diffC:\Genji\public\src/original/text46.htmlC:\Genji\public\src/modified/text46.html
 11 
 22 
 3椎本(大島本)3 
 44 
 55 
 6
Last updated 7/5/2003
6 
 7渋谷栄一校訂(C)(ver.1-2-3)7 
 8

8 
 9  

椎本

9 
 10

10 
 11薫君の宰相中将時代二十三歳春二月から二十四歳夏までの物語
11 
 12

12 
 13 [主要登場人物]
13 
 14
14 
 15
 薫<かおる>
15 
 16
呼称---宰相中将・宰相の君・中将・中納言・中納言殿・中納言の君、源氏の子
16 
 17
 匂宮<におうのみや>
17 
 18
呼称---兵部卿宮・親王・三の宮・宮、今上帝の第三親王
18 
 19
 八の宮<はちのみや>
19 
 20
呼称---主人の宮・宮・親王・聖、桐壺帝の第八親王
20 
 21
 大君<おおいきみ>
21 
 22
呼称---姉君・姫君、八の宮の長女
22 
 23
 中君<なかのきみ>
23 
 24
呼称---中の宮・君・女、八の宮の二女
24 
 25
 阿闍梨<あじゃり>
25 
 26
呼称---阿闍梨・聖
26 
 27
 弁の尼君<べんのあまぎみ>
27 
 28
呼称---老い人・古人、柏木の乳母の娘
28 
 2929 
 30

30 
 31第一章 匂宮の物語 春、匂宮、宇治に立ち寄る
31 
 32
32 
 33
  • 匂宮、初瀬詣での帰途に宇治に立ち寄る---如月の二十日のほどに、兵部卿宮、初瀬に詣でたまふ
  • 33 
     34
  • 匂宮と八の宮、和歌を詠み交す---所につけて、御しつらひなどをかしうしなして
  • 34 
     35
  • 薫、迎えに八の宮邸に来る---中将は参うでたまふ。遊びに心入れたる君たち誘ひて
  • 35 
     36
  • 匂宮と中の君、和歌を詠み交す---かの宮は、まいてかやすきほどならぬ御身をさへ
  • 36 
     37
  • 八の宮、娘たちへの心配---宮は、重く慎みたまふべき年なりけり
  • 37 
     3838 
     39第二章 薫の物語 秋、八の宮死去す
    39 
     40
    40 
     41
  • 秋、薫、中納言に昇進し、宇治を訪問---宰相中将、その秋、中納言になりたまひぬ
  • 41 
     42
  • 薫、八の宮と昔語りをする---夜深き月の明らかにさし出でて、山の端近き心地するに
  • 42 
     43
  • 薫、弁の君から昔語りを聞き、帰京---こなたにて、かの問はず語りの古人召し出でて
  • 43 
     44
  • 八の宮、姫君たちに訓戒して山に入る---秋深くなりゆくままに、宮は、じみじうもの心細く
  • 44 
     45
  • 八月二十日、八の宮、山寺で死去---かの行ひたまふ三昧、今日果てぬらむと
  • 45 
     46
  • 阿闍梨による法事と薫の弔問---阿闍梨、年ごろ契りおきたまひけるままに
  • 46 
     4747 
     48第三章 宇治の姉妹の物語 晩秋の傷心の姫君たち
    48 
     49
    49 
     50
  • 九月、忌中の姫君たち---明けぬ夜の心地ながら、九月にもなりぬ
  • 50 
     51
  • 匂宮からの弔問の手紙---御忌も果てぬ。限りあれば、涙も隙もやと
  • 51 
     52
  • 匂宮の使者、帰邸---御使は、木幡の山のほども、雨もよにいと恐ろしげなれど
  • 52 
     53
  • 薫、宇治を訪問---中納言殿の御返りばかりは、かれよりも
  • 53 
     54
  • 薫、大君と和歌を詠み交す---御心地にも、さこそいへ、やうやう心しづまりて
  • 54 
     55
  • 薫、弁の君と語る---ひきとどめなどすべきほどにもあらねば、飽かずあはれにおぼゆ
  • 55 
     56
  • 薫、日暮れて帰京---今は旅寝もすずろなる心地して、帰りたまふにも
  • 56 
     57
  • 姫君たちの傷心---兵部卿宮に対面したまふ時は、まづこの君たちの御ことを
  • 57 
     5858 
     59第四章 宇治の姉妹の物語 歳末の宇治の姫君たち
    59 
     60
    60 
     61
  • 歳末の宇治の姫君たち---雪霰降りしくころは、いづくもかくこそはある風の音なれど
  • 61 
     62
  • 薫、歳末に宇治を訪問---中納言の君、「新しき年は、ふとしもえ訪らひきこえざらむ
  • 62 
     63
  • 薫、匂宮について語る---「宮の、いとあやしく恨みたまふことのはべるかな
  • 63 
     64
  • 薫と大君、和歌を詠み交す---「かならず御みづから聞こしめし負ふべきこととも
  • 64 
     65
  • 薫、人びとを励まして帰京---「暮れ果てなば、雪いとど空も閉ぢぬべうはべり
  • 65 
     6666 
     67第五章 宇治の姉妹の物語 匂宮、薫らとの恋物語始まる
    67 
     68
    68 
     69
  • 新年、阿闍梨、姫君たちに山草を贈る---年替はりぬれば、空のけしきうららかなるに
  • 69 
     70
  • 花盛りの頃、匂宮、中の君と和歌を贈答---花盛りのころ、宮、「かざし」を思し出でて
  • 70 
     71
  • その後の匂宮と薫---御心にあまりたまひては、ただ中納言を
  • 71 
     72
  • 夏、薫、宇治を訪問---その年、常よりも暑さを人わぶるに
  • 72 
     73
  • 障子の向こう側の様子---まづ、一人立ち出でて、几帳よりさし覗きて
  • 73 
     7474 
     75

    75 
     76【出典】
    76 
     77【校訂】
    77 
     78

    78 
     79 

    第一章 匂宮の物語 春、匂宮、宇治に立ち寄る

    79 
     80 [第一段 匂宮、初瀬詣での帰途に宇治に立ち寄る]
    80 
     81 如月の二十日のほどに、兵部卿宮、初瀬に詣でたまふ。古き御願なりけれど、思しも立たで年ごろになりにけるを、宇治のわたりの御中宿りのゆかしさに、多くは催されたまへるなるべし。うらめしと言ふ人もありける里の名の、なべて睦ましう思さるるゆゑもはかなしや。上達部いとあまた仕うまつりたまふ。殿上人などはさらにもいはず、世に残る人少なう仕うまつれり。
    81 
     82 六条院より伝はりて、右大殿知りたまふ所は、川より遠方に、いと広くおもしろくてあるに、御まうけせさせたまへり。大臣も、帰さの御迎へに参りたまふべく思したるを、にはかなる御物忌みの、重く慎みたまふべく申したなれば、え参らぬ由のかしこまり申したまへり。
    82 
     83 宮、なますさまじと思したるに、宰相中将、今日の御迎へに参りあひたまへるに、なかなか心やすくて、かのわたりのけしきも伝へ寄らむと、御心ゆきぬ。大臣をば、うちとけて見えにくく、ことことしきものに思ひきこえたまへり。
    83 
     84 御子の君たち、右大弁、侍従の宰相、権中将、頭少将、蔵人兵衛佐など、さぶらひたまふ。帝、后も心ことに思ひきこえたまへる宮なれば、おほかたの御おぼえもいと限りなく、まいて六条院の御方ざまは、次々の人も、皆私の君に、心寄せ仕うまつりたまふ。
    84 
     85

