うき夜半の悪夢と共になつかしき
ゆめもあとなく消えにけるかな (晶子)
[第二段 数日後、夕顔の宿の報告]
幾日かして惟光が出て来た。
「病人がまだひどく衰弱しているものでございますから、どうしてもそのほうの手が離せませんで、失礼いたしました」
こんな挨拶をしたあとで、少し源氏の君の近くへ膝を進めて惟光朝臣は言った。
「お話がございましたあとで、隣のことによく通じております者を呼び寄せまして、聞かせたのでございますが、よくは話さないのでございます。この五月ごろからそっと来て同居している人があるようですが、どなたなのか、家の者にもわからせないようにしていますと申すのです。
時々私の家との間の垣根から私はのぞいて見るのですが、いかにもあの家には若い女の人たちがいるらしい影が簾から見えます。主人がいなければつけない裳を言いわけほどにでも女たちがつけておりますから、主人である女が一人いるに違いございません。
昨日夕日がすっかり家の中へさし込んでいました時に、すわって手紙を書いている女の顔が非常にきれいでした。物思いがあるふうでございましたよ。女房の中には泣いている者も確かにおりました」
源氏はほほえんでいたが、もっと詳しく知りたいと思うふうである。
自重をなさらなければならない身分は身分でも、この若さと、この美の備わった方が、恋愛に興味をお持ちにならないでは、第三者が見ていても物足らないことである。恋愛をする資格がないように思われているわれわれでさえもずいぶん女のことでは好奇心が動くのであるからと惟光は主人をながめていた。
「そんなことから隣の家の内の秘密がわからないものでもないと思いまして、ちょっとした機会をとらえて隣の女へ手紙をやってみました。するとすぐに書き馴れた達者な字で返事がまいりました、相当によい若い女房もいるらしいのです」
「おまえは、なおどしどし恋の手紙を送ってやるのだね。それがよい。その人の正体が知れないではなんだか安心ができない」
と源氏が言った。
家は下の下に属するものと品定めの人たちに言われるはずの所でも、そんな所から意外な趣のある女を見つけ出すことがあればうれしいに違いないと源氏は思うのである。
[第二段 八月十五夜の逢瀬]
源氏もこんなに真実を隠し続ければ、自分も女のだれであるかを知りようがない、今の家が仮の住居であることは間違いのないことらしいから、どこかへ移って行ってしまった時に、自分は呆然とするばかりであろう。行くえを失ってもあきらめがすぐつくものならよいが、それは断然不可能である。
世間をはばかって間を空ける夜などは堪えられない苦痛を覚えるのだと源氏は思って、世間へはだれとも知らせないで二条の院へ迎えよう、それを悪く言われても自分はそうなる前生の因縁だと思うほかはない、自分ながらもこれほど女に心を惹かれた経験が過去にないことを思うと、どうしても約束事と解釈するのが至当である、こんなふうに源氏は思って、
「あなたもその気におなりなさい。私は気楽な家へあなたをつれて行って夫婦生活がしたい」
こんなことを女に言い出した。
「でもまだあなたは私を普通には取り扱っていらっしゃらない方なんですから不安で」
若々しく夕顔が言う。源氏は微笑された。
「そう、どちらかが狐なんだろうね。でも欺されていらっしゃればいいじゃない」
なつかしいふうに源氏が言うと、女はその気になっていく。どんな欠点があるにしても、これほど純な女を愛せずにはいられないではないかと思った時、源氏は初めからその疑いを持っていたが、頭中将の常夏の女はいよいよこの人らしいという考えが浮かんだ。しかし隠しているのはわけのあることであろうからと思って、しいて聞く気にはなれなかった。
感情を害した時などに突然そむいて行ってしまうような性格はなさそうである、自分が途絶えがちになったりした時には、あるいはそんな態度に出るかもしれぬが、自分ながら少し今の情熱が緩和された時にかえって女のよさがわかるのではないかと、それを望んでもできないのだから途絶えの起こってくるわけはない、したがって女の気持ちを不安に思う必要はないのだと知っていた。
八月の十五夜であった。明るい月光が板屋根の隙間だらけの家の中へさし込んで、狭い家の中の物が源氏の目に珍しく見えた。もう夜明けに近い時刻なのであろう。近所の家々で貧しい男たちが目をさまして高声で話すのが聞こえた。
「ああ寒い。
今年こそもう商売のうまくいく自信が持てなくなった。地方廻りもできそうでないんだから心細いものだ。北隣さん、まあお聞きなさい」
などと言っているのである。
哀れなその日その日の仕事のために起き出して、そろそろ労働を始める音なども近い所でするのを女は恥ずかしがっていた。
気どった女であれば死ぬほどきまりの悪さを感じる場所に違いない。でも夕顔はおおようにしていた。人の恨めしさも、自分の悲しさも、体面の保たれぬきまり悪さも、できるだけ思ったとは見せまいとするふうで、自分自身は貴族の子らしく、娘らしくて、ひどい近所の会話の内容もわからぬようであるのが、恥じ入られたりするよりも感じがよかった。
ごほごほと雷以上の恐い音をさせる唐臼なども、すぐ寝床のそばで鳴るように聞こえた。源氏もやかましいとこれは思った。けれどもこの貴公子も何から起こる音とは知らないのである。大きなたまらぬ音響のする何かだと思っていた。そのほかにもまだ多くの騒がしい雑音が聞こえた。
