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41 幻(大島本)
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MABOROSI
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光る源氏の准太上天皇時代 五十二歳春から十二月までの物語
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Tale of Hikaru-Genji's Daijo Tenno era, from spring to December, at the age of 52
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2 |
第二章 光る源氏の物語 紫の上追悼の夏の物語
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2 Tale of Genji Mourning for Murasaki, in summer
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2.1 |
第一段 花散里や中将の君らと和歌を詠み交わす
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2-1 Genji composes and exchanges waka with Hanachirusato and Chujo-no-Kimi
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2.1.1 |
夏の御方より、御衣更の御装束たてまつりたまふとて、
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夏の御方から、お衣更のご装束を差し上げなさるとあって、
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夏の更衣に花散里夫人からお召し物が奉られた。
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Natu-no-Ohomkata yori, ohom-koromogahe no ohom-syauzoku tatematuri tamahu tote,
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2.1.2 |
「 夏衣裁ち替へてける今日ばかり
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「夏の衣に着替えた今日だけは
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夏ごろもたちかへてける今日ばかり
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"Natu-koromo tati kahe te keru kehu bakari
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2.1.3 |
古き思ひもすすみやはせぬ」
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昔の思いも思い出しませんでしょうか」
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古き思ひもすすみやはする
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huruki omohi mo susumi ya ha se nu
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2.1.4 |
御返し、
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お返事、
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この歌が添えられてあった。お返事、
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Ohom-kahesi,
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2.1.5 |
「 羽衣の薄きに変はる今日よりは
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「羽衣のように薄い着物に変わる今日からは
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羽衣のうすきにかはる今日よりは
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"Hagoromo no usuki ni kaharu kehu yori ha
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2.1.6 |
空蝉の世ぞいとど悲しき」
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はかない世の中がますます悲しく思われます」
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空蝉の世ぞいとど悲しき
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utusemi no yo zo itodo kanasiki
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2.1.7 |
祭の日、いとづれづれにて、「 今日は物見るとて、人びと心地よげならむかし」とて、御社のありさまなど思しやる。
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賀茂祭の日、とても所在ないので、「今日は見物しようとして、女房たちは気持ちよさそうだろう」と思って、御社の様子などをご想像なさる。
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賀茂祭りの日につれづれで、「今日は祭りの行列を見に出ようと思って世間ではだれも興奮をしているだろう」こんなことをお言いになって、賀茂の社前の光景を目に描いておいでになった。
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Maturi no hi, ito ture-dure nite, "Kehu ha mono miru tote, hito-bito kokoti-yoge nara m kasi." tote, mi-yasiro no arisama nado obosi-yaru.
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2.1.8 |
「 女房など、いかにさうざうしからむ。里に忍びて出でて見よかし」などのたまふ。
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「女房などは、どんなに手持ち無沙汰だろう。そっと里下がりして見て来なさい」などとおしゃる。
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「女房たちは皆寂しいだろう、実家のほうへ行って、そこから見物に出ればいい」などとも言っておいでになった。
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"Nyoubau nado, ikani sau-zausikara m. Sato ni sinobi te ide te miyo kasi." nado notamahu.
