慢していらっしゃるが、どうして涙がこぼれる時がないであろうか。
    201 
     202 「不思議にいつもと違ったご様子が、理解できませんね」
    202 
     203 と言って、お髪をかき撫でながら、おいたわしいと思っていらっしゃる様子も、絵に描きたいようなお間柄である。
    203 
     204 「宮がお亡くなりになって後、主上がとてもお寂しそうにばかりしていらっしゃるのも、おいたわしく拝見していますし、太政大臣もいらっしゃらないので、政治を見譲る人がいない忙しさです。このごろの家に帰らないことを、今までになかったことのようにお恨みになるのも、もっともなことで、お気の毒ですが、今はいくら何でも、安心にお思いなさい。おとなのようにおなりになったようですが、まだ深いお考えもなく、わたしの心もまだお分りにならないようでいらっしゃるのが、かわいらしい」
    204 
     205 などと言って、涙でもつれている額髪、おつくろいになるが、ますます横を向いて何とも申し上げなさらない。
    205 
     206 「とてもひどく子どもっぽくしていらっしゃるのは、誰がおしつけ申したことでしょう」
    206 
     207 と言って、「無常の世に、こうまで隔てられるのもつまらないことだ」と、一方では物思いに耽っていらっしゃる。
    207 
     208 「斎院にとりとめのない文を差し上げたのを、もしや誤解なさっていることがありませんか。それは、大変な見当違いのことですよ。自然とお分かりになるでしょう。昔からまったくよそよそしいお気持ちなので、もの寂しい時々に、恋文めいたものを差し上げて困らせたところ、あちらも所在なくお過ごしのところなので、まれに返事などなさるが、本気ではないので、こういうことですと、不平をこぼさなければならないようなことでしょうか。不安なことは何もあるまいと、お思い直しなさい」
    208 
     209 などと、一日中お慰め申し上げなさる。
    209 
     210

    210 
     211 [第二段 夜の庭の雪まろばし]
    211 
     212 雪がたいそう降り積もった上に、今もちらちらと降って、松と竹との違いがおもしろく見える夕暮に、君のご容貌も一段と光り輝いて見える。
    212 
     213 「季節折々につけても、人が心を惹かれるらしい花や紅葉の盛りよりも、冬の夜の冴えた月に、雪の光が照り映えた空こそ、妙に、色のない世界ですが、身に染みて感じられ、この世の外のことまで思いやられて、おもしろさもあわれさも、尽くされる季節です。興醒めな例としてとして言った人の考えの浅いことよ」
    213 
     214 と言って、御簾を巻き上げさせなさる。
    214 
     215 月は隈なく照らして、一色に見渡される中に、萎れた前栽の影も痛々しく、遣水もひどく咽び泣くように流れて、池の氷もぞっとするほど身に染みる感じで、童女を下ろして、雪まろばしをおさせになる。
    215 
     216 かわいらしげな姿、お髪の恰好が、月の光に映えて、大柄の物馴れた童女が、色とりどりの衵をしどけなく着て、袴の帯もゆったりした寝間着姿、優美なうえに、衵の裾より長い髪の末が、白い雪を背景にしていっそう引き立っているのは、たいそう鮮明な感じである。
    216 
     217 小さい童女は、子どもらしく喜んで走りまわって、扇なども落として、気を許しているのがかわいらしい。
    217 
     218 たいそう大きく丸めようと、欲張るが、転がすことができなくなって困っているようである。またある童女たちは、東の縁先に出ていて、もどかしげに笑っている。
    218 
     219

    219 
     220 [第三段 源氏、往古の女性を語る]
    220 
     221 「先年、中宮の御前に雪の山をお作りになったのは、世間で昔からよく行われてきたことですが、やはり珍しい趣向を凝らしてちょっとした遊び事をもなさったものでしたなあ。どのような折々につけても、残念でたまたない思いですね。
    221 
     222 とても隔てを置いていらして、詳しいご様子は拝したことはございませんでしたが、宮中生活の中で、心安い相談相手としては、お考えくださいました。
    222 
     223 ご信頼申し上げて、あれこれと何か事のある時には、どのようなこともご相談申し上げましたが、表面には巧者らしいところはお見せにならなかったが、十分で、申し分なく、ちょっとしたことでも格別になさったものでした。この世にまた、あれほどの方がありましょうか。
    223 
     224 しとやかでいらっしゃる一面、奥深い嗜みのあるところは、又となくいらっしゃったが、あなたこそは、そうはいっても、紫の縁で、たいして違っていらっしゃらないようですが、少しこうるさいところがあって、利発さの勝っているのが、困りますね。
    224 
     225 前斎院のご性質は、また格別に見えます。心寂しい時に、何か用事がなくても便りをしあって、自分も気を使わずにはいられないお方は、ただこのお一方だけが、世にお残りでしょうか」
    225 
     226 とおっしゃる。
    226 
     227 「尚侍は、利発で奥ゆかしいところは、どなたよりも優れていらっしゃるでしょう。軽率な方面などは、無縁なお方でいらしたのに、不思議なことでしたね」
    227 
     228 とおっしゃると、
    228 
     229 「そうですね。優美で器量のよい女性の例としては、やはり引き合いに出さなければならない方ですね。そう思うと、お気の毒で悔やまれることが多いのですね。まして、浮気っぽい好色な人が、年をとるにつれて、どんなにか後悔されることが多いことでしょう。誰よりもはるかにおとなしい、と思っていましたわたしでさえですから」
    229 
     230 などと、お口になさって、尚侍の君の御事にも、涙を少しはお落としなった。
    230 
     231 「あの、人数にも入らないほどさげすんでいらっしゃる山里の女は、身分にはやや過ぎて、物の道理をわきまえているようですが、他の人とは同列に扱えない人ですから、気位を高くもっているのも、見ないようにしております。お話にもならない身分の人はまだ知りません。人というものは、すぐれた人というのはめったにいないものですね。
    231 
     232 東の院に寂しく暮らしている人の気立ては、昔に変わらず可憐なものがあります。あのように、はとてもできないものですが。その方面につけての気立てのよさで、世話するようになって以来、同じように夫婦仲を遠慮深げな態度で過ごしてきましたよ。今はもう、互いに別れられそうなく、心からいとしいと思っております」
    232 
     233 などと、昔の話や今の話などに夜が更けてゆく。
    233 
     234