白い麻布を打つ砧のかすかな音もあちこちにした。空を行く雁の声もした。秋の悲哀がしみじみと感じられる。庭に近い室であったから、横の引き戸を開けて二人で外をながめるのであった。小さい庭にしゃれた姿の竹が立っていて、草の上の露はこんなところのも二条の院の前栽のに変わらずきらきらと光っている。虫もたくさん鳴いていた。壁の中で鳴くといわれて人間の居場所に最も近く鳴くものになっている蟋蟀でさえも源氏は遠くの声だけしか聞いていたかったが、ここではどの虫も耳のそばへとまって鳴くような風変わりな情趣だと源氏が思うのも、夕顔を深く愛する心が何事も悪くは思わせないのであろう。
白い袷に柔らかい淡紫を重ねたはなやかな姿ではない、ほっそりとした人で、どこかきわだって非常によいというところはないが繊細な感じのする美人で、ものを言う様子に弱々しい可憐さが十分にあった。才気らしいものを少しこの人に添えたらと源氏は批評的に見ながらも、もっと深くこの人を知りたい気がして、
「さあ出かけましょう。この近くのある家へ行って、気楽に明日まで話しましょう。こんなふうでいつも暗い間に別れていかなければならないのは苦しいから」
と言うと、
「どうしてそんなに急なことをお言い出しになりますの」
おおように夕顔は言っていた。変わらぬ恋を死後の世界にまで続けようと源氏の誓うのを見ると何の疑念もはさまずに信じてよろこぶ様子などのうぶさは、一度結婚した経験のある女とは思えないほど可憐であった。源氏はもうだれの思わくもはばかる気がなくなって、右近に随身を呼ばせて、車を庭へ入れることを命じた。夕顔の女房たちも、この通う男が女主人を深く愛していることを知っていたから、だれともわからずにいながら相当に信頼していた。
ずっと明け方近くなってきた。この家に鶏の声は聞こえないで、現世利益の御岳教の信心なのか、老人らしい声で、起ったりすわったりして、とても忙しく苦しそうにして祈る声が聞かれた。源氏は身にしむように思って、朝露と同じように短い命を持つ人間が、この世に何の慾を持って祈祷などをするのだろうと聞いているうちに、
「南無当来の導師」
と阿弥陀如来を呼びかけた。
「そら聞いてごらん。現世利益だけが目的じゃなかった」
とほめて、
優婆塞が行なふ道をしるべにて
来ん世も深き契りたがふな
とも言った。玄宗と楊貴妃の七月七日の長生殿の誓いは実現されない空想であったが、五十六億七千万年後の弥勒菩薩出現の世までも変わらぬ誓いを源氏はしたのである。
前の世の契り知らるる身のうさに
行く末かけて頼みがたさよ
と女は言った。歌を詠む才なども豊富であろうとは思われない。
[第三段 なにがしの院に移る]
月夜に出れば月に誘惑されて行って帰らないことがあるということを思って出かけるのを躊躇する夕顔に、源氏はいろいろに言って同行を勧めているうちに月もはいってしまって東の空の白む秋のしののめが始まってきた。
人目を引かぬ間にと思って源氏は出かけるのを急いだ。女のからだを源氏が軽々と抱いて車に乗せ右近が同乗したのであった。
五条に近い帝室の後院である某院へ着いた。呼び出した院の預かり役の出て来るまで留めてある車から、忍ぶ草の生い茂った門の廂が見上げられた。たくさんにある大木が暗さを作っているのである。霧も深く降っていて空気の湿っぽいのに車の簾を上げさせてあったから源氏の袖もそのうちべったりと濡れてしまった。
「私にははじめての経験だが妙に不安なものだ。
いにしへもかくやは人の惑ひけん
わがまだしらぬしののめの道
前にこんなことがありましたか」
と聞かれて女は恥ずかしそうだった。
「山の端の心も知らず行く月は
上の空にて影や消えなん
心細うございます、私は」
凄さに女がおびえてもいるように見えるのを、源氏はあの小さい家におおぜい住んでいた人なのだから道理であると思っておかしかった。
門内へ車を入れさせて、西の対に仕度をさせている間、高欄に車の柄を引っかけて源氏らは庭にいた。右近は艶な情趣を味わいながら女主人の過去の恋愛時代のある場面なども思い出されるのであった。預かり役がみずから出てする客人の扱いが丁寧きわまるものであることから、右近にはこの風流男の何者であるかがわかった。
物の形がほのぼの見えるころに家へはいった。
にわかな仕度ではあったが体裁よく座敷がこしらえてあった。
「だれというほどの人がお供しておらないなどとは、どうもいやはや」 などといって預かり役は始終出入りする源氏の下家司でもあったから、座敷の近くへ来て右近に、
「御家司をどなたかお呼び寄せしたものでございましょうか」
と取り次がせた。
「わざわざだれにもわからない場所にここを選んだのだから、おまえ以外の者にはすべて秘密にしておいてくれ」
と源氏は口留めをした。
さっそくに調えられた粥などが出た。給仕も食器も間に合わせを忍ぶよりほかはない。こんな経験を持たぬ源氏は、一切を切り放して気にかけぬこととして、恋人とはばからず語り合う愉楽に酔おうとした。
源氏は昼ごろに起きて格子を自身で上げた。非常に荒れていて、人影などは見えずにはるばると遠くまでが見渡される。向こうのほうの木立ちは気味悪く古い大木に皆なっていた。近い値え込みの草や灌木などには美しい姿もない。秋の荒野の景色になっている。池も水草でうずめられた凄いものである。別れた棟のほうに部屋などを持って預かり役は住むらしいが、そことこことはよほど離れている。
「気味悪い家になっている。でも鬼なんかだって私だけはどうともしなかろう」
と源氏は言った。
まだこの時までは顔を隠していたが、この態度を女が恨めしがっているのを知って、何たる錯誤だ、不都合なのは自分である、こんなに愛していながらと気がついた、
「夕露にひもとく花は玉鉾の