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2.1.9 |
中将の君の、東面にうたた寝したるを、歩みおはして見たまへば、いとささやかにをかしきさまして、起き上がりたり。つらつきはなやかに、匂ひたる顔をもて隠して、すこしふくだみたる髪のかかりなど、をかしげなり。紅の黄ばみたる気添ひたる袴、萱草色の単衣、いと濃き鈍色に黒きなど、うるはしからず重なりて、裳、唐衣も脱ぎすべしたりけるを、とかく引きかけなどするに、葵をかたはらに置きたりけるを寄りて取りたまひて、
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中将の君が、東表の間でうたた寝しているのを、歩いていらっしゃって御覧になると、とても小柄で美しい様子で起き上がった。顔の表情は明るくて、美しい顔をちょっと隠して、少しほつれた髪のかかっている具合など、見事である。紅の黄色味を帯びた袴に、萱草色の単衣、たいそう濃い鈍色の袿に黒い表着など、きちんとではなく重着して、裳や、唐衣も脱いでいたが、あれこれ着掛けなどするが、葵を側に置いてあったのを側によってお取りになって、
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中将の君が東の座敷でうたた寝しているそばへ院が寄ってお行きになると、美しい小柄な中将の君は起き上がった。赤くなっている顔を恥じて隠しているが、少し癖づいてふくれた髪の横に見えるのがはなやかに見えた。紅の黄がちな色の袴をはき、単衣も萱草色を着て、濃い鈍色に黒を重ねた喪服に、裳や唐衣も脱いでいたのを、中将はにわかに上へ引き掛けたりしていた。葵の横に置かれてあったのを院は手にお取りになって、
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Tyuuzyau-no-Kimi no, himgasi-omote ni utatane si taru wo, ayumi ohasi te mi tamahe ba, ito sasayaka ni wokasiki sama si te, oki-agari tari. Turatuki hanayaka ni, nihohi taru kaho wo mote-kakusi te, sukosi hukudami taru kami no kakari nado, wokasige nari. Kurenawi no ki-bami taru ke sohi taru hakama, kwanzau-iro no hitohe, ito koki nibi-iro ni kuroki nado, uruhasikara zu kasanari te, mo, karaginu mo nugi subesi tari keru wo, tokaku hiki-kake nado suru ni, ahuhi wo katahara ni oki tari keru wo yori te tori tamahi te,
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2.1.10 |
「 いかにとかや。この名こそ忘れにけれ」とのたまへば、
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「何と言ったかね。この名前を忘れてしまった」とおっしゃると、
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「何という草だったかね。名も忘れてしまったよ」とお言いになると、
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"Ikani to ka ya? Kono na koso wasure ni kere." to notamahe ba,
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2.1.11 |
「 さもこそはよるべの水に水草ゐめ
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「いかにもよるべの水も古くなって水草が生えていましょう
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さもこそは寄るべの水に水草ゐめ
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"Samo koso ha yorube no midu ni mi-kusa wi me
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2.1.12 |
今日のかざしよ名さへ忘るる」
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今日の插頭の名前さえ忘れておしまいになるとは」
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今日のかざしよ名さへ忘るる
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kehu no kazasi yo na sahe wasururu
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2.1.13 |
と、恥ぢらひて聞こゆ。げにと、いとほしくて、
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と、恥じらいながら申し上げる。なるほどと、お気の毒なので、
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と恥じらいながら中将は言った。そうであったと哀れにお思いになって、
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to, hadirahi te kikoyu. Geni to, itohosiku te,
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2.1.14 |
「 おほかたは思ひ捨ててし世なれども
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「だいたいは執着を捨ててしまったこの世ではあるが
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おほかたは思ひ捨ててし世なれども
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"Ohokata ha omohi-sute te si yo nare domo
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2.1.15 |
葵はなほや摘みをかすべき」
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この葵はやはり摘んでしまいそうだ」
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あふひはなほやつみおかすべき
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ahuhi ha naho ya tumi wokasu beki
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2.1.16 |
など、一人ばかりをば思し放たぬけしきなり。
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などと、一人だけはお思い捨てにならない様子である。
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こんなこともお言いになり、なおこの人にだけは聖の心持ちにもなれず、行為もお見せになることはおできにならないのであった。
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nado, hitori bakari wo ba obosi-hanata nu kesiki nari.
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注釈131 | 夏の御方より、御衣更の御装束たてまつりたまふとて | 2.1.1 |
注釈132 | 夏衣裁ち替へてける今日ばかり古き思ひもすすみやはせぬ | 2.1.2 |
注釈133 | 羽衣の薄きに変はる今日よりは空蝉の世ぞいとど悲しき | 2.1.5 |
注釈134 | 祭の日 | 2.1.7 |
注釈135 | 今日は物見るとて人びと心地よげならむかし | 2.1.7 |
注釈136 | 女房など、いかにさうざうしからむ。里に忍びて出でて見よかし | 2.1.8 |
注釈137 | 中将の君 | 2.1.9 |
注釈138 | いかにとかやこの名こそ忘れにけれ | 2.1.10 |
注釈139 | さもこそはよるべの水に水草ゐめ今日のかざしよ名さへ忘るる | 2.1.11 |
注釈140 | おほかたは思ひ捨ててし世なれども葵はなほや摘みをかすべき | 2.1.14 |
注釈141 | など一人ばかりをば思し放たぬけしきなり | 2.1.16 |
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2.2 |
第二段 五月雨の夜、夕霧来訪
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2-2 Yugiri visits to Genji's room in the rainy night
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2.2.1 |
五月雨は、いとど眺めくらしたまふより他のことなく、さうざうしきに、十余日の月はなやかにさし出でたる雲間のめづらしきに、大将の君御前にさぶらひたまふ。
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五月雨の時は、ますます物思いに沈んでお暮らしになるより他のことなく、物寂しいところに、十日過ぎの月が明るくさし出た雲間が珍しいので、大将の君が御前に伺候なさっている。
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五月雨の薄暗い世界の中では物思いを続けておいでになるばかりの院は、寂しかったが十幾日かの月がふと雲間から現われた珍しい夜に大将が御前に来ていた。
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Samidare ha, itodo nagame kurasi tamahu yori hoka no koto naku, sau-zausiki ni, zihu-yo-niti no tuki hanayaka ni sasi-ide taru kumoma no medurasiki ni, Daisyau-no-Kimi o-mahe ni saburahi tamahu.