    85 
     86 [第二段 匂宮と八の宮、和歌を詠み交す]
    86 
     87 所につけて、御しつらひなどをかしうしなして、碁、双六、弾棊の盤どもなど取り出でて、心々にすさび暮らしたまふ。宮は、ならひたまはぬ御ありきに、悩ましく思されて、ここにやすらはむの御心も深ければ、うち休みたまひて、夕つ方ぞ、御琴など召して遊びたまふ。
    87 
     88 例の、かう世離れたる所は、水の音ももてはやして、物の音澄みまさる心地して、かの聖の宮にも、たださし渡るほどなれば、追風に吹き来る響きを聞きたまふに、昔のこと思し出でられて、
    88 
     89 「笛をいとをかしうも吹きとほしたなるかな。誰ならむ。昔の六条院の御笛の音聞きしは、いとをかしげに愛敬づきたる音にこそ吹きたまひしか。これは澄みのぼりて、ことことしき気の添ひたるは、致仕大臣の御族の笛の音にこそ似たなれ」など、独りごちおはす。
    89 
     90 「あはれに、久しうなりにけりや。かやうの遊びなどもせで、あるにもあらで過ぐし来にける年月の、さすがに多く数へらるるこそ、かひなけれ」
    90 
     91 などのたまふついでにも、姫君たちの御ありさまあたらしく、「かかる山懐にひき籠めてはやまずもがな」と思し続けらる。「宰相の君の、同じうは近きゆかりにて見まほしげなるを、さしも思ひ寄るまじかめり。まいて今やうの心浅からむ人をば、いかでかは」など思し乱れ、つれづれと眺めたまふ所は、春の夜もいと明かしがたきを、心やりたまへる旅寝の宿りは、酔の紛れにいと疾う明けぬる心地して、飽かず帰らむことを、宮は思す。
    91 
     92 はるばると霞みわたれる空に、散る桜あれば今開けそむるなど、いろいろ見わたさるるに、川沿ひ柳の起きふしなびく水影など、おろかならずをかしきを、見ならひたまはぬ人は、いとめづらしく見捨てがたしと思さる。
    92 
     93 宰相は、「かかるたよりを過ぐさず、かの宮にまうでばや」と思せど、「あまたの人目をよきて、一人漕ぎ出でたまはむ舟わたりのほども軽らかにや」と思ひやすらひたまふほどに、かれより御文あり。
    93 
     94 「山風に霞吹きとく声はあれど
    94 
     95  隔てて見ゆる遠方の白波」
    95 
     96 草にいとをかしう書きたまへり。宮、「思すあたりの」と見たまへば、いとをかしう思いて、「この御返りはわれせむ」とて、
    96 
     97 「遠方こちの汀に波は隔つとも
    97 
     98  なほ吹きかよへ宇治の川風」
    98 
     99

    99 
     100 [第三段 薫、迎えに八の宮邸に来る]
    100 
     101 中将は参うでたまふ。遊びに心入れたる君たち誘ひて、さしやりたまふほど、「酣酔楽」遊びて、水に臨きたる廊に造りおろしたる階の心ばへなど、さる方にいとをかしう、ゆゑある宮なれば、人びと心して舟よりおりたまふ。
    101 
     102 ここはまた、さま異に、山里びたる網代屏風などの、ことさらにことそぎて、見所ある御しつらひを、さる心してかき払ひ、いといたうしなしたまへり。いにしへの、音などいと二なき弾きものどもを、わざとまうけたるやうにはあらで、次々弾き出でたまひて、壱越調の心に、「桜人」遊びたまふ。
    102 
     103 主人の宮、御琴をかかるついでにと、人びと思ひたまへれど、箏の琴をぞ、心にも入れず、折々掻き合はせたまふ。耳馴れぬけにやあらむ、「いともの深くおもしろし」と、若き人びと思ひしみたり。
    103 
     104 所につけたる饗応、いとをかしうしたまひて、よそに思ひやりしほどよりは、なま孫王めくいやしからぬ人あまた、大君、四位の古めきたるなど、かく人目見るべき折と、かねていとほしがりきこえけるにや、さるべき限り参りあひて、瓶子取る人もきたなげならず、さる方に古めきて、よしよししうもてなしたまへり。客人たちは、御女たちの住まひたまふらむ御ありさま、思ひやりつつ、心つく人もあるべし。
    104 
     105

    105 
     106 [第四段 匂宮と中の君、和歌を詠み交す]
    106 
     107 かの宮は、まいてかやすきほどならぬ御身をさへ、所狭く思さるるを、かかる折にだにと、忍びかねたまひて、おもしろき花の枝を折らせたまひて、御供にさぶらふ上童のをかしきしてたてまつりたまふ。
    107 
     108 「山桜匂ふあたりに尋ね来て
    108 
     109  同じかざしを折りてけるかな
    109 
     110 野を睦ましみ」
    110 
     111 とやありけむ。「御返りは、いかでかは」など、聞こえにくく思しわづらふ。
    111 
     112 「かかる折のこと、わざとがましくもてなし、ほどの経るも、なかなか憎きことになむしはべりし」
    112 
     113 など、古人ども聞こゆれば、中の君にぞ書かせたてまつりたまふ。
    113 
     114 「かざし折る花のたよりに山賤の
    114 
     115  垣根を過ぎぬ春の旅人
    115 
     116 野をわきてしも」
    116 
     117 と、いとをかしげに、らうらうじく書きたまへり。
    117 
     118 げに、川風も心わかぬさまに吹き通ふ物の音ども、おもしろく遊びたまふ。御迎へに、藤大納言、仰せ言にて参りたまへり。人びとあまた参り集ひ、もの騒がしくてきほひ帰りたまふ。若き人びと、飽かず返り見のみせられける。宮は、「またさるべきついでして」と思す。
    118 
     119 花盛りにて、四方の霞も眺めやるほどの見所あるに、唐のも大和のも、歌ども多かれど、うるさくて尋ねも聞かぬなり。
    119 
     120 もの騒がしくて、思ふままにもえ言ひやらずなりにしを、飽かず宮は思して、しるべなくても御文は常にありけり。宮も、
    120 
     121 「なほ、聞こえたまへ。わざと懸想だちてももてなさじ。なかなか心ときめきにもなりぬべし。いと好きたまへる親王なれば、かかる人なむ、と聞きたまふが、なほもあらぬすさびなめり」
    121 
     122 と、そそのかしたまふ時々、中の君ぞ聞こえたまふ。姫君は、かやうのこと、戯れにももて離れたまへる御心深さなり。
    122 
     123 いつとなく心細き御ありさまに、春のつれづれは、いとど暮らしがたく眺めたまふ。ねびまさりたまふ御さま容貌ども、いよいよまさり、あらまほしくをかしきも、なかなか心苦しく、「かたほにもおはせましかば、あたらしう、惜しき方の思ひは薄くやあらまし」など、明け暮れ思し乱る。
    123 
     124 姉君二十五、中の君二十三にぞなりたまひける。
    124 
     125

    125 
     126 [第五段 八の宮、娘たちへの心配]
    126 
     127 宮は、重く慎みたまふべき年なりけり。もの心細く思して、御行ひ常よりもたゆみなくしたまふ。世に心とどめたまはねば、出で立ちいそぎをのみ思せば、涼しき道にも赴きたまひぬべきを、ただこの御ことどもに、いといとほしく、限りなき御心強さなれど、「かならず、今はと見捨てたまはむ御心は、乱れなむ」と、見たてまつる人も推し量りきこゆるを、思すさまにはあらずとも、なのめに、さても人聞き口惜しかるまじう、見ゆるされぬべき際の人の、真心に後見きこえむ、など、思ひ寄りきこゆるあらば、知らず顔にてゆるしてむ、一所一所世に住みつきたまふよすがあらば、それを見譲る方に慰めおくべきを、さまで深き心に尋ねきこゆる人もなし。
    127 
     128 まれまれはかなきたよりに、好きごと聞こえなどする人は、まだ若々しき人の心のすさびに、物詣での中宿り、行き来のほどのなほざりごとに、けしきばみかけて、さすがに、かく眺めたまふありさまなど推し量り、あなづらはしげにもてなすは、めざましうて、なげのいらへをだにせさせたまはず。三の宮ぞ、なほ見ではやまじと思す御心深かりける。さるべきにやおはしけむ。
    128 
     129

    129 
     130 

    第二章 薫の物語 秋、八の宮死去す

    130 
     131 [第一段 秋、薫、中納言に昇進し、宇治を訪問]
    131 
     132 宰相中将、その秋、中納言になりたまひぬ。いとど匂ひまさりたまふ。世のいとなみに添へても、思すこと多かり。いかなることと、いぶせく思ひわたりし年ごろよりも、心苦しうて過ぎたまひにけむいにしへざまの思ひやらるるに、罪軽くなりたまふばかり、行ひもせまほしくなむ。かの老い人をばあはれなるものに思ひおきて、いちじるきさまならず、とかく紛らはしつつ、心寄せ訪らひたまふ。
    132 
     133 宇治に参うでで久しうなりにけるを、思ひ出でて参りたまへり。七月ばかりになりにけり。都にはまだ入りたたぬ秋のけしきを、音羽の山近く、風の音もいと冷やかに、槙の山辺もわづかに色づきて、なほ尋ね来たるに、をかしうめづらしうおぼゆるを、宮はまいて、例よりも待ち喜びきこえたまひて、このたびは、心細げなる物語、いと多く申したまふ。
    133 
     134 「亡からむ後、この君たちを、さるべきもののたよりにもとぶらひ、思ひ捨てぬものに数まへたまへ」
    134 
     135 など、おもむけつつ聞こえたまへば、
    135 
     136 「一言にても承りおきてしかば、さらに思うたまへおこたるまじくなむ。世の中に心をとどめじと、はぶきはべる身にて、何ごとも頼もしげなき生ひ先の少なさになむはべれど、さる方にてもめぐらいはべらむ限りは、変らぬ心ざしを御覧じ知らせむとなむ思うたまふる」
    136 
     137 など聞こえたまへば、うれしと思いたり。
    137 
     138