たよりに見えし縁こそありけれ
あなたの心あてにそれかと思うと言った時の人の顔を近くに見て幻滅が起こりませんか」
と言う源氏の君を後目に女は見上げて、
光ありと見し夕顔のうは露は
黄昏時のそら目なりけり
と言った。冗談までも言う気になったのが源氏にはうれしかった。打ち解けた瞬間から源氏の美はあたりに放散した。古くさく荒れた家との対照はまして魅惑的だった。
「いつまでも真実のことを打ちあけてくれないのが恨めしくって、私もだれであるかを隠し通したのだが、負けた。もういいでしょう、名を言ってください、人間離れがあまりしすぎます」
と源氏が言っても、
「家も何もない女ですもの」
と言ってそこまではまだ打ち解けぬ様子も美しく感ぜられた。
「しかたがない。私が悪いのだから」
と怨んでみたり、永久の恋の誓いをし合ったりして時を送った。
惟光が源氏の居所を突きとめてきて、用意してきた菓子などを座敷へ持たせてよこした。これまで白ばくれていた態度を右近に恨まれるのがつらくて、近い所へは顔を見せない。惟光は源氏が人騒がせに居所を不明にして、一日を犠牲にするまで熱心になりうる相手の女は、それに価する者であるらしいと想像をして、当然自己のものになしうるはずの人を主君にゆずった自分は広量なものだと嫉妬に似た心で自嘲もし、羨望もしていた。
静かな静かな夕方の空をながめていて、奥のほうは暗くて気味が悪いと夕顔が思うふうなので、縁の簾を上げて夕映えの雲をいっしょに見て、女も源氏とただ二人で暮らしえた一日に、まだまったく落ち着かぬ恋の境地とはいえ、過去に知らない満足が得られたらしく、少しずつ打ち解けた様子が可憐であった。じっと源氏のそばへ寄って、この場所がこわくてならぬふうであるのがいかにも若々しい。格子を早くおろして灯をつけさせてからも、
「私のほうにはもう何も秘密が残っていないのに、あなたはまだそうでないのだからいけない」
などと源氏は恨みを言っていた。
陛下はきっと今日も自分をお召しになったに違いないが、捜す人たちはどう見当をつけてどこへ行っているだろう、などと想像をしながらも、これほどまでにこの女を溺愛している自分を源氏は不思議に思った。六条の貴女もどんなに煩悶をしていることだろう、恨まれるのは苦しいが恨むのは道理であると、恋人のことはこんな時にもまず気にかかった。無邪気に男を信じていっしょにいる女に愛を感じるとともに、あまりにまで高い自尊心にみずから煩わされている六条の貴女が思われて、少しその点を取り捨てたならと、眼前の人に比べて源氏は思うのであった。
[第四段 夜半、もののけ現われる]
十時過ぎに少し寝入った源氏は枕の所に美しい女がすわっているのを見た。
「私がどんなにあなたを愛しているかしれないのに、私を愛さないで、こんな平凡な人をつれていらっしって愛撫なさるのはあまりにひどい。恨めしい方」
と言って横にいる女に手をかけて起こそうとする。こんな光景を見た。
苦しい襲われた気持ちになって、すぐ起きると、その時に灯が消えた。不気味なので、太刀を引き抜いて枕もとに置いて、それから右近を起こした。右近も恐ろしくてならぬというふうで近くへ出て来た。
「渡殿にいる宿直の人を起こして、蝋燭をつけて来るように言うがいい」
「どうしてそんな所へまで参れるものでございますか、暗うて」
「子供らしいじゃないか」
笑って源氏が手をたたくとそれが反響になった。限りない気味悪さである。しかもその音を聞きつけて来る者はだれもない。夕顔は非常にこわがってふるえていて、どうすればいいだろうと思うふうである。汗をずっぷりとかいて、意識のありなしも疑わしい。
「非常に物恐れをなさいます御性質ですから、どんなお気持ちがなさるのでございましょうか」
と右近も言った。弱々しい人で今日の昼間も部屋の中を見まわすことができずに空をばかりながめていたのであるからと思うと、源氏はかわいそうでならなかった。
「私が行って人を起こそう。手をたたくと山彦がしてうるさくてならない。しばらくの間ここへ寄っていてくれ」
と言って、右近を寝床のほうへ引き寄せておいて、両側の妻戸のロヘ出て、戸を押しあけたのと同時に渡殿についていた灯も消えた。
風が少し吹いている。こんな夜に侍者は少なくて、しかもありたけの人は寝てしまっていた。院の預かり役の息子で、平生源氏が手もとで使っていた若い男、それから侍童が一人、例の随身、それだけが宿直をしていたのである。源氏が呼ぶと返辞をして起きて来た。
「蝋燭をつけて参れ。随身に弓の絃打ちをして絶えず声を出して魔性に備えるように命じてくれ。こんな寂しい所で安心をして寝ていていいわけはない。先刻惟光が来たと言っていたが、どうしたか」
「参っておりましたが、御用事もないから、夜明けにお迎えに参ると申して帰りましてございます」
こう源氏と問答をしたのは、御所の滝口に勤めている男であったから、専門家的に弓絃を鳴らして、
「火危し、火危し」
と言いながら、父である預かり役の住居のほうへ行った。源氏はこの時刻の御所を思った。殿上の宿直役人が姓名を奏上する名対面はもう終わっているだろう、滝口の武士の宿直の奏上があるころであると、こんなことを思ったところをみると、まだそう深更でなかったに違いない。
寝室へ帰って、暗がりの中を手で探ると夕顔はもとのままの姿で寝ていて、右近がそのそばで、うつ伏せになっていた。
「どうしたのだ。気違いじみたこわがりようだ。こんな荒れた家などというものは、狐などが人をおどしてこわがらせるのだよ。私がおればそんなものにおどかされはしないよ」