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2.2.2 |
花橘の、月影にいときはやかに見ゆる薫りも、追風なつかしければ、 千代を馴らせる声も ★せなむ、と待たるるほどに、にはかに立ち出づる村雲のけしき、いとあやにくにて、いとおどろおどろしう降り来る雨に添ひて、さと吹く風に燈籠も吹きまどはして、空暗き心地するに、「 窓を打つ声」など ★、めづらしからぬ古言を、うち誦じ たまへるも、折からにや、 妹が垣根におとなはせまほしき御声なり。
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花橘が、月光にたいそうくっきりと見える薫りも、その追い風がやさしい感じなので、花橘にほととぎすの千年も馴れ親しんでいる声を聞かせて欲しい、と待っているうちに、急にたち出た村雲の様子が、まったくあいにくなことで、とてもざあざあ降ってくる雨に加わって、さっと吹く風に燈籠も吹き消して、空も暗い感じがするので、「窓を打つ声」などと、珍しくもない古詩を口ずさみなさるのも、折からか、妻の家に聞かせてやりたいようなお声である。
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花橘の木が月の光のもとにあざやかに立って薫りも風に付いておりおりはいってきた。「千世をならせる」というこれと深い関係の杜鵑が啼けばよいと待っているうちに、にわかに雲が湧き出してきて、はげしく雨の降るのに添って吹き出した風のために、燈籠の灯も消えそうになって、空の暗さが深く思われる時に「蕭蕭暗雨打窓声」などと、珍しい詩ではないが院のお歌いになる美声をお聞きすると、恋を解する女に聞かしむべきものであると惜しまれた。
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Hana-tatibana no, tukikage ni ito kihayaka ni miyuru kawori mo, ohi-kaze natukasikere ba, ti-yo wo narase ru kowe mo se nam, to mata ruru hodo ni, nihaka ni tati-iduru mura-kumo no kesiki, ito ayaniku ni te, ito odoro-odorosiu huri-kuru ame ni sohi te, sato huku kaze ni touro mo huki madohasi te, sora kuraki kokoti suru ni, "Mado wo utu kowe" nado, medurasikara nu huru-koto wo, uti-zyun-zi tamahe ru mo, wori kara ni ya, imo ga kakine ni otonaha se mahosiki ohom-kowe nari.
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2.2.3 |
「 独り住みは、ことに変ることなけれど、あやしうさうざうしくこそありけれ。深き山住みせむにも、かくて身を馴らはしたらむは、こよなう心澄みぬべきわざなりけり」などのたまひて、「 女房、ここに、くだものなど参らせよ。男ども召さむもことことしきほどなり」などのたまふ。
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「独り住みは、格別に変わったことはないが、妙に物寂しい感じがする。深い山住みをするにも、こうして身を馴らすのは、この上なく心が澄みきることであった」などとおっしゃって、「女房よ、こちらに、お菓子などを差し上げよ。男たちを召し寄せるのも大げさな感じである」などとおっしゃる。
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「独身生活というものは、私一人が経験しているものでもないが、怪しいほど寂しいものだ。山へはいってしまう前にこうして習慣をつけておくことは非常によいことだと思う」などと院はお言いになって、「女房たち、ここへ菓子でも出すがよい。男たちに命じるほどのことでもないから」などとも気をつけておいでになった。
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"Hitori-zumi ha, koto ni kaharu koto nakere do, ayasiu sau-zausiku koso ari kere. Hukaki yama-zumi se m ni mo, kaku te mi wo narahasi tara m ha, koyonau kokoro sumi nu beki waza nari keri." nado notamahi te, "Nyoubau, koko ni, kudamono nado mawirase yo. Wonoko-domo mesa m mo koto-kotosiki hodo nari." nado notamahu.