    234 
     235 [第四段 藤壷、源氏の夢枕に立つ]
    235 
     236 月がいよいよ澄んで、静かで趣がある。女君、
    236 
     237 「氷に閉じこめられた石間の遣水は流れかねているが
    237 
     238  空に澄む月の光はとどこおりなく西へ流れて行く」
    238 
     239 外の方を御覧になって、少し姿勢を傾けていらっしゃるところ、似る者がないほどかわいらしげである。髪の具合、顔立ちが、恋い慕い申し上げている方の面影のようにふと思われて、素晴らしいので、少しは他に分けていらっしゃったご寵愛もあらためてお加えになることであろう。鴛鴦がちょっと鳴いたので、
    239 
     240 「何もかも昔のことが恋しく思われる雪の夜に
    240 
     241  いっそうしみじみと思い出させる鴛鴦の鳴き声であることよ」
    241 
     242 お入りになっても、宮のことを思いながらお寝みになっていると、夢ともなくかすかにお姿を拝するが、たいそうお怨みになっていらっしゃるご様子で、
    242 
     243 「漏らさないとおっしゃったが、つらい噂は隠れなかったので、恥ずかしく、苦しい目に遭うにつけ、つらい」
    243 
     244 とおっしゃる。お返事を申し上げるとお思いになった時、ものに襲われるような気がして、女君が、
    244 
     245 「これは、どうなさいました、このように」
    245 
     246 とおっしゃったのに、目が覚めて、ひどく残念で、胸の置きどころもなく騒ぐので、じっと抑えて、涙までも流していたのであった。今もなお、ひどくお濡らし加えになっていらっしゃる。
    246 
     247 女君が、どうしたことかとお思いになるので、身じろぎもしないで横になっていらっしゃった。
    247 
     248 「安らかに眠られずふと寝覚めた寂しい冬の夜に
    248 
     249  見た夢の短かかったことよ」
    249 
     250

    250 
     251 [第五段 源氏、藤壷を供養す]
    251 
    c1252 <かえって心満たされず、悲しくお思いになって、早くお起きになって、それとは言わず、所々の寺々に御誦経などをおさせになる。<BR>252 かえって心満たされず、悲しくお思いになって、早くお起きになって、それとは言わず、所々の寺々に御誦経などをおさせになる。<BR>
     253 「苦しい目にお遭いになっていると、お怨みになったが、きっとそのようにお恨みになってのことなのだろう。勤行をなさり、さまざまに罪障を軽くなさったご様子でありながら、自分との一件で、この世の罪障をおすすぎになれなかったのだろう」
    253 
     254 と、ものの道理を深くおたどりになると、ひどく悲しくて、
    254 
     255 「どのような方法をしてでも、誰も知る人のいない冥界にいらっしゃるのを、お見舞い申し上げて、その罪にも代わって差し上げたい」
    255 
     256 などと、つくづくとお思いになる。
    256 
     257 「あのお方のために、特別に何かの法要をなさるのは、世間の人が不審に思い申そう。主上におかれても、良心の呵責にお悟りになるかもしれない」
    257 
     258 と、気がねなさるので、阿弥陀仏を心に浮かべてお念じ申し上げなさる。「同じ蓮の上に」と思って、
    258 
     259 「亡くなった方を恋慕う心にまかせてお尋ねしても
    259 
     260  その姿も見えない三途の川のほとりで迷うことであろうか」
    260 
     261 とお思いになるのは、つらい思いであったとか。
    261 
     262

    262 
     263源氏物語の世界ヘ
    263 
     264本文
    264 
     265ローマ字版
    265 
     266注釈
    266 
     267大島本
    267 
     268自筆本奥入
    268 
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