と言って、源氏は右近を引き起こした。
「とても気持ちが悪うございますので下を向いておりました。奥様はどんなお気持ちでいらっしゃいますことでしょう」
「そうだ、なぜこんなにばかりして」
と言って、手で探ると夕顔は息もしていない。動かしてみてもなよなよとして気を失っているふうであったから、若々しい弱い人であったから、何かの物怪にこうされているのであろうと思うと、源氏は歎息されるばかりであった。
蝋燭の明りが来た。右近には立って行くだけの力がありそうもないので、閨に近い几帳を引き寄せてから、
「もっとこちらへ持って来い」
と源氏は言った。主君の寝室の中へはいるというまったくそんな不謹慎な行動をしたことがない滝口は座敷の上段になった所へもよう来ない。
「もっと近くへ持って来ないか。どんなことも場所によることだ」
灯を近くへ取って見ると、この閨の枕の近くに源氏が夢で見たとおりの容貌をした女が見えて、そしてすっと消えてしまった。
昔の小説などにはこんなことも書いてあるが、実際にあるとはと思うと源氏は恐ろしくてならないが、恋人はどうなったかという不安が先に立って、自身がどうされるだろうかという恐れはそれほどなくて横へ寝て、
「ちょいと」
と言って不気味な眠りからさまさせようとするが、夕顔のからだは冷えはてていて、息はまったく絶えているのである。頼りにできる相談相手もない。坊様などはこんな時のカになるものであるがそんな人もむろんここにはいない。右近に対して強がって何かと言った源氏であったが、若いこの人は、恋人の死んだのを見ると分別も何もなくなって、じっと抱いて、
「あなた。生きてください。悲しい目を私に見せないで」
と言っていたが、恋人のからだはますます冷たくて、すでに人ではなく遺骸であるという感じが強くなっていく。
右近はもう恐怖心も消えて夕顔の死を知って非常に泣く。
紫宸殿に出て来た鬼は貞信公を威嚇したが、その人の威に押されて逃げた例などを思い出して、源氏はしいて強くなろうとした。
「それでもこのまま死んでしまうことはないだろう。夜というものは声を大きく響かせるから、そんなに泣かないで」
と源氏は右近に注意しながらも、恋人との歓会がたちまちにこうなったことを思うと呆然となるばかりであった。
滝口を呼んで、
「ここに、急に何かに襲われた人があって、苦しんでいるから、すぐに惟光朝臣の泊まっている家に行って、早く来るように言えとだれかに命じてくれ。兄の阿闍梨がそこに来ているのだったら、それもいっしょに来るようにと惟光に言わせるのだ。母親の尼さんなどが聞いて気にかけるから、たいそうには言わせないように。あれは私の忍び歩きなどをやかましく言って止める人だ」
こんなふうに順序を立ててものを言いながらも、胸は詰まるようで、恋人を死なせることの悲しさがたまらないものに思われるのといっしょに、あたりの不気味さがひしひしと感ぜられるのであった。
もう夜中過ぎになっているらしい。風がさっきより強くなってきて、それに鳴る松の枝の音は、それらの大木に深く囲まれた寂しく古い院であることを思わせ、一風変わった鳥がかれ声で鳴き出すのを、梟とはこれであろうかと思われた。考えてみるとどこへも遠く離れて人声もしないこんな寂しい所へなぜ自分は泊まりに来たのであろうと、源氏は後悔の念もしきりに起こる。
右近は夢中になって夕顔のそばへ寄り、このまま慄え死にをするのでないかと思われた。それがまた心配で、源氏は一所懸命に右近をつかまえていた。一人は死に、一人はこうした正体もないふうで、自身一人だけが普通の人間なのであると思うと源氏はたまらない気がした。
灯はほのかに瞬いて、中央の室との仕切りの所に立てた屏風の上とか、室の中の隅々とか、暗いところの見えるここへ、後ろからひしひしと足音をさせて何かが寄って来る気がしてならない、惟光が早く来てくれればよいとばかり源氏は思った。彼は泊まり歩く家を幾軒も持った男であったから、使いはあちらこちらと尋ねまわっているうちに夜がぼつぼつ明けてきた。この間の長さは千夜にもあたるように源氏には思われたのである。
やっとはるかな所で鳴く鶏の声がしてきたのを聞いて、ほっとした源氏は、こんな危険な目にどうして自分はあうのだろう、自分の心ではあるが恋愛についてはもったいない、思うべからざる人を思った報いに、こんな後にも前にもない例となるようなみじめな目にあうのであろう、隠してもあった事実はすぐに噂になるであろう、陛下の思召しをはじめとして人が何と批評することだろう、世間の嘲笑が自分の上に集まることであろう、とうとうついにこんなことで自分は名誉を傷つけるのだなと源氏は思っていた。
[第五段 源氏、二条院に帰る]
やっと惟光が出て来た。夜中でも暁でも源氏の意のままに従って歩いた男が、今夜に限ってそばにおらず、呼びにやってもすぐの間に合わず、時間のおくれたことを源氏は憎みながらも寝室へ呼んだ。孤独の悲しみを救う手は惟光にだけあることを源氏は知っている。惟光をそばへ呼んだが、自分が今言わねばならぬことがあまりにも悲しいものであることを思うと、急には言葉が出ない。右近は隣家の惟光が来た気配に、亡き夫人と源氏との交渉の最初の時から今日までが連続的に思い出されて泣いていた。源氏も今までは自身一人が強い人になって右近を抱きかかえていたのであったが、惟光の来たのにほっとすると同時に、はじめて心の底から大きい悲しみが湧き上がってきた。非常に泣いたのちに源氏は躊躇しながら言い出した。