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2.2.4 |
心には、ただ空を眺めたまふ ★御けしきの、尽きせず心苦しければ、「かくのみ思し紛れずは、御行ひにも心澄ましたまはむこと難くや」と、見たてまつりたまふ。「 ほのかに見し御面影だに忘れがたし。ましてことわりぞかし」と、思ひゐたまへり。
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心中には、ただ空を眺めていらっしゃるご様子が、どこまでもおいたわしいので、「こんなにまでお忘れになれないのでは、ご勤行にもお心をお澄しになることも難しいのでないか」と、拝見なさる。「かすかに見た御面影でさえ忘れ難い。まして無理もないことだ」と、思っていらっしゃった。
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夕霧は空をおながめになる院の寂しい御表情を見ていて、こんなふうにいつまでもいつまでも故人を悲しんでおいでになっては、出家をされても透徹した信仰におはいりになることはむずかしくはないかと思っていた。ほのかな隙見をしただけの面影すら忘られないのであるからまして院が女王のためのお悲しみの深さは道理至極であると言わねばならぬと同情も申していた。
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Kokoro ni ha, tada sora wo nagame tamahu mi-kesiki no, tuki se zu kokoro-gurusikere ba, "Kaku nomi obosi magire zu ha, ohom-okonahi ni mo kokoro sumasi tamaha m koto kataku ya?" to, mi tatematuri tamahu. "Honoka ni mi si ohom-omokage dani wasure gatasi. Masite kotowari zo kasi." to, omohi wi tamahe ri.
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注釈142 | 五月雨はいとど眺めくらしたまふより他のことなくさうざうしきに十余日の月はなやかにさし出でたる雲間の | 2.2.1 |
注釈143 | 花橘 | 2.2.2 |
注釈144 | 千代を馴らせる声も | 2.2.2 |
注釈145 | 窓を打つ声など | 2.2.2 |
注釈146 | 妹が垣根におとなはせまほしき御声なり | 2.2.2 |
注釈147 | 独り住みは | 2.2.3 |
注釈148 | 女房ここにくだものなど参らせよ | 2.2.3 |
注釈149 | 心にはただ空を眺めたまふ | 2.2.4 |
注釈150 | ほのかに見し御面影だに忘れがたしましてことわりぞかし | 2.2.4 |
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出典8 |
千代を馴らせる声 |
色変へぬ花橘にほととぎす千代をならせる声聞こゆなり |
後撰集夏-一八六 読人しらず |
2.2.2 |
出典9 |
窓を打つ声 |
秋夜長 夜長無眠天不明 耿耿残灯背壁影 蕭蕭暗雨打窓声 |
白氏文集-一三一「上陽白髪人」 |
2.2.2 |
出典10 |
ただ空を眺めたまふ |
大空は恋しき人の形見かは物思ふごとに眺めらるらむ |
古今集恋四-七四三 酒井人真 |
2.2.4 |
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2.3 |
第三段 ほととぎすの鳴き声に故人を偲ぶ
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2-3 Genji and Yugiri remember Murasaki as a little cuckoo singing in the night
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2.3.1 |
「 昨日今日と思ひたまふるほどに、御果てもやうやう近うなりはべりにけり。いかやうにかおきて思しめすらむ」
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「昨日今日と思っておりましたうちに、ご一周忌もだんだん近くなってまいりました。どのようにあそばすお積もりでいらっしゃいましょうか」
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「昨日か今日のことのように思っておりますうちに御一周忌にももう近づいてまいります。御法事はどんなふうにあそばすおつもりでございますか」
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"Kinohu kehu to omohi tamahuru hodo ni, ohom-hate mo yau-yau tikau nari haberi ni keri. Ika yau ni ka oki te obosimesu ram?"