    138 
     139 [第二段 薫、八の宮と昔語りをする]
    139 
     140 夜深き月の明らかにさし出でて、山の端近き心地するに、念誦いとあはれにしたまひて、昔物語したまふ。
    140 
     141 「このころの世は、いかがなりにたらむ。宮中などにて、かやうなる秋の月に、御前の御遊びの折にさぶらひあひたる中に、ものの上手とおぼしき限り、とりどりにうち合はせたる拍子など、ことことしきよりも、よしありとおぼえある女御、更衣の御局々の、おのがじしは挑ましく思ひ、うはべの情けを交はすべかめるに、夜深きほどの人の気しめりぬるに、心やましく掻い調べ、ほのかにほころび出でたる物の音など、聞き所あるが多かりしかな。
    141 
     142 何ごとにも、女は、もてあそびのつまにしつべく、ものはかなきものから、人の心を動かすくさはひになむあるべき。されば、罪の深きにやあらむ。子の道の闇を思ひやるにも、男は、いとしも親の心を乱さずやあらむ。女は、限りありて、いふかひなき方に思ひ捨つべきにも、なほ、いと心苦しかるべき」
    142 
     143 など、おほかたのことにつけてのたまへる、いかがさ思さざらむ、心苦しく思ひやらるる御心のうちなり。
    143 
     144 「すべて、まことに、しか思うたまへ捨てたるけにやはべらむ、みづからのことにては、いかにもいかにも深う思ひ知る方のはべらぬを、げにはかなきことなれど、声にめづる心こそ、背きがたきことにはべりけれ。さかしう聖だつ迦葉も、さればや、立ちて舞ひはべりけむ」
    144 
     145 など聞こえて、飽かず一声聞きし御琴の音を、切にゆかしがりたまへば、うとうとしからぬ初めにもとや思すらむ、御みづからあなたに入りたまひて、切にそそのかしきこえたまふ。箏の琴をぞ、いとほのかに掻きならしてやみたまひぬる。いとど人のけはひも絶えて、あはれなる空のけしき、所のさまに、わざとなき御遊びの心に入りてをかしうおぼゆれど、うちとけてもいかでかは弾き合はせたまはむ。
    145 
     146 「おのづからかばかりならしそめつる残りは、世籠もれるどちに譲りきこえてむ」
    146 
     147 とて、宮は仏の御前に入りたまひぬ。
    147 
     148 「われなくて草の庵は荒れぬとも
    148 
     149  このひとことはかれじとぞ思ふ
    149 
     150 かかる対面もこのたびや限りならむと、もの心細きに忍びかねて、かたくなしきひが言多くもなりぬるかな」
    150 
     151 とて、うち泣きたまふ。客人、
    151 
     152 「いかならむ世にかかれせむ長き世の
    152 
     153  契りむすべる草の庵は
    153 
     154 相撲など、公事ども紛れはべるころ過ぎて、さぶらはむ」
    154 
     155 など聞こえたまふ。
    155 
     156

    156 
     157 [第三段 薫、弁の君から昔語りを聞き、帰京]
    157 
     158 こなたにて、かの問はず語りの古人召し出でて、残り多かる物語などせさせたまふ。入り方の月、隈なくさし入りて、透影なまめかしきに、君たちも奥まりておはす。世の常の懸想びてはあらず、心深う物語のどやかに聞こえつつものしたまへば、さるべき御いらへなど聞こえたまふ。
    158 
     159 「三の宮、いとゆかしう思いたるものを」と、心のうちには思ひ出でつつ、「わが心ながら、なほ人には異なりかし。さばかり御心もて許いたまふことの、さしもいそがれぬよ。もて離れて、はたあるまじきこととは、さすがにおぼえず。かやうにてものをも聞こえ交はし、折ふしの花紅葉につけて、あはれをも情けをも通はすに、憎からずものしたまふあたりなれば、宿世異にて、他ざまにもなりたまはむは」、さすがに口惜しかるべう、領じたる心地しけり。
    159 
     160 まだ夜深きほどに帰りたまひぬ。心細く残りなげに思いたりし御けしきを、思ひ出できこえたまひつつ、「騒がしきほど過ぐして参うでむ」と思す。兵部卿宮も、この秋のほどに紅葉見におはしまさむと、さるべきついでを思しめぐらす。
    160 
     161 御文は、絶えずたてまつりたまふ。女は、まめやかに思すらむとも思ひたまはねば、わづらはしくもあらで、はかなきさまにもてなしつつ、折々に聞こえ交はしたまふ。
    161 
     162

    162 
     163 [第四段 八の宮、姫君たちに訓戒して山に入る]
    163 
     164 秋深くなりゆくままに、宮は、いみじうもの心細くおぼえたまひければ、「例の、静かなる所にて、念仏をも紛れなうせむ」と思して、君たちにもさるべきこと聞こえたまふ。
    164 
     165 「世のこととして、つひの別れを逃れぬわざなめれど、思ひ慰まむ方ありてこそ、悲しさをも覚ますものなめれ。また見譲る人もなく、心細げなる御ありさまどもを、うち捨ててむがいみじきこと。
    165 
     166 されども、さばかりのことに妨げられて、長き夜の闇にさへ惑はむが益なさを。かつ見たてまつるほどだに思ひ捨つる世を、去りなむうしろのこと、知るべきことにはあらねど、わが身一つにあらず、過ぎたまひにし御面伏せに、軽々しき心どもつかひたまふな。
    166 
     167 おぼろけのよすがならで、人の言にうちなびき、この山里をあくがれたまふな。ただ、かう人に違ひたる契り異なる身と思しなして、ここに世を尽くしてむと思ひとりたまへ。ひたぶるに思ひなせば、ことにもあらず過ぎぬる年月なりけり。まして、女は、さる方に絶え籠もりて、いちしるくいとほしげなる、よそのもどきを負はざらむなむよかるべき」
    167 
     168 などのたまふ。ともかくも身のならむやうまでは、思しも流されず、ただ、「いかにしてか、後れたてまつりては、世に片時もながらふべき」と思すに、かく心細きさまの御あらましごとに、言ふ方なき御心惑ひどもになむ。心のうちにこそ思ひ捨てたまひつらめど、明け暮れ御かたはらにならはいたまうて、にはかに別れたまはむは、つらき心ならねど、げに恨めしかるべき御ありさまになむありける。
    168 
     169 明日、入りたまはむとての日は、例ならず、こなたかなた、たたずみ歩きたまひて見たまふ。いとものはかなく、かりそめの宿りにて過ぐいたまひける御住まひのありさまを、「亡からむのち、いかにしてかは、若き人の絶え籠もりては過ぐいたまはむ」と、涙ぐみつつ念誦したまふさま、いときよげなり。
    169 
     170 おとなびたる人びと召し出でて、
    170 
     171 「うしろやすく仕うまつれ。何ごとも、もとよりかやすく、世に聞こえあるまじき際の人は、末の衰へも常のことにて、紛れぬべかめり。かかる際になりぬれば、人は何と思はざらめど、口惜しうてさすらへむ、契りかたじけなく、いとほしきことなむ、多かるべき。もの寂しく心細き世を経るは、例のことなり。
    171 
     172 生まれたる家のほど、おきてのままにもてなしたらむなむ、聞き耳にも、わが心地にも、過ちなくはおぼゆべき。にぎははしく人数めかむと思ふとも、その心にもかなふまじき世とならば、ゆめゆめ軽々しく、よからぬ方にもてなしきこゆな」
    172 
     173 などのたまふ。
    173 
     174 まだ暁に出でたまふとても、こなたに渡りたまひて、
    174 
     175 「無からむほど、心細くな思しわびそ。心ばかりはやりて遊びなどはしたまへ。何ごとも思ふにえかなふまじき世を。思し入られそ」
    175 
     176 など、返り見がちにて出でたまひぬ。二所、いとど心細くもの思ひ続けられて、起き臥しうち語らひつつ、
    176 
     177 「一人一人なからましかば、いかで明かし暮らさまし」
    177 
     178 「今、行く末も定めなき世にて、もし別るるやうもあらば」
    178 
     179 など、泣きみ笑ひみ、戯れごともまめごとも、同じ心に慰め交して過ぐしたまふ。
    179 
     180