「奇怪なことが起こったのだ。驚くという言葉では現わせないような驚きをさせられた。人のからだにこんな急変があったりする時には、僧家へ物を贈って読経をしてもらうものだそうだから、それをさせよう、願を立てさせようと思って阿闍梨も来てくれと言ってやったのだが、どうした」
「昨日叡山へ帰りましたのでございます。まあ何ということでございましょう、奇怪なことでございます。前から少しはおからだが悪かったのでございますか」
「そんなこともなかった」
と言って泣く源氏の様子に、惟光も感動させられて、この人までが声を立てて泣き出した。
老人はめんどうなものとされているが、こんな場合には、年を取っていて世の中のいろいろな経験を持っている人が頼もしいのである。源氏も右近も惟光も皆若かった。どう処置をしていいのか手が出ないのであったが、やっと惟光が、
「この院の留守役などに真相を知らせることはよくございません。当人だけは信用ができましても、秘密の洩れやすい家族を持っていましょうから。ともかくもここを出ていらっしゃいませ」
と言った。
「でもここ以上に人の少ない場所はほかにないじゃないか」
「それはそうでございます。あの五条の家は女房などが悲しがって大騒ぎをするでしょう、多い小家の近所隣へそんな声が聞こえますとたちまち世間へ知れてしまいます、山寺と申すものはこうした死人などを取り扱い馴れておりましょうから、人目を紛らすのには都合がよいように思われます」
考えるふうだった惟光は、
「昔知っております女房が尼になって住んでいる家が東山にございますから、そこへお移しいたしましょう。私の父の乳母をしておりまして、今は老人になっている者の家でございます。東山ですから人がたくさん行く所のようではございますが、そこだけは閑静です」
と言って、夜と朝の入り替わる時刻の明暗の紛れに車を縁側へ寄せさせた。
源氏自身が遺骸を車へ載せることは無理らしかったから、茣蓙に巻いて惟光が車へ載せた。小柄な人の死骸からは悪感は受けないできわめて美しいものに思われた。残酷に思われるような扱い方を遠慮して、確かにも巻かなんだから、茣蓙の横から髪が少しこぼれていた。それを見た源氏は目がくらむような悲しみを覚えて煙になる最後までも自分がついていたいという気になったのであるが、
「あなた様はさっそく二条の院へお帰りなさいませ。世間の者が起き出しませんうちに」
と惟光は言って、遺骸には右近を添えて乗せた。自身の馬を源氏に提供して、自身は徒歩で、袴のくくりを上げたりして出かけたのであった。ずいぶん迷惑な役のようにも思われたが、悲しんでいる源氏を見ては、自分のことなどはどうでもよいという気に惟光はなったのである。
源氏は無我夢中で二条の院へ着いた。
女房たちが、
「どちらからのお帰りなんでしょう。御気分がお悪いようですよ」
などと言っているのを知っていたが、そのまま寝室へはいって、そして胸をおさえて考えてみると自身が今経験していることは非常な悲しいことであるということがわかった。なぜ自分はあの車に乗って行かなかったのだろう、もし蘇生することがあったらあの人はどう思うだろう、見捨てて行ってしまったと恨めしく思わないだろうか、こんなことを思うと胸がせき上がってくるようで、頭も痛く、からだには発熱も感ぜられて苦しい。こうして自分も死んでしまうのであろうと思われるのである。
八時ごろになっても源氏が起きぬので、女房たちは心配をしだして、朝の食事を寝室の主人へ勧めてみたが無駄だった。源氏は苦しくて、そして生命の危険が迫ってくるような心細さを覚えていると、宮中のお使いが来た。帝は昨日もお召しになった源氏を御覧になれなかったことで御心配をあそばされるのであった。左大臣家の子息たちも訪問して来たがそのうちの頭中将にだけ、
「お立ちになったままでちょっとこちらへ」
と言わせて、源氏は招いた友と御簾を隔てて対した。
「私の乳母の、この五月ごろから大病をしていました者が、尼になったりなどしたものですから、その効験でか一時快くなっていましたが、またこのごろ悪くなりまして、生前にもう一度だけ訪問をしてくれなどと言ってきているので、小さい時から世話になった者に、最後に恨めしく思わせるのは残酷だと思って、訪問しましたところがその家の召使の男が前から病気をしていて、私のいるうちに亡くなったのです。恐縮して私に隠して夜になってからそっと遺骸を外へ運び出したということを私は気がついたのです。御所では神事に関した御用の多い時期ですから、そうした穢れに触れた者は御遠慮すべきであると思って謹慎をしているのです。それに今朝方からなんだか風邪にかかったのですか、頭痛がして苦しいものですからこんなふうで失礼します」
などと源氏は言うのであった。中将は、
「ではそのように奏上しておきましょう。昨夜も音楽のありました時に、御自身でお指図をなさいましてあちこちとあなたをお捜させになったのですが、おいでにならなかったので、御機嫌がよろしくありませんでした」
と言って、帰ろうとしたがまた帰って来て、
「ねえ、どんな穢れにおあいになったのですか、さっきから伺ったのはどうもほんとうとは思われない」
と、頭中将から言われた源氏ははっとした。
「今お話ししたようにこまかにではなく、ただ思いがけぬ穢れにあいましたと申し上げてください。こんなので今日は失礼します」
素知らず顔には言っていても、心にはまた愛人の死が浮かんできて、源氏は気分も非常に悪くなった。だれの顔も見るのが物憂かった。お使いの蔵人の弁を呼んで、またこまごまと頭中将に語ったような行触れの事情を帝へ取り次いでもらった。左大臣家のほうへもそんなことで行かれぬという手紙が行ったのである。