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2.3.2 |
と申したまへば、
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とお尋ね申し上げなさると、
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と大将が言うと、
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to mawosi tamahe ba,
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2.3.3 |
「 何ばかり、世の常ならぬことを かはものせむ。かの心ざしおかれたる極楽の曼陀羅など、このたびなむ供養ずべき。経などもあまたありけるを、なにがし僧都、皆その心くはしく聞きおきたなれば、また加へてすべきことどもも、かの僧都の言はむに従ひてなむものすべき」などのたまふ。
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「何ほども、世間並み以上のことをしようとは思わない。あの望んでおかれた極楽の曼陀羅など、今回は供養しよう。経などもたくさんあったが、某僧都が、すべてその事情を詳しく聞きおいたそうだから、それに加えてしなければならない事柄も、あの僧都が言うことに従って催そう」などとおっしゃる。
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「何も普通と違ったことをしようと思っていない。女王が作らせたままになっている極楽の曼陀羅をその節に供養すればいいことと思う。書いておいた経もたくさんあるはずなのだが、某僧都は故人からどうするかをよく聞いてあるようだから、それに加えてすることも皆僧都の意見によることにしようと思う」と院は仰せられた。
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"Nani bakari, yo no tune nara nu koto wo ka ha monose m. Kano kokorozasi oka re taru gokuraku no mandara nado, kono-tabi nam kuyau-zu beki. Kyau nado mo amata ari keru wo, Nanigasi-Soudu, mina sono kokoro kuhasiku kiki-oki ta' nare ba, mata kuhahe te su beki koto-domo mo, kano Soudu no iha m ni sitagahi te nam monosu beki." nado notamahu.
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2.3.4 |
「 かやうのこと、もとよりとりたてて思しおきてけるは、うしろやすきわざなれど、この世にはかりそめの御契りなりけりと 見たまふには、形見といふばかりとどめきこえたまへる人だにものしたまはぬこそ、口惜しうはべれ」
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「このようなことは、ご生前から特別にお考え置きになっていたことは、来世のため安心なことですが、この世にはかりそめのご縁であったとお思いなりますのは、お形見と言えるようにお残し申されるお子様さえいらっしゃなかったのが、残念なことでございます」
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「御自身の御法要についてのことまでもお仕度をあそばしておかれましたことは、お考え深いことでしたが、お二方の上で申しますと、この世での御縁は短かったのですから、せめて形見になる人をお残しくだすったらと存じますと残念でございます」
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"Kayau no koto, motoyori tori-tate te obosi-oki te keru ha, usiroyasuki waza nare do, konoyo ni karisome no ohom-tigiri nari keri to mi tamahu ni ha, katami to ihu bakari todome kikoye tamahe ru hito dani monosi tamaha nu koso, kutiwosiu habere."
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2.3.5 |
と申したまへば、
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と申し上げなさると、
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to mawosi tamahe ba,
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2.3.6 |
「 それは、仮ならず、命長き人びとにも、さやうなることのおほかた少なかりける。みづからの口惜しさにこそ。そこにこそは、門は広げたまはめ」などのたまふ。
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「それは、縁浅からず、寿命の長い人びとでも、そのようなことはだいたいが少なかった。自分自身の拙さなのだ。そなたこそ、家門を広げなさい」などとおっしゃる。
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「しかし子は早く死なずに現存している妻のほうにも少なかったのだからね。私自身が子は少なくしか持てない宿命だったのだろう。あなたによって子孫を広げてもらえばいい」などと院はお言いになるのであって、
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"Sore ha, kari nara zu, inoti nagaki hito-bito ni mo, sayau naru koto no ohokata sukunakari keru. Midukara no kutiwosisa ni koso. Soko ni koso ha, kado ha hiroge tamaha me." nado notamahu.
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2.3.7 |
何ごとにつけても、忍びがたき 御心弱さのつつましくて、過ぎにしこといたうものたまひ出でぬに、待たれつる山ほととぎすのほのかにうち鳴きたるも、「 いかに知りてか」と ★、 聞く人ただならず。
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どのような事につけても、堪えきれないお心の弱さが恥ずかしくて、過ぎ去ったことをたいして口にお出しにならないが、待っていた時鳥がかすかにちょっと鳴いたのも、「どのようにして知ってか」と、聞く人は落ち着かない。
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何につけても忍びがたい悲しみの外へ誘い出されることをお恐れになり、故人のこともあまりお話しにならぬうちに、「いにしへのこと語らへば時鳥いかに知りてか古声に啼く」と言いたいような杜鵑が啼いた。待たれていた声なのであるが、
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Nani-goto ni tuke te mo, sinobi-gataki mi-kokoro-yowasa no tutumasiku te, sugi ni si koto itau mo notamahi-ide nu ni, mata re turu yama-hototogisu no honoka ni uti-naki taru mo, "Ikani siri te ka." to, kiku hito tada nara zu.