    180 
     181 [第五段 八月二十日、八の宮、山寺で死去]
    181 
     182 かの行ひたまふ三昧、今日果てぬらむと、いつしかと待ちきこえたまふ夕暮に、人参りて、
    182 
     183 「今朝より、悩ましくてなむ、え参らぬ。風邪かとて、とかくつくろふとものするほどになむ。さるは、例よりも対面心もとなきを」
    183 
     184 と聞こえたまへり。胸つぶれて、いかなるにかと思し嘆き、御衣ども綿厚くて、急ぎせさせたまひて、たてまつれなどしたまふ。二、三日怠りたまはず。「いかに、いかに」と、人たてまつりたまへど、
    184 
     185 「ことにおどろおどろしくはあらず。そこはかとなく苦しうなむ。すこしもよろしくならば、今、念じて」
    185 
     186 など、言葉にて聞こえたまふ。阿闍梨つとさぶらひて仕うまつりける。
    186 
     187 「はかなき御悩みと見ゆれど、限りのたびにもおはしますらむ。君たちの御こと、何か思し嘆くべき。人は皆、御宿世といふもの異々なれば、御心にかかるべきにもおはしまさず」
    187 
     188 と、いよいよ思し離るべきことを聞こえ知らせつつ、「今さらにな出でたまひそ」と、諌め申すなりけり。
    188 
     189 八月二十日のほどなりけり。おほかたの空のけきもいとどしきころ、君たちは、朝夕、霧の晴るる間もなく、思し嘆きつつ眺めたまふ。有明の月のいとはなやかにさし出でて、水の面もさやかに澄みたるを、そなたの蔀上げさせて、見出だしたまへるに、鐘の声かすかに響きて、「明けぬなり」と聞こゆるほどに、人びと来て、
    189 
     190 「この夜中ばかりになむ、亡せたまひぬる」
    190 
     191 と泣く泣く申す。心にかけて、いかにとは絶えず思ひきこえたまへれど、うち聞きたまふには、あさましくものおぼえぬ心地して、いとどかかることには、涙もいづちか去にけむ、ただうつぶし臥したまへり。
    191 
     192 いみじき目も、見る目の前にておぼつかなからぬこそ、常のことなれ、おぼつかなさ添ひて、思し嘆くこと、ことわりなり。しばしにても、後れたてまつりて、世にあるべきものと思しならはぬ御心地どもにて、いかでかは後れじと泣き沈みたまへど、限りある道なりければ、何のかひなし。
    192 
     193

    193 
     194 [第六段 阿闍梨による法事と薫の弔問]
    194 
     195 阿闍梨、年ごろ契りおきたまひけるままに、後の御こともよろづに仕うまつる。
    195 
     196 「亡き人になりたまへらむ御さま容貌をだに、今一度見たてまつらむ」
    196 
     197 と思しのたまへど、
    197 
     198 「今さらに、なでふさることかはべるべき。日ごろも、また会ひたまふまじきことを聞こえ知らせつれば、今はまして、かたみに御心とどめたまふまじき御心遣ひを、ならひたまふべきなり」
    198 
     199 とのみ聞こゆ。おはしましける御ありさまを聞きたまふにも、阿闍梨のあまりさかしき聖心を、憎くつらしとなむ思しける。
    199 
     200 入道の御本意は、昔より深くおはせしかど、かう見譲る人なき御ことどもの見捨てがたきを、生ける限りは明け暮れえ避らず見たてまつるを、よに心細き世の慰めにも、思し離れがたくて過ぐいたまへるを、限りある道には、先だちたまふも慕ひたまふ御心も、かなはぬわざなりけり。
    200 
     201 中納言殿には、聞きたまひて、いとあへなく口惜しく、今一度、心のどかにて聞こゆべかりけること多う残りたる心地して、おほかた世のありさま思ひ続けられて、いみじう泣いたまふ。「またあひ見ること難くや」などのたまひしを、なほ常の御心にも、朝夕の隔て知らぬ世のはかなさを、人よりけに思ひたまへりしかば、耳馴れて、昨日今日と思はざりけるを、かへすがへす飽かず悲しく思さる。
    201 
     202 阿闍梨のもとにも、君たちの御弔らひも、こまやかに聞こえたまふ。かかる御弔らひなど、また訪れきこゆる人だになき御ありさまなるは、ものおぼえぬ御心地どもにも、年ごろの御心ばへのあはれなめりしなどをも、思ひ知りたまふ。
    202 
     203 「世の常のほどの別れだに、さしあたりては、またたぐひなきやうにのみ、皆人の思ひ惑ふものなめるを、慰むかたなげなる御身どもにて、いかやうなる心地どもしたまふらむ」と思しやりつつ、後の御わざなど、あるべきことども、推し量りて、阿闍梨にも訪らひたまふ。ここにも、老い人どもにことよせて、御誦経などのことも思ひやりたまふ。
    203 
     204

    204 
     205 

    第三章 宇治の姉妹の物語 晩秋の傷心の姫君たち

    205 
     206 [第一段 九月、忌中の姫君たち]
    206 
     207 明けぬ夜の心地ながら、九月にもなりぬ。野山のけしき、まして袖の時雨をもよほしがちに、ともすればあらそひ落つる木の葉の音も、水の響きも、涙の滝も、一つもののやうに暮れ惑ひて、「かうては、いかでか、限りあらむ御命も、しばしめぐらいたまはむ」と、さぶらふ人びとは、心細く、いみじく慰めきこえつつ。
    207 
     208 ここにも念仏の僧さぶらひて、おはしましし方は、仏を形見に見たてまつりつつ、時々参り仕うまつりし人びとの、御忌に籠もりたる限りは、あはれに行ひて過ぐす。
    208 
     209 兵部卿宮よりも、たびたび弔らひきこえたまふ。さやうの御返りなど、聞こえむ心地もしたまはず。おぼつかなければ、「中納言にはかうもあらざなるを、我をばなほ思ひ放ちたまへるなめり」と、恨めしく思す。紅葉の盛りに、文など作らせたまはむとて、出で立ちたまひしを、かく、このわたりの御逍遥、便なきころなれば、思しとまりて口惜しくなむ。
    209 
     210

    210 
     211 [第二段 匂宮からの弔問の手紙]
    211 
     212 御忌も果てぬ。限りあれば、涙も隙もやと思しやりて、いと多く書き続けたまへり。時雨がちなる夕つ方、
    212 
     213 「牡鹿鳴く秋の山里いかならむ
    213 
     214  小萩が露のかかる夕暮
    214 
     215 ただ今の空のけしき、思し知らぬ顔ならむも、あまり心づきなくこそあるべけれ。枯れゆく野辺も、分きて眺めらるるころになむ」
    215 
     216 などあり。
    216 
     217 「げに、いとあまり思ひ知らぬやうにて、たびたびになりぬるを、なほ、聞こえたまへ」
    217 
     218 など、中の宮を、例の、そそのかして、書かせたてまつりたまふ。
    218 
     219 「今日までながらへて、硯など近くひき寄せて見るべきものとやは思ひし。心憂くも過ぎにける日数かな」と思すに、またかきくもり、もの見えぬ心地したまへば、押しやりて、
    219 
     220 「なほ、えこそ書きはべるまじけれ。やうやうかう起きゐられなどしはべるが、げに、限りありけるにこそとおぼゆるも、疎ましう心憂くて」
    220 
     221 と、らうたげなるさまに泣きしをれておはするも、いと心苦し。
    221 
     222 夕暮のほどより来ける御使、宵すこし過ぎてぞ来たる。「いかでか、帰り参らむ。今宵は旅寝して」と言はせたまへど、「立ち帰りこそ、参りなめ」と急げば、いとほしうて、我さかしう思ひしづめたまふにはあらねど、見わづらひたまひて、
    222 
     223 「涙のみ霧りふたがれる山里は
    223 
     224  籬に鹿ぞ諸声に鳴く」
    224 
     225 黒き紙に、夜の墨つきもたどたどしければ、ひきつくろふところもなく、筆にまかせて、おし包みて出だしたまひつ。
    225 
     226

    226 
     227 [第三段 匂宮の使者、帰邸]
    227 
     228 御使は、木幡の山のほども、雨もよにいと恐ろしげなれど、さやうのもの懼ぢすまじきをや選り出でたまひけむ、むつかしげなる笹の隈を、駒ひきとどむるほどもなくうち早めて、片時に参り着きぬ。御前にても、いたく濡れて参りたれば、禄賜ふ。
    228 
     229 さきざき御覧ぜしにはあらぬ手の、今すこしおとなびまさりて、よしづきたる書きざまなどを、「いづれか、いづれならむ」と、うちも置かず御覧じつつ、とみにも大殿籠もらねば、
    229 
     230 「待つとて、起きおはしまし」
    230 
     231 「また御覧ずるほどの久しきは、いかばかり御心にしむことならむ」
    231 
     232 と、御前なる人びと、ささめき聞こえて、憎みきこゆ。ねぶたければなめり。
    232 
     233 まだ朝霧深き朝に、いそぎ起きてたてまつりたまふ。
    233 
     234 「朝霧に友まどはせる鹿の音を
    234 
     235  おほかたにやはあはれとも聞く
    235 
     236 諸声は劣るまじくこそ」
    236 
     237 とあれど、「あまり情けだたむもうるさし。一所の御蔭に隠ろへたるを頼み所にてこそ、何ごとも心やすくて過ごしつれ。心よりほかにながらへて、思はずなることの紛れ、つゆにてもあらば、うしろめたげにのみ思しおくめりしなき御魂にさへ、疵やつけたてまつらむ」と、なべていとつつましう恐ろしうて、聞こえたまはず。
    237 
     238 この宮などを、軽らかにおしなべてのさまにも思ひきこえたまはず。なげの走り書いたまへる御筆づかひ言の葉も、をかしきさまになまめきたまへる御けはひを、あまたは見知りたまはねど、見たまひながら、「そのゆゑゆゑしく情けある方に、言をまぜきこえむも、つきなき身のありさまどもなれば、何か、ただ、かかる山伏だちて過ぐしてむ」と思す。
    238 
     239