[第六段 十七日夜、夕顔の葬送]
日が暮れてから惟光が来た。行触れの件を発表したので、二条の院への来訪者は皆庭から取り次ぎをもって用事を申し入れて帰って行くので、めんどうな人はだれも源氏の居間にいなかった。惟光を見て源氏は、
「どうだった、だめだったか」
と言うと同時に袖を顔へ当てて泣いた。惟光も泣く泣く言う、
「もう確かにお亡れになったのでございます。いつまでお置きしてもよくないことでございますから、それにちょうど明日は葬式によい日でしたから、式のことなどを私の尊敬する老僧がありまして、それとよく相談をして頼んでまいりました」
「いっしょに行った女は」
「それがまたあまりに悲しがりまして、生きていられないというふうなので、今朝は渓へ飛び込むのでないかと心配されました。五条の家へ使いを出すというのですが、よく落ち着いてからにしなければいけないと申して、とにかく止めてまいりました」
惟光の報告を聞いているうちに、源氏は前よりもいっそう悲しくなった。
「私も病気になったようで、死ぬのじゃないかと思う」
と言った。
「そんなふうにまでお悲しみになるのでございますか、よろしくございません。皆運命でございます。どうかして秘密のうちに処置をしたいと思いまして、私も自身でどんなこともしているのでございますよ」
「そうだ、運命に違いない。私もそう思うが軽率な恋愛漁りから、人を死なせてしまったという責任を感じるのだ。君の妹の少将の命婦などにも言うなよ。尼君なんかはまたいつもああいったふうのことをよくないよくないと小言に言うほうだから、聞かれては恥ずかしくてならない」
「山の坊さんたちにもまるで話を変えてしてございます」
と惟光が言うので源氏は安心したようである。
主従がひそひそ話をしているのを見た女房などは、
「どうも不思議ですね、行触れだとお言いになって参内もなさらないし、また何か悲しいことがあるようにあんなふうにして話していらっしゃる」
腑に落ちぬらしく言っていた。
「葬儀はあまり簡単な見苦しいものにしないほうがよい」
と源氏が惟光に言った。
「そうでもございません。これは大層にいたしてよいことではございません」
と否定してから、惟光が立って行こうとするのを見ると、急にまた源氏は悲しくなった。
「よくないことだとおまえは思うだろうが、私はもう一度遺骸を見たいのだ。それをしないではいつまでも憂鬱が続くように思われるから、馬ででも行こうと思うが」
主人の望みを、とんでもない軽率なことであると思いながらも惟光は止めることができなかった。
「そんなに思召すのならしかたがございません。では早くいらっしゃいまして、夜の更けぬうちにお帰りなさいませ」
と惟光は言った。五条通いの変装のために作らせた狩衣に着更えなどして源氏は出かけたのである。
病苦が朝よりも加わったこともわかっていて源氏は、軽はずみにそうした所へ出かけて、そこでまたどんな危険が命をおびやかすかもしれない、やめたほうがいいのではないかとも思ったが、やはり死んだ夕顔に引かれる心が強くて、この世での顔を遺骸で見ておかなければ今後の世界でそれは見られないのであるという思いが心細さをおさえて、例の惟光と随身を従えて出た。
非常に路のはかがゆかぬ気がした。十七日の月が出てきて、加茂川の河原を通るころ、前駆の者の持つ松明の淡い明りに鳥辺野のほうが見えるというこんな不気味な景色にも源氏の恐怖心はもう麻痺してしまっていた。ただ悲しみに胸が掻き乱されたふうで目的地に着いた。
凄い気のする所である。そんな所に住居の板屋があって、横に御堂が続いているのである。仏前の燈明の影がほのかに戸からすいて見えた。部屋の中には一人の女の泣き声がして、その室の外と思われる所では、僧の二、三人が話しながら声を多く立てぬ念仏をしていた。近くにある東山の寺々の初夜の勤行も終わったころで静かだった。清水の方角にだけ灯がたくさんに見えて多くの参詣人の気配も聞かれるのである。主人の尼の息子の僧が尊い声で経を読むのが聞こえてきた時に、源氏はからだじゅうの涙がことごとく流れて出る気もした。
中へはいって見ると、灯をあちら向きに置いて、遺骸との間に立てた屏風のこちらに右近は横になっていた。どんなに佗しい気のすることだろうと源氏は同情して見た。遺骸はまだ恐ろしいという気のしない物であった。美しい顔をしていて、まだ生きていた時の可憐さと少しも変わっていなかった。
「私にもう一度、せめて声だけでも聞かせてください。どんな前生の縁だったかわずかな間の関係であったが、私はあなたに傾倒した。それだのに私をこの世に捨てて置いて、こんな悲しい目をあなたは見せる」
もう泣き声も惜しまずはばからぬ源氏だった。
僧たちもだれとはわからぬながら、死者に断ちがたい愛着を持つらしい男の出現を見て、皆涙をこぼした。
源氏は右近に、
「あなたは二条の院へ来なければならない」
と言ったのであるが、
「長い間、それは小さい時から片時もお離れしませんでお世話になりました御主人ににわかにお別れいたしまして、私は生きて帰ろうと思う所がございません。奥様がどうおなりになったかということを、どうほかの人に話ができましょう。奥様をお亡くししましたほかに、私はまた皆にどう言われるかということも悲しゅうございます」
こう言って右近は泣きやまない。
私も奥様の煙といっしょにあの世へ参りとうございます」
「もっともだがしかし、人世とはこんなものだ。別れというものに悲しくないものはないのだ。どんなことがあっても寿命のある間には死ねないのだよ。気を静めて私を信頼してくれ」