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2.3.8 |
「 亡き人を偲ぶる宵の村雨に
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「亡き人を偲ぶ今宵の村雨に
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亡き人を忍ぶる宵の村雨に
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"Naki hito wo sinoburu yohi no murasame ni
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2.3.9 |
濡れてや来つる山ほととぎす」
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濡れて来たのか、山時鳥よ」
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濡れてや来つる山ほととぎす
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nure te ya ki turu yama-hototogisu
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2.3.10 |
とて、いとど空を眺めたまふ。大将、
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と言って、ますます空を眺めなさる。大将、
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前よりもいっそう悲しいまなざしで空を院はおながめになった。夕霧は、
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tote, itodo sora wo nagame tamahu. Daisyau,
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2.3.11 |
「 ほととぎす君につてなむふるさとの
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「時鳥よ、あなたに言伝てしたい
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郭公君につてなん
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"Hototogisu kimi ni tute na m hurusato no
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2.3.12 |
花橘は今ぞ盛りと」
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古里の橘の花は今が盛りですよと」
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古さとの花橘は今盛りぞと
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hana-tatibana ha ima zo sakari to
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2.3.13 |
女房など、多く言ひ集めたれど、とどめつ。 大将の君は、やがて御宿直にさぶらひたまふ。寂しき御一人寝の心苦しければ、時々かやうにさぶらひたまふに、 おはせし世は、いと気遠かりし御座のあたりの、いたうも立ち離れぬなどにつけても、思ひ出でらるることも多かり。
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女房なども、たくさん詠んだが、省略した。大将の君は、そのままお泊まりになる。寂しいお独り寝がおいたわしいので、時々このように伺候なさるが、生きていらっしゃった当時は、とても近づきにくかったご座所の近辺に、たいして遠く離れていないことなどにつけても、思い出される事柄が多かった。
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と歌った。この時に女房たちもそれぞれ歌を詠んだのであるがここには省いておく。大将はそのまま宿直することにした。御独居生活の心苦しさに時々夕霧はこうしておそばで泊まってゆくのであるが、紫の女王のいたころにはたやすく近い所へも寄ることを院はお許しにならなかった帳台のかたわらに寝ることによっても、大将は昔が今にならぬことを悲しんだ。
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Nyoubau nado, ohoku ihi atume tare do, todome tu. Daisyau-no-Kimi ha, yagate ohom-tonowi ni saburahi tamahu. Sabisiki ohom-hitori-ne no kokoro-gurusikere ba, toki-doki kayau ni saburahi tamahu ni, ohase si yo ha, ito ke-dohokari si o-masi no atari no, itau mo tati hanare nu nado ni tuke te mo, omohi-ide raruru koto mo ohokari.
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出典11 |
いかに知りてか |
いにしへのこと語らへばほととぎすいかに知りてか古声のする |
古今六帖五-二八〇四 |
2.3.7 |
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2.4 |
第四段 蛍の飛ぶ姿に故人を偲ぶ
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2-4 Genji remembers Murasaki as fireflies flying in the night
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2.4.1 |
いと暑きころ、涼しき方にて眺めたまふに、池の蓮の盛りなるを見たまふに、「 いかに多かる」など ★、まづ思し出でらるるに、ほれぼれしくて、つくづくとおはするほどに、日も暮れにけり。 ひぐらしの声はなやかなるに、御前の撫子の夕映えを ★、一人のみ見たまふは、げにぞかひなかりける。
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たいそう暑いころ、涼しい所で物思いに耽っていらっしゃる折、池の蓮の花が盛りなのを御覧になると、「なんと多い涙か」などと、何より先に思い出されるので、茫然として、つくねんとしていらっしゃるうちに、日も暮れてしまった。蜩の声がにぎやかなので、御前の撫子が夕日に映えた様子を、独りだけで御覧になるのは、本当に甲斐のないことであった。
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暑いころに涼しい水亭に出て院がながめておいでになる池には、蓮の花が盛りに咲いていた。恋しい人への追懐のためにこの花の前にもうつろな気持ちを覚えておいでになるうちに、日も暮れに近くなった。はなやかに蜩の鳴く声を聞きながら、撫子が夕映えの空の美しい光を受けている庭もただ一人見ておいでになることは味気ないことでおありになった。
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Ito atuki koro, suzusiki kata nite nagame tamahu ni, ike no hatisu no sakari naru wo mi tamahu ni, "Ikani ohokaru?" nado, madu obosi-ide raruru ni, hore-boresiku te, tuku-duku to ohasuru hodo ni, hi mo kure ni keri. Higurasi no kowe hanayaka naru ni, o-mahe no nadesiko no yuhubahe wo, hitori nomi mi tamahu ha, geni zo kahinakari keru.