    239 
     240 [第四段 薫、宇治を訪問]
    240 
     241 中納言殿の御返りばかりは、かれよりもまめやかなるさまに聞こえたまへば、これよりも、いとけうとげにはあらず聞こえ通ひたまふ。御忌果てても、みづから参うでたまへり。東の廂の下りたる方にやつれておはするに、近う立ち寄りたまひて、古人召し出でたり。
    241 
     242 闇に惑ひたまへる御あたりに、いとまばゆく匂ひ満ちて入りおはしたれば、かたはらいたうて、御いらへなどをだにえしたまはねば、
    242 
     243 「かやうには、もてないたまはで、昔の御心むけに従ひきこえたまはむさまならむこそ、聞こえ承るかひあるべけれ。なよびけしきばみたる振る舞ひをならひはべらねば、人伝てに聞こえはべるは、言の葉も続きはべらず」
    243 
     244 とあれば、
    244 
     245 「あさましう、今までながらへはべるやうなれど、思ひさまさむ方なき夢にたどられはべりてなむ、心よりほかに空の光見はべらむもつつましうて、端近うもえみじろきはべらぬ」
    245 
     246 と聞こえたまへれば、
    246 
     247 「ことといへば、限りなき御心の深さになむ。月日の影は、御心もて晴れ晴れしくもて出でさせたまはばこそ、罪もはべらめ。行く方もなく、いぶせうおぼえはべり。また思さるらむは、しばしをも、あきらめきこえまほしくなむ」
    247 
     248 と申したまへば、
    248 
     249 「げに、こそ。いとたぐひなげなめる御ありさまを、慰めきこえたまふ御心ばへの浅からぬほど」など、聞こえ知らす。
    249 
     250

    250 
     251 [第五段 薫、大君と和歌を詠み交す]
    251 
     252 御心地にも、さこそいへ、やうやう心しづまりて、よろづ思ひ知られたまへば、昔ざまにても、かうまではるけき野辺を分け入りたまへる心ざしなども、思ひ知りたまふべし、すこしゐざり寄りたまへり。
    252 
     253 思すらむさま、またのたまひ契りしことなど、いとこまやかになつかしう言ひて、うたて雄々しきけはひなどは見えたまはぬ人なれば、け疎くすずろはしくなどはあらねど、知らぬ人にかく声を聞かせたてまつり、すずろに頼み顔なることなどもありつる日ごろを思ひ続くるも、さすがに苦しうて、つつましけれど、ほのかに一言などいらへきこえたまふさまの、げに、よろづ思ひほれたまへるけはひなれば、いとあはれと聞きたてまつりたまふ。
    253 
     254 黒き几帳の透影の、いと心苦しげなるに、ましておはすらむさま、ほの見し明けぐれなど思ひ出でられて、
    254 
     255 「色変はる浅茅を見ても墨染に
    255 
     256  やつるる袖を思ひこそやれ」
    256 
     257 と、独り言のやうにのたまへば、
    257 
     258 「色変はる袖をば露の宿りにて
    258 
     259  わが身ぞさらに置き所なき
    259 
     260 はつるる糸は」
    260 
     261 と末は言ひ消ちて、いといみじく忍びがたきけはひにて入りたまひぬなり。
    261 
     262

    262 
     263 [第六段 薫、弁の君と語る]
    263 
     264 ひきとどめなどすべきほどにもあらねば、飽かずあはれにおぼゆ。老い人ぞ、こよなき御代はりに出で来て、昔今をかき集め、悲しき御物語ども聞こゆ。ありがたくあさましきことどもをも見たる人なりければ、かうあやしく衰へたる人とも思し捨てられず、いとなつかしう語らひたまふ。
    264 
     265 「いはけなかりしほどに、故院に後れたてまつりて、いみじう悲しきものは世なりけりと、思ひ知りにしかば、人となりゆく齢に添へて、官位、世の中の匂ひも、何ともおぼえずなむ。
    265 
     266 ただ、かう静やかなる御住まひなどの、心にかなひたまへりしを、かくはかなく見なしたてまつりなしつるに、いよいよいみじく、かりそめの世の思ひ知らるる心も、もよほされにたれど、心苦しうて、とまりたまへる御ことどもの、ほだしなど聞こえむは、かけかけしきやうなれど、ながらへても、かの御言あやまたず、聞こえ承らまほしさになむ。
    266 
     267 さるは、おぼえなき御古物語聞きしより、いとど世の中に跡とめむともおぼえずなりにたりや」
    267 
     268 うち泣きつつのたまへば、この人はましていみじく泣きて、えも聞こえやらず。御けはひなどの、ただそれかとおぼえたまふに、年ごろうち忘れたりつるいにしへの御ことをさへとり重ねて、聞こえやらむ方もなく、おぼほれゐたり。
    268 
     269 この人は、かの大納言の御乳母子にて、父は、この姫君たちの母北の方の、母方の叔父、左中弁にて亡せにけるが子なりけり。年ごろ、遠き国にあくがれ、母君も亡せたまひてのち、かの殿には疎くなり、この宮には、尋ね取りてあらせたまふなりけり。人もいとやむごとなからず、宮仕へ馴れにたれど、心地なからぬものに宮も思して、姫君たちの御後見だつ人になしたまへるなりけり。
    269 
     270 昔の御ことは、年ごろかく朝夕に見たてまつり馴れ、心隔つる隈なく思ひきこゆる君たちにも、一言うち出で聞こゆるついでなく、忍びこめたりけれど、中納言の君は、「古人の問はず語り、皆、例のことなれば、おしなべてあはあはしうなどは言ひ広げずとも、いと恥づかしげなめる御心どもには、聞きおきたまへらむかし」と推し量らるるが、ねたくもいとほしくもおぼゆるにぞ、「またもて離れてはやまじ」と、思ひ寄らるるつまにもなりぬべき。
    270 
     271

    271 
     272 [第七段 薫、日暮れて帰京]
    272 
     273 今は旅寝もすずろなる心地して、帰りたまふにも、「これや限りの」などのたまひしを、「などか、さしもやは、とうち頼みて、また見たてまつらずなりにけむ、秋やは変はれる。あまたの日数も隔てぬほどに、おはしにけむ方も知らず、あへなきわざなりや。ことに例の人めいたる御しつらひなく、いとことそぎたまふめりしかど、いとものきよげにかき払ひ、あたりをかしくもてないたまへりし御住まひも、大徳たち出で入り、こなたかなたひき隔てつつ、御念誦の具どもなどぞ、変らぬさまなれど、『仏は皆かの寺に移したてまつりてむとす』」と聞こゆるを、聞きたまふにも、かかるさまの人影などさへ絶え果てむほど、とまりて思ひたまはむ心地どもを汲みきこえたまふも、いと胸いたう思し続けらる。
    273 
     274 「いたく暮れはべりぬ」と申せば、眺めさして立ちたまふに、雁鳴きて渡る。
    274 
     275 「秋霧の晴れぬ雲居にいとどしく
    275 
     276  この世をかりと言ひ知らすらむ」
    276 
     277

    277 
     278 [第八段 姫君たちの傷心]
    278 
     279 兵部卿宮に対面したまふ時は、まづこの君たちの御ことを扱ひぐさにしたまふ。「今はさりとも心やすきを」と思して、宮は、ねむごろに聞こえたまひけり。はかなき御返りも、聞こえにくくつつましき方に、女方は思いたり。
    279 
     280 「世にいといたう好きたまへる御名のひろごりて、好ましく艶に思さるべかめるも、かういと埋づもれたる葎の下よりさし出でたらむ手つきも、いかにうひうひしく、古めきたらむ」など思ひ屈したまへり。
    280 
     281 「さても、あさましうて明け暮らさるるは、月日なりけり。かく、頼みがたかりける御世を、昨日今日とは思はで、ただおほかた定めなきはかなさばかりを、明け暮れのことに聞き見しかど、我も人も後れ先だつほどしもやは経む、などうち思ひけるよ」
    281 
     282 「来し方を思ひ続くるも、何の頼もしげなる世にもあらざりけれど、ただいつとなくのどやかに眺め過ぐし、もの恐ろしくつつましきこともなくて経つるものを、風の音も荒らかに、例見ぬ人影も、うち連れ声づくれば、まづ胸つぶれて、もの恐ろしくわびしうおぼゆることさへ添ひにたるが、いみじう堪へがたきこと」
    282 
     283 と、二所うち語らひつつ、干す世もなくて過ぐしたまふに、年も暮れにけり。
    283 
     284