と言う源氏が、また、
「しかしそういう私も、この悲しみでどうなってしまうかわからない」
と言うのであるから心細い。
「もう明け方に近いころだと思われます。早くお帰りにならなければいけません」
惟光がこう促すので、源氏は顧みばかりがされて、胸も悲しみにふさがらせたまま帰途についた。
露の多い路に厚い朝霧が立っていて、このままこの世でない国へ行くような寂しさが味わわれた。某院の閨にいたままのふうで夕顔が寝ていたこと、その夜上に掛けて寝た源氏自身の紅の単衣にまだ巻かれていたこと、などを思って、全体あの人と自分はどんな前生の因縁があったのであろうと、こんなことを途々源氏は思った。馬をはかばかしく御して行けるふうでもなかったから、惟光が横に添って行った。加茂川堤に来てとうとう源氏は落馬したのである。失心したふうで、
「家の中でもないこんな所で自分は死ぬ運命なんだろう。二条の院まではとうてい行けない気がする」
と言った。惟光の頭も混乱状態にならざるをえない。自分が確とした人間だったら、あんなことを源氏がお言いになっても、軽率にこんな案内はしなかったはずだと思うと悲しかった。川の水で手を洗って清水の観音を拝みながらも、どんな処置をとるべきだろうと煩悶した。
源氏もしいて自身を励まして、心の中で御仏を念じ、そして惟光たちの助けも借りて二条の院へ行き着いた。
毎夜続いて不規則な時間の出入りを女房たちが、
「見苦しいことですね、近ごろは平生よりもよく微行をなさる中でも昨日はたいへんお加減が悪いふうだったでしょう。そんなでおありになってまたお出かけになったりなさるのですから、困ったことですね」
こんなふうに歎息をしていた。
源氏白身が予言をしたとおりに、それきり床について煩ったのである。重い容体が二、三日続いたあとはまた甚しい衰弱が見えた。源氏の病気を聞こし召した帝も非常に御心痛あそばされてあちらでもこちらでも間断なく祈祷が行なわれた。特別な神の祭り、祓い、修法などである。何にもすぐれた源氏のような人はあるいは短命で終わるのではないかといって、一天下の人がこの病気に関心を持つようにさえなった。
病床にいながら源氏は右近を二条の院へ伴わせて、部屋なども近い所へ与えて、手もとで使う女房の一人にした。惟光は源氏の病の重いことに顛倒するほどの心配をしながら、じっとその気持ちをおさえて、馴染のない女房たちの中へはいった右近のたよりなさそうなのに同情してよく世話をしてやった。
源氏の病の少し楽に感ぜられる時などには、右近を呼び出して居まの用などをさせていたから、右近はそのうち二条の院の生活に馴れてきた。濃い色の喪服を着た右近は、容貌などはよくもないが、見苦しくも思われぬ若い女房の一人と見られた。
「運命があの人に授けた短い夫婦の縁から、その片割れの私ももう長くは生きていないのだろう。長い間たよりにしてきた主人に別れたおまえが、さぞ心細いだろうと思うと、せめて私に命があれば、あの人の代わりの世話をしたいと思ったこともあったが、私もあの人のあとを追うらしいので、おまえには気の毒だね」
と、ほかの者へは聞かせぬ声で言って、弱々しく泣く源氏を見る右近は、女主人に別れた悲しみは別として、源氏にもしまたそんなことがあれば悲しいことだろうと思った。
二条の院の男女はだれも静かな心を失って主人の病を悲しんでいるのである。御所のお使いは雨の脚よりもしげく参入した。帝の御心痛が非常なものであることを聞く源氏は、もったいなくて、そのことによって病から脱しようとみずから励むようになった。左大臣も徹底的に世話をした、大臣自身が二条の院を見舞わない日もないのである。そしていろいろな医療や祈祷をしたせいでか、二十日ほど重態だったあとに余病も起こらないで、源氏の病気は次第に回復していくように見えた。
行触れの遠慮の正規の日数もこの日で終わる夜であったから、源氏は逢いたく思召す帝の御心中を察して、御所の宿直所にまで出かけた。退出の時は左大臣が自身の車へ乗せて邸へ伴った。病後の人の謹慎のしかたなども大臣がきびしく監督したのである。この世界でない所へ蘇生した人間のように当分源氏は思った。
[第七段 忌み明ける]
九月の二十日ごろに源氏はまったく回復して、痩せるには痩せたがかえって艶な趣の添った源氏は、今も思いをよくして、またよく泣いた。その様子に不審を抱く人もあって、物怪が憑いているのであろうとも言っていた。
源氏は右近を呼び出して、ひまな静かな日の夕方に話をして、
「今でも私にはわからぬ。なぜだれの娘であるということをどこまでも私に隠したのだろう。たとえどんな身分でも、私があれほどの熱情で思っていたのだから、打ち明けてくれていいわけだと思って恨めしかった」
とも言った。
「そんなにどこまでも隠そうなどとあそばすわけはございません。そうしたお話をなさいます機会がなかったのじゃございませんか。最初があんなふうでございましたから、現実の関係のように思われないとお言いになって、それでもまじめな方ならいつまでもこのふうで進んで行くものでもないから、自分は一時的な対象にされているにすぎないのだとお言いになっては寂しがっていらっしゃいました」
右近がこう言う。