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2.4.2 |
「 つれづれとわが泣き暮らす夏の日を
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「することもなく涙とともに日を送っている夏の日を
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つれづれとわが泣き暮らす夏の日を
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"Ture-dure to waga naki kurasu natu no hi wo
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2.4.3 |
かことがましき虫の声かな」
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わたしのせいみたいに鳴いている蜩の声だ」
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かごとがましき虫の声かな
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kakoto-gamasiki musi no kowe kana
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2.4.4 |
蛍のいと多う飛び交ふも、「 夕殿に蛍飛んで」と ★、例の、古事もかかる筋にのみ口馴れたまへり。
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螢がとても数多く飛び交っているのも、「夕べの殿に螢が飛んで」と、いつもの、古い詩もこうした方面にばかり口馴れていらっしゃった。
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蛍が多く飛びかうのにも、「夕殿に蛍飛んで思ひ悄然」などと、お口に上る詩も楊妃に別れた玄宗の悲しみをいうものであった。
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Hotaru no ito ohou tobi-kahu mo, "Seki-den ni hotaru ton de" to, rei no, huru-koto mo kakaru sudi ni nomi kuti nare tamahe ri.
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2.4.5 |
「 夜を知る蛍を見ても悲しきは
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「夜になったことを知って光る螢を見ても悲しいのは
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夜を知る蛍を見ても悲しきは
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"Yoru wo siru hotaru wo mi te mo kanasiki ha
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2.4.6 |
時ぞともなき思ひなりけり」
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昼夜となく燃える亡き人を恋うる思いであった」
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時ぞともなき思ひなりけり
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toki zo to mo naki omohi nari keri
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注釈166 | いと暑きころ | 2.4.1 |
注釈167 | いかに多かるなど | 2.4.1 |
注釈168 | ひぐらしの声はなやかなるに御前の撫子の夕映えを | 2.4.1 |
注釈169 | つれづれとわが泣き暮らす夏の日をかことがましき虫の声かな | 2.4.2 |
注釈170 | 夕殿に蛍飛んでと | 2.4.4 |
注釈171 | 夜を知る蛍を見ても悲しきは時ぞともなき思ひなりけり | 2.4.5 |
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出典12 |
いかに多かる |
悲しさぞまさりにまさる人の身にいかに多かる涙なりけり |
古今六帖四-二四七九 |
2.4.1 |
出典13 |
撫子の夕映え |
我のみやあはれと思はむきりぎりす鳴く夕影の大和撫子 |
古今集秋上-二四四 素性法師 |
2.4.1 |
出典14 |
夕殿に蛍飛んで |
夕殿蛍飛思悄然 秋灯挑尽未能眠 |
白氏文集十二-五九六「長恨歌」 |
2.4.4 |
出典15 |
夜を知る蛍 |
蒹葭水暗蛍夜知 楊柳風高雁送秋 |
和漢朗詠集上-一八七 許渾 |
2.4.5 |
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Last updated 2/12/2002 渋谷栄一校訂(C)(ver.1-2-2) Last updated 2/12/2002 渋谷栄一注釈(ver.1-1-2) |
Last updated 2/12/2002 渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2) |
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Last updated 10/13/2002 Written in Japanese roman letters by Eiichi Shibuya (C) (ver.1-3-2)
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Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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