    284 
     285 

    第四章 宇治の姉妹の物語 歳末の宇治の姫君たち

    285 
     286 [第一段 歳末の宇治の姫君たち]
    286 
     287 雪霰降りしくころは、いづくもかくこそはある風の音なれど、今はじめて思ひ入りたらむ山住みの心地したまふ。女ばらなど、
    287 
     288 「あはれ、年は替はりなむとす。心細く悲しきことを。改まるべき春待ち出でてしがな」
    288 
     289 と、心を消たず言ふもあり。「難きことかな」と聞きたまふ。
    289 
     290 向ひの山にも、時々の御念仏に籠もりたまひしゆゑこそ、人も参り通ひしか、阿闍梨も、いかがと、おほかたにまれに訪れきこゆれど、今は何しにかはほのめき参らむ。
    290 
     291 いとど人目の絶え果つるも、さるべきことと思ひながら、いと悲しくなむ。何とも見ざりし山賤も、おはしまさでのち、たまさかにさしのぞき参るは、めづらしく思ほえたまふ。このころのこととて、薪、木の実拾ひて参る山人どもあり。
    291 
     292 阿闍梨の室より、炭などやうのものたてまつるとて、
    292 
     293 「年ごろにならひはべりにける宮仕への、今とて絶えはつらむが、心細さになむ」
    293 
     294 と聞こえたり。かならず冬籠もる山風ふせぎつべき綿衣など遣はししを、思し出でてやりたまふ。法師ばら、童べなどの上り行くも、見えみ見えずみ、いと雪深きを、泣く泣く立ち出でて見送りたまふ。
    294 
     295 「御髪など下ろいたまうてける、さる方にておはしまさましかば、かやうに通ひ参る人も、おのづからしげからまし」
    295 
     296 「いかにあはれに心細くとも、あひ見たてまつること絶えてやまましやは」
    296 
     297 など、語らひたまふ。
    297 
     298 「君なくて岩のかけ道絶えしより
    298 
     299  松の雪をもなにとかは見る」
    299 
     300 中の宮、
    300 
     301 「奥山の松葉に積もる雪とだに
    301 
     302  消えにし人を思はましかば」
    302 
     303 うらやましくぞ、またも降り添ふや。
    303 
     304

    304 
     305 [第二段 薫、歳末に宇治を訪問]
    305 
     306 中納言の君、「新しき年は、ふとしもえ訪らひきこえざらむ」と思しておはしたり。雪もいと所狭きに、よろしき人だに見えずなりにたるを、なのめならぬけはひして、軽らかにものしたまへる心ばへの、浅うはあらず思ひ知られたまへば、例よりは見入れて、御座などひきつくろはせたまふ。
    306 
     307 墨染ならぬ御火桶、奥なる取り出でて、塵かき払ひなどするにつけても、宮の待ち喜びたまひし御けしきなどを、人びとも聞こえ出づ。対面したまふことをば、つつましくのみ思いたれど、思ひ隈なきやうに人の思ひたまへれば、いかがはせむとて、聞こえたまふ。
    307 
     308 うちとくとはなけれど、さきざきよりはすこし言の葉続けて、ものなどのたまへるさま、いとめやすく、心恥づかしげなり。「かやうにてのみは、え過ぐし果つまじ」と思ひなりたまふも、「いとうちつけなる心かな。なほ、移りぬべき世なりけり」と思ひゐたまへり。
    308 
     309

    309 
     310 [第三段 薫、匂宮について語る]
    310 
     311 「宮の、いとあやしく恨みたまふことのはべるかな。あはれなりし御一言をうけたまはりおきしさまなど、ことのついでにもや、漏らし聞こえたりけむ。またいと隈なき御心のさがにて、推し量りたまふにやはべらむ、ここになむ、ともかくも聞こえさせなすべきと頼むを、つれなき御けしきなるは、もてそこなひきこゆるぞと、たびたび怨じたまへば、心よりほかなることと思うたまふれど、里のしるべ、いとこよなうもえあらがひきこえぬを、何かは、いとさしももてなしきこえたまはむ。
    311 
     312 好いたまへるやうに、人は聞こえなすべかめれど、心の底あやしく深うおはする宮なり。なほざりごとなどのたまふわたりの、心軽うてなびきやすなるなどを、めづらしからぬものに思ひおとしたまふにや、となむ聞くこともはべる。何ごとにもあるに従ひて、心を立つる方もなく、おどけたる人こそ、ただ世のもてなしに従ひて、とあるもかかるもなのめに見なし、すこし心に違ふふしあるにも、いかがはせむ、さるべきぞ、なども思ひなすべかめれば、なかなか心長き例になるやうもあり。
    312 
     313 崩れそめては、龍田の川の濁る名をも汚し、いふかひなく名残なきやうなることなども、皆うちまじるめれ。心の深うしみたまふべかめる御心ざまにかなひ、ことに背くこと多くなどものしたまはざらむをば、さらに、軽々しく、初め終り違ふやうなることなど、見せたまふまじきけしきになむ。
    313 
     314 人の見たてまつり知らぬことを、いとよう見きこえたるを、もし似つかはしく、さもやと思し寄らば、そのもてなしなどは、心の限り尽くして仕うまつりなむかし。御中道のほど、乱り脚こそ痛からめ」
    314 
     315 と、いとまめやかにて、言ひ続けたまへば、わが御みづからのこととは思しもかけず、「人の親めきていらへむかし」と思しめぐらしたまへど、なほ言ふべき言の葉もなき心地して、
    315 
     316 「いかにとかは。かけかけしげにのたまひ続くるに、なかなか聞こえむこともおぼえはべらで」
    316 
     317 と、うち笑ひたまへるも、おいらかなるものから、けはひをかしう聞こゆ。
    317 
     318

    318 
     319 [第四段 薫と大君、和歌を詠み交す]
    319 
     320 「かならず御みづから聞こしめし負ふべきこととも思うたまへず。それは、雪を踏み分けて参り来たる心ざしばかりを、御覧じ分かむ御このかみ心にても過ぐさせたまひてよかし。かの御心寄せは、また異にぞはべべかめる。ほのかにのたまふさまもはべめりしを、いさや、それも人の分ききこえがたきことなり。御返りなどは、いづ方にかは聞こえたまふ」
    320 
     321 と問ひ申したまふに、「ようぞ、戯れにも聞こえざりける。何となけれど、かうのたまふにも、いかに恥づかしう胸つぶれまし」と思ふに、え答へやりたまはず。
    321 
     322 「雪深き山のかけはし君ならで
    322 
     323  またふみかよふ跡を見ぬかな」
    323 
     324 と書きて、さし出でたまへれば、
    324 
     325 「御ものあらがひこそ、なかなか心おかれはべりぬべけれ」とて、
    325 
     326 「つららとぢ駒ふみしだく山川を
    326 
     327  しるべしがてらまづや渡らむ
    327 
     328 さらばしも、影さへ見ゆるしるしも、浅うははべらじ」
    328 
     329 と聞こえたまへば、思はずに、ものしうなりて、ことにいらへたまはず。けざやかに、いともの遠くすくみたるさまには見えたまはねど、今やうの若人たちのやうに、艶げにももてなさで、いとめやすく、のどやかなる心ばへならむとぞ、推し量られたまふ人の御けはひなる。
    329 
     330 かうこそは、あらまほしけれと、思ふに違はぬ心地したまふ。ことに触れて、けしきばみ寄るも、知らず顔なるさまにのみもてなしたまへば、心恥づかしうて、昔物語などをぞ、ものまめやかに聞こえたまふ。
    330 
     331