「つまらない隠し合いをしたものだ。私の本心ではそんなにまで隠そうとは思っていなかった。ああいった関係は私に経験のないことだったから、ばかに世間がこわかったのだ。御所の御注意もあるし、そのほかいろんな所に遠慮があってね。ちょっとした恋をしても、それを大問題のように扱われるうるさい私が、あの夕顔の花の白かった日の夕方から、むやみに私の心はあの人へ惹かれていくようになって、無理な関係を作るようになったのもしばらくしかない二人の縁だったからだと思われる。しかしまた恨めしくも思うよ。こんなに短い縁よりないのなら、あれほどにも私の心を惹いてくれなければよかったとね。まあ今でもよいから詳しく話してくれ、何も隠す必要はなかろう。七日七日に仏像を描かせて寺へ納めても、名を知らないではね。それを表に出さないでも、せめて心の中でだれの菩提のためにと思いたいじゃないか」
と源氏が言った。
「お隠しなど決してしようとは思っておりません。ただ御自分のお口からお言いにならなかったことを、お亡れになってからおしゃべりするのは済まないような気がしただけでございます。
御両親はずっと前にお亡くなりになったのでございます。殿様は三位中将でいらっしゃいました。非常にかわいがっていらっしゃいまして、それにつけても御自身の不遇をもどかしく思召したでしょうが、その上寿命にも恵まれていらっしゃいませんで、お若くてお亡くなりになりましたあとで、ちょっとしたことが初めで頭中将がまだ少将でいらっしったころに通っておいでになるようになったのでございます。三年間ほどは御愛情があるふうで御関係が続いていましたが、昨年の秋ごろに、あの方の奥様のお父様の右大臣の所からおどすようなことを言ってまいりましたのを、気の弱い方でございましたから、むやみに恐ろしがっておしまいになりまして、西の右京のほうに奥様の乳母が住んでおりました家へ隠れて行っていらっしゃいましたが、その家もかなりひどい家でございましたからお困りになって、郊外へ移ろうとお思いになりましたが、今年は方角が悪いので、方角避けにあの五条の小さい家へ行っておいでになりましたことから、あなた様がおいでになるようなことになりまして、あの家があの家でございますから侘しがっておいでになったようでございます。普通の人とはまるで違うほど内気で、物思いをしていると人から見られるだけでも恥ずかしくてならないようにお思いになりまして、どんな苦しいことも寂しいことも心に納めていらしったようでございます」
右近のこの話で源氏は自身の想像が当たったことで満足ができたとともに、その優しい人がますます恋しく思われた。
「小さい子を一人行方不明にしたと言って中将が憂鬱になっていたが、そんな小さい人があったのか」
と問うてみた。
「さようでございます。一昨年の春お生まれになりました。お嬢様で、とてもおかわいらしい方でございます」
「で、その子はどこにいるの、人には私が引き取ったと知らせないようにして私にその子をくれないか。形見も何もなくて寂しくばかり思われるのだから、それが実現できたらいいね」
源氏はこう言って、また、
「頭中将にもいずれは話をするが、あの人をああした所で死なせてしまったのが私だから、当分は恨みを言われるのがつらい。私の従兄の中将の子である点からいっても、私の恋人だった人の子である点からいっても、私の養女にして育てていいわけだから、その西の京の乳母にも何かほかのことにして、お嬢さんを私の所へつれて来てくれないか」
と言った。
「そうなりましたらどんなに結構なことでございましょう。あの西の京でお育ちになってはあまりにお気の毒でございます。私ども若い者ばかりでしたから、行き届いたお世話ができないということであっちへお預けになったのでございます」
と右近は言っていた。
静かな夕方の空の色も身にしむ九月だった。庭の植え込みの草などがうら枯れて、もう虫の声もかすかにしかしなかった。そしてもう少しずつ紅葉の色づいた絵のような景色を右近はながめながら、思いもよらぬ貴族の家の女房になっていることを感じた。五条のタ顔の花の咲きかかった家は思い出すだけでも恥ずかしいのである。竹の中で家鳩という鳥が調子はずれに鳴くのを聞いて源氏は、あの某院でこの鳥の鳴いた時に夕顔のこわがった顔が今も可憐に思い出されてならない。
「年は幾つだったの、なんだか普通の若い人よりもずっと若いようなふうに見えたのも短命の人だったからだね」
「たしか十九におなりになったのでございましょう。私は奥様のもう一人のほうの乳母の忘れ形見でございましたので、三位様がかわいがってくださいまして、お嬢様といっしょに育ててくださいましたものでございます。そんなことを思いますと、あの方のお亡くなりになりましたあとで、平気でよくも生きているものだと恥ずかしくなるのでございます。弱々しいあの方をただ一人のたよりになる御主人と思って右近は参りました」
「弱々しい女が私はいちばん好きだ。自分が賢くないせいか、あまり聡明で、人の感情に動かされないような女はいやなものだ。どうかすれば人の誘惑にもかかりそうな人でありながら、さすがに慎ましくて恋人になった男に全生命を任せているというような人が私は好きで、おとなしいそうした人を自分の思うように教えて成長させていげればよいと思う」
源氏がこう言うと、
「そのお好みには遠いように思われません方の、お亡れになったことが残念で」と右近は言いながら泣いていた。
空は曇って冷ややかな風が通っていた。寂しそうに見えた源氏は、
見し人の煙を雲とながむれば
夕の空もむつまじきかな
と独言のように言っていても、返しの歌は言い出されないで、右近は、こんな時に二人そろっておいでになったらという思いで胸の詰まる気がした。源氏はうるさかった砧の音を思い出してもその夜が恋しくて、「八月九月正長夜、千声万声無止時」と歌っていた。