    331 
     332 [第五段 薫、人びとを励まして帰京]
    332 
     333 「暮れ果てなば、雪いとど空も閉ぢぬべうはべり」
    333 
     334 と、御供の人びと声づくれば、帰りたまひなむとて、
    334 
     335 「心苦しう見めぐらさるる御住まひのさまなりや。ただ山里のやうにいと静かなる所の、人も行き交じらぬはべるを、さも思しかけば、いかにうれしくはべらむ」
    335 
     336 などのたまふも、「いとめでたかるべきことかな」と、片耳に聞きて、うち笑む女ばらのあるを、中の宮は、「いと見苦しう、いかにさやうにはあるべきぞ」と見聞きゐたまへり。
    336 
     337 御くだものよしあるさまにて参り、御供の人びとにも、肴などめやすきほどにて、土器さし出でさせたまひけり。また御移り香もて騷がれし宿直人ぞ、鬘鬚とかいふつらつき、心づきなくてある、「はかなの御頼もし人や」と見たまひて、召し出でたり。
    337 
     338 「いかにぞ。おはしまさでのち、心細からむな」
    338 
     339 など問ひたまふ。うちひそみつつ、心弱げに泣く。
    339 
     340 「世の中に頼むよるべもはべらぬ身にて、一所の御蔭に隠れて、三十余年を過ぐしはべりにければ、今はまして、野山にまじりはべらむも、いかなる木のもとをかは頼むべくはべらむ」
    340 
     341 と申して、いとど人悪ろげなり。
    341 
     342 おはしましし方開けさせたまへれば、塵いたう積もりて、仏のみぞ花の飾り衰へず、行ひたまひけりと見ゆる御床など取りやりて、かき払ひたり。本意をも遂げば、と契りきこえしこと思ひ出でて、
    342 
     343 「立ち寄らむ蔭と頼みし椎が本
    343 
     344  空しき床になりにけるかな」
    344 
     345 とて、柱に寄りゐたまへるをも、若き人びとは、覗きてめでたてまつる。
    345 
     346 日暮れぬれば、近き所々に、御荘など仕うまつる人びとに、御秣取りにやりける、君も知りたまはぬに、田舎びたる人びとは、おどろおどろしくひき連れ参りたるを、「あやしう、はしたなきわざかな」と御覧ずれど、老い人に紛らはしたまひつ。おほかたかやうに仕うまつるべく、仰せおきて出でたまひぬ。
    346 
     347

    347 
     348 

    第五章 宇治の姉妹の物語 匂宮、薫らとの恋物語始まる

    348 
     349 [第一段 新年、阿闍梨、姫君たちに山草を贈る]
    349 
     350 年替はりぬれば、空のけしきうららかなるに、汀の氷解けたるを、ありがたくもと眺めたまふ。聖の坊より、「雪消えに摘みてはべるなり」とて、沢の芹、蕨などたてまつりたり。斎の御台に参れる。
    350 
     351 「所につけては、かかる草木のけしきに従ひて、行き交ふ月日のしるしも見ゆるこそ、をかしけれ」
    351 
     352 など、人びとの言ふを、「何のをかしきならむ」と聞きたまふ。
    352 
     353 「君が折る峰の蕨と見ましかば
    353 
     354  知られやせまし春のしるしも」
    354 
     355 「雪深き汀の小芹誰がために
    355 
     356  摘みかはやさむ親なしにして」
    356 
     357 など、はかなきことどもをうち語らひつつ、明け暮らしたまふ。
    357 
     358 中納言殿よりも宮よりも、折過ぐさず訪らひきこえたまふ。うるさく何となきこと多かるやうなれば、例の、書き漏らしたるなめり。
    358 
     359

    359 
     360 [第二段 花盛りの頃、匂宮、中の君と和歌を贈答]
    360 
     361 花盛りのころ、宮、「かざし」を思し出でて、その折見聞きたまひし君たちなども、
    361 
     362 「いとゆゑありし親王の御住まひを、またも見ずなりにしこと」
    362 
     363 など、おほかたのあはれを口々聞こゆるに、いとゆかしう思されけり。
    363 
     364 「つてに見し宿の桜をこの春は
    364 
     365  霞隔てず折りてかざさむ」
    365 
     366 と、心をやりてのたまへりけり。「あるまじきことかな」と見たまひながら、いとつれづれなるほどに、見所ある御文の、うはべばかりをもて消たじとて、
    366 
     367 「いづことか尋ねて折らむ墨染に
    367 
     368  霞みこめたる宿の桜を」
    368 
     369 なほ、かくさし放ち、つれなき御けしきのみ見ゆれば、まことに心憂しと思しわたる。
    369 
     370

    370 
     371 [第三段 その後の匂宮と薫]
    371 
     372 御心にあまりたまひては、ただ中納言を、とざまかうざまに責め恨みきこえたまへば、をかしと思ひながら、いとうけばりたる後見顔にうちいらへきこえて、あだめいたる御心ざまをも見あらはす時々は、
    372 
     373 「いかでか、かからむには」
    373 
     374 など、申したまへば、宮も御心づかひしたまふべし。
    374 
     375 「心にかなふあたりを、まだ見つけぬほどぞや」とのたまふ。
    375 
     376 大殿の六の君を思し入れぬこと、なま恨めしげに、大臣も思したりけり。されど、
    376 
     377 「ゆかしげなき仲らひなるうちにも、大臣のことことしくわづらはしくて、何ごとの紛れをも見とがめられむがむつかしき」
    377 
     378 と、下にはのたまひて、すまひたまふ。
    378 
     379 その年、三条宮焼けて、入道宮も、六条院に移ろひたまひ、何くれともの騒がしきに紛れて、宇治のわたりを久しう訪れきこえたまはず。まめやかなる人の御心は、またいと異なりければ、いとのどかに、「おのがものとはうち頼みながら、女の心ゆるびたまはざらむ限りは、あざればみ情けなきさまに見えじ」と思ひつつ、「昔の御心忘れぬ方を、深く見知りたまへ」と思す。
    379 
     380

    380 
     381 [第四段 夏、薫、宇治を訪問]
    381 
     382 その年、常よりも暑さを人わぶるに、「川面涼しからむはや」と思ひ出でて、にはかに参うでたまへり。朝涼みのほどに出でたまひければ、あやにくにさし来る日影もまばゆくて、宮のおはせし西の廂に、宿直人召し出でておはす。
    382 
     383 そなたの母屋の仏の御前に、君たちものしたまひけるを、気近からじとて、わが御方に渡りたまふ御けはひ、忍びたれど、おのづから、うちみじろきたまふほど近う聞こえければ、なほあらじに、こなたに通ふ障子の端の方に、かけがねしたる所に、穴のすこし開きたるを見おきたまへりければ、外に立てたる屏風をひきやりて見たまふ。
    383 
     384 ここもとに几帳を添へ立てたる、「あな、口惜し」と思ひて、ひき帰る、折しも、風の簾をいたう吹き上ぐべかめれば、
    384 
     385 「あらはにもこそあれ。その御几帳おし出でてこそ」
    385 
     386 と言ふ人あなり。をこがましきものの、うれしうて見たまへば、高きも短きも、几帳を二間の簾におし寄せて、この障子に向かひて、開きたる障子より、あなたに通らむとなりけり。
    386 
     387

    387 
     388 [第五段 障子の向こう側の様子]
    388 
     389 まづ、一人立ち出でて、几帳よりさし覗きて、この御供の人びとの、とかう行きちがひ、涼みあへるを見たまふなりけり。濃き鈍色の単衣に、萱草の袴もてはやしたる、なかなかさま変はりてはなやかなりと見ゆるは、着なしたまへる人からなめり。
    389 
     390 帯はかなげにしなして、数珠ひき隠して持たまへり。いとそびやかに、様体をかしげなる人の、髪、袿にすこし足らぬほどならむと見えて、末まで塵のまよひなく、つやつやとこちたう、うつくしげなり。かたはらめなど、あならうたげと見えて、匂ひやかに、やはらかにおほどきたるけはひ、女一の宮も、かうざまにぞおはすべきと、ほの見たてまつりしも思ひ比べられて、うち嘆かる。
    390 
     391 またゐざり出でて、「かの障子は、あらはにもこそあれ」と、見おこせたまへる用意、うちとけたらぬさまして、よしあらむとおぼゆ。頭つき、髪ざしのほど、今すこしあてになまめかしきさまなり。
    391 
     392 「あなたに屏風も添へて立ててはべりつ。急ぎてしも、覗きたまはじ」
    392 
     393 と、若き人びと、何心なく言ふあり。
    393 
     394 「いみじうもあるべきわざかな」
    394 
     395 とて、うしろめたげにゐざり入りたまふほど、気高う心にくきけはひ添ひて見ゆ。黒き袷一襲、同じやうなる色合ひを着たまへれど、これはなつかしうなまめきて、あはれげに、心苦しうおぼゆ。
    395 
     396 髪、さはらかなるはどに落ちたるなるべし、末すこし細りて、色なりとかいふめる、翡翠だちていとをかしげに、糸をよりかけたるやうなり。紫の紙に書きたる経を、片手に持ちたまへる手つき、かれよりも細さまさりて、痩せ痩せなるべし。立ちたりつる君も、障子口にゐて、何ごとにかあらむ、こなたを見おこせて笑ひたる、いと愛敬づきたり。
    396 
     397

    397 
     398 【出典】
    398 
     399出典1 我が庵は都の巽しかぞ住む世を宇治山と人は言ふなり(古今集雑下-九八三 喜撰法師)(戻)
    399 
     400出典2 桜咲くさくらの山の桜花散る桜あれば咲く桜あり(源氏釈所引-出典未詳)(戻)
    400 
     401出典3 稲蓆川添ひ柳水行けば起き臥しすれどその根絶えせず(古今六帖六-四一五五)(戻)
    401 
    c1402<A NAME="no4">出典4</A> 桜人 その舟止ちぢめ 島つ田を 十町作れる 見て帰り来むや そよや 明日帰りこむ そよや 言をこそ 明日とも言はめ 遠方をちかたに 妻ざる夫せなは 明日もさね来じや そよや さ明日もさね来じや そよや(催馬楽-桜人)<A HREF="#te4">(戻)</A><BR>402<A NAME="no4">出典4</A> 桜人 その舟<ruby><rb><rp>(<rt>ちぢ<rp>)</ruby>め 島つ田を 十町作れる 見て帰り来むや そよや 明日帰りこむ そよや 言をこそ 明日とも言はめ <ruby><rb>遠方<rp>(<rt>をちかた<rp>)</ruby>に 妻ざる<ruby><rb><rp>(<rt>せな<rp>)</ruby>は 明日もさね来じや そよや さ明日もさね来じや そよや(催馬楽-桜人)<A HREF="#te4">(戻)</A><BR>
     403出典5 我が宿と頼む吉野に君し入らば同じかざしを挿しこそはせめ(後撰集恋四-八〇九 伊勢)(戻)
    403 
     404出典6 春の野にすみれ摘みにと来し我ぞ野をなつかしみ一夜寝にける(万葉集巻八-一四二八 山部赤人)(戻)
    404 
     405出典7 わきてしも何匂ふらむ秋の野にいづれともなくなびく尾花を(源氏釈所引-出典未詳)(戻)
    405 
     406出典8 近江路をしるべなくても見てしかな関のこなたは侘しかりけり(後撰集恋三-七八五 源中正)(戻)
    406 
     407出典9 松虫の初声誘ふ秋風は音羽山より吹きそめにけり(後撰集秋上-二五一 読人しらず)(戻)
    407 
     408出典10 人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな(後撰集雑一-一一〇二 藤原兼輔)(戻)
    408 
     409出典11 朝有紅顔誇世路 暮為白骨朽郊原(和漢朗詠集下-七九四 藤原義孝)(戻)
    409 
     410出典12 つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりけり(古今集哀傷-八六一 在原業平)(戻)
    410 
     411出典13 明けぬ夜ながら心地ながらにやみにしをあさくらと言ひし声は聞ききや(後拾遺集雑四-一〇八一 読人しらず)(戻)
    411 
     412出典14 我が世をば今日か明日かと待つかひの涙の滝といづれ高けむ(新古今集雑中-一六五一 在原行平)(戻)
    412 
     413出典15 鹿の棲む尾の上の萩の下葉より枯れ行く野辺もあはれとぞ見る(新千載集秋下-五二六 具平親王)(戻)
    413 
     414出典16 山科の木幡の里に馬はあれど徒歩よりぞ来る君を思へば(拾遺集雑恋-一二四三 柿本人麿)(戻)
    414 
     415出典17 笹の隈桧の隈川に駒止めてしばし水かへ影をだに見む(古今集神遊び-一〇八〇 ひるめのうた)(戻)
    415 
     416出典18 声立てて鳴きぞしぬべき秋霧に友まどはせる鹿にはあらねども(後撰集秋下-三七二 紀友則)(戻)
    416 
     417出典19 藤衣はつるる糸は侘び人の涙の玉の緒とぞなりける(古今集哀傷-一二九二 読人しらず)(戻)
    417 
     418出典20 逢ふことはこれや限りのたびならむ草の枕も霜枯れにけり(新古今集恋三-一二〇九 馬内侍)(戻)
    418 
     419出典21 雁の来る峰の朝霧晴れずのみ思ひ尽きせぬ世の中の憂さ(古今集雑下-九三五 読人しらず)(戻)
    419 
     420出典22 つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりけり(古今集哀傷-八六一 在原業平)(戻)
    420 
     421出典23 末の露本の雫や世の中の後れ先立つためしなるらむ(古今六帖一-五九三)(戻)
    421 
     422出典24 百千鳥さへづる春はものごとに改まれども我ぞ古りゆく(古今集春上-二八 読人しらず)(戻)
    422 
     423出典25 海人の住む里のしるべにあらなくにうらみむとのみ人の言ふらむ(古今集恋四-七二七 小野小町)(戻)
    423 
     424出典26 神奈備の三室の岸や崩るらむ龍田の川の水の濁れる(拾遺集物名-三八九 高向草春)(戻)
    424 
     425出典27 忘れては夢かとぞ思ふ雪踏み分けて君を見むとは(古今集雑下-九七〇 在原業平)(戻)
    425 
     426出典28 浅香山影さへ見ゆる山の井の浅くは人を思ふものかは(古今六帖二-九八五)(戻)
    426 
     427出典29 侘び人のわきて立ち寄る木の本は頼む蔭なく紅葉散りけり(古今集秋下-二九二 遍昭僧正)(戻)
    427 
     428出典30 優婆塞が行ふ山の椎が本あなそばそばし床にしあらねば(宇津保物語-二一二)(戻)
    428 
     429

    429 
     430 【校訂】
    430 
     431備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△
    431 
     432校訂1 仕うまつれり--つかうまつ(つ/+れ)り(戻)
    432 
     433校訂2 たまへる--給へり(り/$る<朱>)(戻)
    433 
     434校訂3 夕つ方ぞ--夕つかたに(に/$そ<朱>)(戻)
    434 
     435校訂4 今開け--今△(△/#)ひらけ(戻)
    435 
     436校訂5 孫王めく--そむわ(わ/$王<朱>)めく(戻)
    436 
     437校訂6 大君--おほき(き/+み)△(△/#)(戻)
    437 
     438校訂7 世に心とどめたまはねば、出で立ちいそぎを--を(を/$<朱>)(/+世に心とゝめ給はねはいてたちいそきを<朱>)(戻)
    438 
     439校訂8 ただ--たゝ/\(/\/$)(戻)
    439 
     440校訂9 もの心細く--物心(心/+ほ)そく(戻)
    440 
     441校訂10 怠り--おこ(こ/+た)り(戻)
    441 
     442校訂11 おはせしかど--おは(は/+せ)しかと(戻)
    442 
     443校訂12 あひ見る--あひ見ん(ん/$る)(戻)
    443 
     444校訂13 きこゆる--きこゆ(ゆ/+る<朱>)(戻)
    444 
     445校訂14 出で立ちたまひし--いてたち(ち/+給)し(戻)
    445 
     446校訂15 ほどもなく--(/+ほとも<朱>)なく(戻)
    446 
     447校訂16 御魂--御ため(め/$ま)(戻)
    447 
     448校訂17 はべらず--はへ(へ/+ら<朱>)す(戻)
    448 
     449校訂18 思ひこそ--思ひに(に/$こ<朱>)そ(戻)
    449 
     450校訂19 承らまほしさ--うけたまはら(ら/+ま<朱>)ほしさ(戻)
    450 
     451校訂20 遠き国に--とをきくに(に/+に)(戻)
    451 
     452校訂21 思ひきこゆる--*思きこゆ(戻)
    452 
     453校訂22 心を消たず言ふもあり。「難きことかな」と--(/+心をけたすいふもありかたき事かなと)(戻)
    453 
     454校訂23 何しに--なにこと(こと/$し)に(戻)
    454 
     455校訂24 など--なと(なと/#<朱>)なと(戻)
    455 
     456校訂25 絶えはつらむ--たえはへ(へ/#つ)らん(戻)
    456 
     457校訂26 おはしたり--おはした(た/+り<朱>)(戻)
    457 
     458校訂27 にもや--に(に/+も)や(戻)
    458 
     459校訂28 痛からめ--(/+い)たからめ(戻)
    459 
     460校訂29 さし出で--さしはへ(はへ/#)いて(戻)
    460 
     461校訂30 口々--くち(ち/+/\<朱>)(戻)
    461 
     462校訂31 あたりを--あたり(り/+を)(戻)
    462 
     463校訂32 仲らひなる--なからひた(た/$な<朱>)る(戻)
    463 
     464校訂33 こなたに--こなたには(は/#<朱>)(戻)
    464 
     465校訂34 鈍色--わ(わ/$に<朱>)ひいろ(戻)
    465 
     466

    466 
     467源氏物語の世界ヘ
    467 
     468ローマ字版
    468 
     469現代語訳
    469 
     470注釈
    470 
     471大島本
    471 
     472自筆本奥入
    472 
     473473 
     474
    474 
     475475 
     476476